2010年8月20日金曜日

神の道 鉄の道

まとめて書く時間が、ほんっとに取れなくて間が空いてしまってすいません。
ぐーたらしてる訳です。いや違ったぐーたらしてる訳じゃありません。(かな?)

阿波には、昭和の初めの頃まで製鉄のため、多くの「踏鞴(たたら)」があり
それぞれに、たたらの組があったそうです。その数、数百組と言われています。

国府近辺では、
西矢野奥谷  日からす組
宮谷     都(みやこ)組
東矢野    東(あずま)組
延命     寿組
入田     滝天狗組
石井     日づる組
谷又     松葉組
一の宮    はしご組
内の御田   桜命組
和田     恵比寿組
花園     泥恵比寿組

等などです。

「たたら」の図面です。まんま「もののけ姫」に出てくるような造りになってます。
いくつか、「たたら音頭」も記録として残ってます。
たたら組の中でも有名だったのが西矢野奥谷の日からす組で「大のぼり」の話が伝わっています。面白いのでちょっと紹介を。
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明治40年に日からす組が徳島市新町を庭踏みして廻った時に、氏神県社八倉比売神社
(式内社)の大のぼりを借りて持っていった。
ところが新町の呉服屋の主人が飛び出して来て大のぼりを見るなり、こののぼりを
くれたら私の家の上等の反物を20反でも30反でもあげるから替えてくれとのことだった
が氏神さんの借りものなので替えることはできないと断った。

中略

この大のぼりは阿波藩主が参勤交代の時に使用したもので木地は当時のヒジタで当時は
ヒジタ、ゴフロク、ビロードが高級品で、ましてこの大のぼりは25万石の権威をもって
作ったものでヒジタを少女の血で染めぬいていた。
今でも氏神さんにあると思う。

後略

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西矢野のたたら組が藩主ののぼりを借り受けられるほどに権威があったことを示す
話でしょう。また、八倉比売神社への崇拝をもよく示しています。

なんでこんな記事から書き始めたかと言いますと、阿波にはあちこちにたたらの歴史
つまりは鉄を鍛えて来た歴史があったと言うことが言いたかったのです。
もっと時代を遡れば、入田町 天神社 でも書きましたが、天目一箇(あめのまひとつ)神
の祀られている神社、もしくはその近辺には鉄を作って来た跡があるはずなのです。
上で書きました。入田には滝天狗組というたたら組がありました。
これは天目一箇神が劔を鍛えて来たことの継承でしょうか。

さて、天目一箇神といえば本家本元「天目一神社」を外すことはできませんよね。

天目一(あめのひとつ)神社」です。場所はここ。






ちょうど、昭和の御造営時の資料がありましたので、書いてみます。

御祭神
祖神 天目一箇命(あめのひとつのみこと)
天麻宇羅命(あまつまうらのみこと)とも天之麻比止都禰命(あめのまひとつねのみこと)
ともまた天久斯麻比都命(あめのくしまひとのみこと)とも申されて天津彦根命(あまつひこねのみこと)
の御子神に在して天照皇大神が天岩戸に御隠れ遊ばされた時に刀斧その他の刄物や鐵しゃく
などを御作り遊ばされた由、天孫が大物主神を奉祀なされた時にも種々の金物をお造り遊ばさ
れたのは、天目一箇命の御神裔であったと伝えられている。
斯うした由縁から古来鋳工鍛工等フイゴを使用する総ての業を営む人たちから御祖神として
仰ぎ祀られ崇敬され来った神様である。後世、筑紫忌部、伊勢忌部など云う氏人は、皆その
末裔である。

とあります。筑紫忌部、伊勢忌部など云う氏人は、皆その末裔である」なのです。

御神紋は鎚のようです。

裏手にはこんな碑が。


「炉」を祀ってあるようです。
たたら組から遡って天目一箇命に至れば、忌部にたどり着き、ならば神武天皇東征時に
鋳造、鍛造の技を持って軍に貢献した、というより必要不可欠の存在だったはずです。
この天目一箇命とたたら場の跡を追えば、神武天皇東征の実際の跡が出てくるのではない
でしょうか。
勝手に自慢すれば粟や麻、養蚕をもって忌部の跡を追う研究者はいても鉄と「たたら」と
神々の系譜を関連づけてた研究者は県内ではまだいないはずです。(いたらごめんなさい)

さてさて、長々と書いてきましたが、もう少しだけ時代を遡ります。
古墳時代、そうです「矢野古墳」です。


上が発掘のグリッド図です。家のすっごく近くですぅ。
で、南環状線工事をするのに「これだけ」しか発掘調査しないんですぜ。
どう思います?


鉄器が出土しています。上の写真は鉄の鏃(やじり)です。
弥生時代の古墳と言うことですが、弥生時代って長いですよね。




これも凄い「朱」付着土器




出土品に関する解説資料も開示されています。

さらに驚くべき出土品は、



「砂鉄」の入った壷です。さらに近辺では銅鐸も出土し、青銅器から鉄器への
工作技術の遷移期を伺える貴重な資料だと思います。

ただ、矢野古墳では原始的な炉しか発掘されてなく、勾玉等の研磨に使ったとの
推測や、高温精製技術がなかったとの見方もありますが、鋳造でなく鍛造ならば
日本刀の制作法でご存知の通り、備長炭程度の比較的低い温度で鉄器の作成が充分
可能なのです。

つまり神武東征は忌部の作成した鉄剣、鉄刀など圧倒的な軍事力を持って初めて
可能だったということが考えられるでしょう。

学生時代、「金属技術の歴史講座」の課題で、京都の寺院の梵鐘の鋳造技術を調べて
廻った者としては、この辺りに着目する方がいないのがひじょーに歯がゆい所です。

で、この矢野古墳の「砂鉄が入った壷」の出土跡、どうなっているでしょうか。



こうなっております(涙)。南環状線予定地です(涙、涙)
少し黒っぽくなっている辺りがそうです。(涙、涙、涙)
そして、こうなってなお再調査するそうです。


こんなのが立ってますけど、いまさら何をするんでしょうね。

矢野古墳出土品等については
を参考にさせていただきましたが、写真、図面等については独自に撮影、入手したものです。


もうちょっと、いろいろ書こうと思ってたんですが、なかなかまとまらないもんです。
で、キレイに終わればいいんだけど、そう行かないのが阿波の神様の深い所で、
じゃあ天目一神社」から分祀した八万町の「天一神社」はと調べると御祭神はなぜか
天之御中主であられられますし、入田や近辺の天神社を調べても「天目一箇命」
に関係してるような気配もなし、じゃあ「嵯峨天一神社」はとか調べてると全く収拾が
着きません。

うーん、「頭がはちはち」する。

15 件のコメント:

  1. 朝、コメントを入れてから仕事にいったはずが・・・
    また反映されていませんでした・・興奮し過ぎが原因か???

    今朝はシャキッと目が覚めました♪
    「鍛冶工房」には興味津津です(*^_^*)♪
    阿波は、鉱物資源的にも恵まれた場所です♪
    大断層の「中央構造線」は、阿波にたくさんの恵みをもたらしています!!
    ワクワクしています♪

    (●^o^●)♪

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  2. to すえドン さん
    ありがとうございます。
    矢野遺跡(本文中は全部矢野古墳ってなってますね、反省)の
    発掘資料を見てるうちに、ふと思いついて調べてみました。
    まだ、とっかかりですけど、これは範囲が広すぎて「えらいこっちゃ」です。

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  3.  イコピコのひとりごと2010年8月22日 14:10

    ぐーたら先生。こんにちは。
    先生は学生時代から鉄に着眼されていたのですね!
    ごつい!尊敬いたします。

    私はというと、今「板西」と「板東」の間の、
    失われた「板」を探しているのです。
    「板」が見つかると、これは結構凄いことに
    なると思うんですが・・・。

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  4. to イコピコのひとりごと さん
    あちらへもコメントありがとうございます。
    >学生時代から鉄に着眼されていたのですね!
    今思えばなんであんな講座採ったのかよくわからないんですけどね(笑)
    でも、鉄は面白いですよ。
    すえドンさんのように「鉄道」もありますしね

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  5. 鉄をキーワードに邪馬台国を推論している本があります。
    「邪馬台国と狗奴国と鉄」菊池秀夫著
    私も同じように古代の製鉄に興味があり、色々調べています。(全然進みませんけど)
    「鉄は国家なり」と近代言われておりましたが、古代もそうだったと思います。
    農耕にも戦にも鉄を使うと効率が違います。
    しかし、銅などと異なり、鉄は直ぐに錆びてしまい、小さなものだとなかなか残りません。
    短刀などは、ひょっとすると銅剣よりも広く普及していたのではないかとも思ったりします。

    阿波と鉄、面白いと思いますね。

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  6. 日本においては、銅から鉄へ遷移していないと思います。
    ほぼ同時平行的に生産されていたのではないでしょうか?
    (これは裏はありません、推論です)

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    1. >ほぼ同時平行的に生産されていたのではないでしょうか?
      面白い説ですね。
      でも、「あり」だとは思います。
      ちなみに本文で書いていた「砂鉄」は、この近辺の産ではないかと、これも推論ですが。
      この辺り、地下水も鉄分が多くて飲料に適しない程なんです。

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  7. 何故、鉄と銅が同時平行なのかと推論しているのか?
    それは、あまりに低い温度で鉄が出来ることが解ったのでそう思うのです。あれだけ大きな銅鐸を作る技術があれば、鉄剣などたやすいと思うのです。(むしろ精銅より製鉄が簡単だったかも)

    もっとも、ガラスを作っていたそうですから、温度にそれほどこだわらなくてもいいのですけども。

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    1. 一つ疑問に思うのが、400°で精錬された鉄器が、通常の800°以上での鍛鉄と同等の強度を持つものかどうか。
      また、400°の低温で、できるものならば、阿波とか美馬に限らず、どこの地方でも製鉄ができたと云うことになりますので、決定的な証拠になりえないと思いますが、いかがでしょうか?

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    2. 鉄は微量に混ざる他の物で随分物性が変化します。
      例えば、炭素がよい例です。多いと、鉄瓶のような感じになりますね。ただ、400度と製鉄温度が低ければ炭素が溶け込まないので脆くはなりません。原料の鉄の純度が高く無い場合、高温で製鉄すると要らない物まで溶け込み脆弱になるのです。(徳島県南部で多いマンガン鉱はどうなるのかを考察しております。マンガン含有が高いとガラスのようになるようですね。)


      作刀する時、熱して赤い時に折り返し打つのは、不純物を叩き出す意味もあります。すなわち赤くなる程度に熱して、叩き台の上で打つと不純物が除かれ純度が上がります。(鉄はくっつき、他のものは飛び散ります)松炭(高温)を使う雲州(山陰)より雑木交じりの炭(低温)を使う備前伝(山陽)の刀に優秀なものが多いのもなんとなくうなづけます。


      「決定的な証拠」ということをいいたいのでは無く、鉄加工関連の遺跡やたたらの規模が小さいと推定される徳島でも十分鉄を生産できたのでは無いかということが言いたいのです。(考古学的には近年こそ遺跡の発掘がありますが、無いに等しい状態でした。そんなところでも、鉄は製鉄できたのだということを言いたいのです。)

      あと人類史上、銅の文化の後に鉄の文化が来たようなことをいう学者が多いのですが、実際はそうでは無かったと思います。日本は渡来系の技術によって銅と鉄が同時並行的に進んでいったかのように言われていますが、これも間違いだと思っております。

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    3. 成る程
      >加工関連の遺跡やたたらの規模が小さいと推定される徳島でも十分鉄を生産できたのでは無いかということが言いたいのです
      ということですか。
      了解です、その辺りに異論はございません(笑)
      無論、その他の点で異論はございますが(異論はあって当然ですよね)、また稿を改めて持論もお話しできればと思いますので(笑)

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  8. ご無沙汰しております。鳴門の土人です。
    この製鉄遺跡と淡路島の五斗長垣内遺跡との繋がりを何かご存じありませんか。

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    1. すいません。具体的な繋がりについては知りません。
      矢野遺跡も五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡も時期が明確でないですよね。
      ただ、五斗長垣内遺跡附近で鉄の産出はなく、あくまで工房として機能していたようですので、あるいは阿波か兵庫近辺の勢力と関係づけられるのが妥当だと思います。

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  9. こんばんは。
    ありがとうございます。
    五斗長垣内遺跡を書いた記事には AD 20・30年頃からAD200年頃 と出ていたので歴史ロマンを期待していました。
    また教えてください。

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    1. いや、あくまで私見ですので。
      違ってる場合も「多々」あります。
      でも、なかなか歴史ロマンにつながる事実って少ないですよね。

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