2010年3月21日日曜日

今日までの復習

風土記編輯御用掛についてここまでの所を復習しようと
もう一度後藤尚豊翁手記を確認しておりました。
震えが止まりません。

「ふるさと阿波」の記載を転載いたします。
誤字があればお詫びいたします。

風土記編輯御用掛  長久館出仕          松浦 宗作
末九月松浦氏へ同勤  士族五人御扶持
               常三島       渡辺 圓
               同         八木 正典
               御弓町       郡 一郎平
               佐古 椎宮下神職  生島 瑞穂
 南分右同惣而士族御用取扱  板野郡坂東村神職  永井 五十槻
 郷学所ヘ出ルニ付除ク    阿波郡尾開村士族  四宮 哲夫
               同郡香美村神職   浦上 美澤
               美馬郡上野村神職  二宮 香取
               三好郡盡間村神職  近藤 忠直
               麻植郡山崎村郡付卒 久富 永治郎
               名西郡諏訪村神職  多田 義高
 明治四年末七月二十三日   名東郡早渕村郡付卒 後藤 麻之丈
               勝浦郡小松島浦   八木 佳七
               那賀郡吉井村    服部 友三郎
               同郡大京原村    高石 延吉
               海部郡郡奥浦    桂  弥平
               同郡牟岐浦神職   榊  枝直
 従事セヌウチニ転      同郡同浦神職    阿部 三豊
 ジタラシキニ付除ク
                     徳島  小杉 榲郎
                 名東 新居 正氏ヲ脱セルカ

とありました。小杉榲邨氏については「小杉 榲郎」となっています。
先に小杉榲邨氏の名が見えないと書いたのは間違いです。
そうです、全部私が悪いんです。(なんじゃこりゃ)
そして名面の説明です。ここからは書簡でなく阿波国書誌解説」の文書です。

松浦 宗作
仲之町(八百屋町)の人。字は長年、野口年長の門人 国学家、明治十年十月歿。年六八
著書 「土御門院御陵考註」「神輿幽考」「阿波国御風土記」

渡辺 円
徳島市助任村六百三十五番屋敷、士族渡辺六郎長男、文政二年三月二十五日生 神職
明治三十四年二月二十五日歿

生島 瑞穂
庄附近の人 矢三 八坂神社、三島神社の神職 著書「忌部神社者略」瑞穂は繁高と
同一人か。

永井 五十槻
名は精浦、精古の孫、天保七年一月十七日生、大麻比古神社神主、忌部神社主典、
桧愛宕神社社掌、大正二年四月八日歿、年八七(大森絹栄氏報)

四宮 哲夫
初名 哲之助 文政十年二月十九日生、名は利貞 金谷と号す 儒者
晩年失明す、明治二十三年二月七日歿、年六四

浦上 美澤
名は和延 天保九年九月二十三日生、近藤忠直と共に「阿波郡風土記」を遍す。
明治二十三年二月七日歿 年六四

近藤忠直
文政五年十二月二十日生、国学家 明治十二年高知県出 史誌編纂掛り
宝国小志(郡村誌)三好郡之部。井成谷、井川、池田、馬路、白地 各村誌を著す。
明治三十一年五月二十日歿。

久富永字治朗
山崎にこの姓の人なし、知る人なし(吉尾十代一氏報)年七七

多田 直清
兵部近江上浦の人「村邑見聞言上記」(名西、麻植)を著す。
明治九年十二月六日歿、義高は直清と同一人物か。

後藤 麻之丈
尚豊、明治五年二月まで編纂、名東 勝浦据任
大正三年十月九日歿、年七六

八木 佳七
名は直元、俳人、五日庵其家 日野八坂神社神職
明治十三年一月歿、年七〇

服部 友三郎
庄屋で寺子屋の師匠、明治四年里長 明治十三年一月歿
年七〇(佐々忠兵衛氏報)

高石 延吉
絶家 墓所不明(中西長水報)

桂  弥七(弥平?)
文化十一年三月十日、木岐浦若山家の三男に生まれ奥浦村桂家に入った。
明治の初 高知県安芸郡に出稼中死亡した。月日年令不明(元木喜好氏報)


後藤 麻之丈氏については、国府町早渕の人で、後藤家文書にも出てきます。
庄屋を勤め、後藤家文書内では「麻之丞」(出てこない「丞」の水の部分が口の漢字)
となっています。
後藤捷一氏がその子孫です。
名西郡諏訪村神職 多田義高氏についてはきちんと調べてはいませんが、現在の石井町
浦庄近辺の神社、日吉神社、王子神社、斎神社の神主が多田姓の方なので前記の神社の
神職であった方だろうと思われます。
同様に「浦上美澤氏」も現在の市場町、天満神社、若宮神社、八幡神社、住吉神社
八坂神社、建布都神社等の神職が浦上姓の方です。

震えが来ませんか。
大麻比古神社神主の方までいます。先に自分で書いといて何なんですけど
ほんとに藩を上げての一大プロジェクトだった訳ですね。
で、麻植郡川田村神主早雲兵部所藏。

おいおい、身の危険を感じそうな..........
だって筑波大学にあったって事は廃藩の時、明治政府が関連文書を全部回収して東京近辺へ
持っていったものが残ってたとか、そんなシナリオしか考えられないじゃないですか。

3 件のコメント:

  1. そうなんですよ。
    いつから筑波にあったのか?どこから筑波に持ち込まれたのか?
    は、大きなポイントなんです。
    とにかく、全ての追求は手に入れてからです。

    それにしても、錚々たるメンバーです。
    連休が恨めしいですね。

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  2. ほんとに待ち遠しいですね。
    それにしても、よくぞここまで来たなと思ってしまいます。
    これものらねこさんのブログのおかげです。
    1年前はナーンにも知らなかったのがのらねこさんのブログを見つけ
    書き込みをさせてもらってるうちに、少しずつ何かが分ってきたよう
    です。まだ根本の所ができてないので的外れの事もいっぱい書いてま
    すが、そこはご愛嬌ということで。
    今度の事がマイルストーンになりそうな気がします。

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  3. 私も初心者ですが、そう考えると、それなりに情報発信して興味を持つ人間を増やすのも意味がありますよね。
    って、真に受けたコメントすいません。
    でも、古代史の解明にはインスピレーションも必要だと思うんんですね。
    で、それは十人十色ですから、自分にはない発想を持つ他人の意見を聞くためにも、興味を持つ人を増やしたいです。

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