2019年9月23日月曜日

岐神再び(3)

岐神再び(1)
岐神再び(2)
より続けます。

「岐神」とは何か?

前出の「岐神信仰論序説―徳島県下の特異性について―」において、近藤教授はこう記す。

祭神は猿田彦命とかさまざまの 説がある」というが、猿田彦命と 岐神は基本的に背景を全く異にする神であり、両者を混同する事は許されない。これを見逃せば岐神信仰追窮の矛先は完全に鈍ってしまい、全くあらぬ方向に暴走してしまう。後に詳述するが、この僅かな隙によって先学の多くの研究者達は陥穽にはまり、二度と抜け出せなくなって終幕を迎えてしまうのであった。油断は禁物なのである。猿田彦命は、瓊瓊杵尊が日向国高千穂峰に降った時の道案内の神であり、天鈿女命と一対で語られる。一方、岐神は先に別稿一で詳述した如く、キ・ミ神話の「絶妻之誓」渡しの条で登場した防塞の神なのであった。道案内と防塞はその機能において真逆であり、その混同は絶対に許されず、もしこれを犯せば両者ともにその存立基盤を根底から覆してしまう。自殺行為なのである。これ程の大きな意味がある事を努々忘れてはなるまい

として、「岐神」と「猿田彦神」との混同を厳に戒めています。
つまり

神話では、『古事記』の神産みの段において、黄泉から帰還したイザナギが禊をする際、脱ぎ捨てた褌から道俣神(ちまたのかみ)が化生したとしている。この神は、『日本書紀』や『古語拾遺』ではサルタヒコと同神としている。また、『古事記伝』では『延喜式』「道饗祭祝詞(みちあえのまつりのりと)」の八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)と同神であるとしている。
『日本書紀』では、黄泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言って投げた杖から来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が化生したとしている。これは『古事記』では、最初に投げた杖から化生した神を衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)としている。
なお、道祖神は道教から由来した庚申信仰と習合して青面金剛が置かれ、「かのえさる」を転じて神道の猿田彦神とも習合した。
wikipedia

とあるように、あくまで道祖神と猿田彦神の習合を前提に「岐神」は岐神「猿田彦神」は猿田彦神、「道祖神」は道祖神であり、別物だとされているのですね。
それはそれで良しなのですが、下記より日本書紀の一節を見ていただきたい。


日本書紀神代下 第九段一書(二)

於是、大己貴神報曰「天神勅教、慇懃如此。敢不從命乎。吾所治顯露事者、皇孫當治。吾將退治幽事。」乃薦岐神於二神曰「是當代我而奉從也。吾將自此避去。」卽躬披瑞之八坂瓊、而長隱者矣。故經津主神、以岐神爲鄕導、周流削平。有逆命者、卽加斬戮。歸順者、仍加褒美。是時、歸順之首渠者、大物主神及事代主神。乃合八十萬神於天高市、帥以昇天、陳其誠款之至。

大己貴神(オオアナモチ)は答えました。
「天神(アマツカミ)の申し出はあまりに懇切丁寧です。
命令に従わない訳にはいかないでしょう。
私が治める現世のことは、皇孫(スメミマ)が治めるべきでしょう。
わたしは現世から退いて、幽界(カクレコト)の世界を治めましょう」
そして岐神(フナトノカミ=道の神)を二柱の神(=フツヌシとタケミカヅチ)に推薦して言いました。
「この神は、私の代わりにお仕えするでしょう。わたしはここから去ります」
すぐに瑞之八坂瓊(ミヅノヤサカニ)を依り代として、永久に身を隠してしまいました。
經津主神(フツヌシノカミ)は岐神(フナトノカミ)を道の先導役として、葦原中国の各国を廻って平定しました。
逆らうものがいれば、斬り殺し、歸順(マツロ=従う)うものには褒美を与えました。このときに従った首渠(ヒトゴノカミ=集団の首長)は大物主神(オオモノヌシノカミ)と事代主神(コトシロヌシ)です。
八十萬神(ヤオヨロズノカミ)を天高市(アマノタケチ)に集めて、それらを率いて天に昇り、正道を説きました。

上記の「岐神」は『「絶妻之誓」渡しの条で登場した防塞の神』とは全く違う「岐神」として記載されています。
一つの考え方として、瓊瓊杵尊が日向国高千穂峰に降った時の道案内を行った「猿田彦神」はある時期には「岐神」として「經津主神」を先導したとは言えないでしょうか。
また、「猿田彦神」の系譜のある時期、例えば「猿田氏(常陸國)」の系譜のある時期、「岐神」と呼ばれていたと言う考え方はできないでしょうか?

例えば、茨城県神栖市息栖にある「息栖神社(いきすじんじゃ)」

息栖神社

息栖神社(いきすじんじゃ)は、茨城県神栖市息栖にある神社。国史見在社で、旧社格は県社。
主祭神
久那戸神 (くなどのかみ、岐神)
社伝では、鹿島神・香取神による葦原中国平定において、東国への先導にあたった神という。




 この「岐神」ですね、「經津主神」を先導した「岐神」は。
ならば、阿波国「船盡比咩神社」が「岐神」の本貫地であったならば、この「岐神」はどこからやってきたのか。
そして、「經津主神」はどこからやってきたのでしょうか。
あるいは「鹿島・香取」の神は。

ご存知ですよね。
延喜式神名帳に全国唯一「建布都」の名を冠する神社を。

建布都神社(たけふつじんじゃ)は、徳島県阿波市市場町香美に鎮座する神社である。
創建年は不詳。江戸時代までは平治権現またはまたは平地祠と称し、「おへーしさん」の愛称で知られた。八幡神社との式内論争の末、明治に現社名に復称。境内には直径17m程度の円墳である建布都古墳が存在する。

『延喜式神名帳』に掲載されている建布都神社の論社の一つで、阿波市土成町郡には建布都西宮神社がある。

祭神
建布都神
経津主神
大山祇神
事代主神
wikipedia





建布都神社
郡村ニ在り郡村ハ和名抄當郡拝師(波也之)郷ノ内ナルベシ山城国葛城郡上林郷アリ
伴氏神社アリ河内国志紀群伴林氏神社アリ河内国林宿禰ハ大伴室屋連男御物宿禰之後
ナルガ河内国若江郡弓削神社ハ弥加布都神佐自布都神ナル事三大実録ニ見エ姓氏録左京
マタ河内国弓削宿禰ハ天日鷲翔矢命ノ後ナル由見エタリ林ハ日鷲ノ転ニテ郡モ翔ト近ク
聞ユ御物宿禰ハ拝原郷ニ成長シテ室家(屋)連ノ家ヲ續シナルベシ

続く

説明・追記が山のようにあるんですが、とりあえずは筋書きを追うのに目一杯です。

0 件のコメント:

コメントを投稿