2019年9月23日月曜日

岐神再び(2)

台風の余波で外に出られなかったので、頑張って書いてます。

岐神再び(1)
より続けますけど第一回目は、「なんのこっちゃ」と思った方も「たくさん」いらっしゃったと思います。
でしょうねぇ(笑)。いーんです、着いてきてくれる人だけ分かれば。
「こない人なんて知りません(県民ならわかる、このフレーズwwwww)

もう一つ資料を提示しておきます。
「岐神信仰論序説―徳島県下の特異性について―」より

徳島県下はフナト神のみであり、他は存在しない事になっている。加えて、フナト神は四国限定であり、他には香川県に二例分布するに過ぎない。事ほど左様に徳島県は岐神信仰の純粋地帯と見做されているのである。全国的に見れば、これは異様な現象であり
以下略

徳島県下においては、道祖神も全て「フナト神」であるのです。
あるいは2千社に垂んと(なんなんと)する、いかに全国唯一の「岐神」の本貫地であることかがお分りいただけるのではないでしょうか。また、その意味においては神山町が大元である事も異論は少ないのではないでしょうか。
あるいは、木屋平、上那賀も残された祠の数において、重要な地であることは言うまでもありません。

では、祠ではなく「神社」として、いくつかを見ていきたいと思います。
よりみれば
徳島市北沖洲の「船戸神社」、御祭神「久那斗神」(徳島県神社誌)


徳島市住吉3丁目「船戸神社」 御祭神「久那斗神」(徳島県神社誌)


国府町花園「船戸神社」 御祭神不明


海陽町 小那佐 「船戸神社」御祭神は「船魂神」
例祭は大里の「船戸神社」が11月23日なので、まず同日であると推測し、新嘗祭との関連が伺えるのだが、その場合「船魂神」との関連は薄いと思われる。
ただし、神山近辺の「岐神」関連の祭日は11月16日あるいは1月16日であるため、これも微妙な違いがある。
ただ、「仮に」御祭神が「岐神」であった場合、近辺に残る地名「牟岐」「由岐」「木岐」等「岐」の付く地名の関連が想像されるのではないでしょうか?
写真は、ブログ「海部川紀行」「和奈佐彦」様提供

で、特徴的であるのがこの神社なのですが
鳴門市撫養町木津「船戸神社」御祭神「来名戸神(くなとのかみ)」(徳島県神社誌)


この系譜を直接引くものは、鳴門市木津であった。その根拠は例祭が旧11月16日であった点、また「おふなたはん」と呼ばれ親しまれている点であった。余りにも神山町の岐神信仰の名残りを留めていると思われるため、実際に現地に行き、氏子から聞き取り調査を試みたのであるが、近藤の予測は見事に適中した。祭日は、紙綿着の儀礼が行なわれる11月16日の他に、これと対の祭礼日である帷子としての1月16日まで設けられていた。さすがに綿着・帷子の一対の供物は既に忘れ られ、旧暦11月16日が新暦12月16日に焼き直 され、来るべき新年のお札を受ける日、そして1月 16日が旧年のお札を境内で焼いて納める日と解釈が変わっていた。しかし、鳴門市木津のオフナトサンは女の神サンで、子供が16人もある子沢山の神であり、氏子達 からは子宝を授ける御利益があると信じられていた。
徳島県下における岐神信仰に関する言説(一部編集)

と、神山とほぼ同一の祭祀と伝承が鳴門市の木津に残っていたことが驚異的ですよね。
つまり阿波国の「岐神」は、一部例外を除き、ほぼ全県下同一神を祀っていることが伺えるのです。
あるいは、後述いたしますが「岐神」の遷座ルートを示しているのかもしれません。

ちなみに「徳島県神社誌」の記載は
この程度しかありません。
んでもって、「船盡」という記載についてなんですが


見ての通り「はて」っていう読み方は「ない」のですね。
これも近藤教授の弁ですが、神山では御祭神を「オフナトハン」「オフナタハン」と呼ぶのなら「船盡」は「ふなと」と読まねばならないとまでおっしゃっておられます。

では、ここらまでで前置きがある程度終わったと思いますので(ホント?)、次にもう一度「岐神」について考えてみたいと思います。
(続く)
着いてきてくれるかな




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