2012年12月2日日曜日

八人塚古墳見学会報告

そ〜なんですよね。
babymamaさんの指摘通りです、報告を書いてませんでした。
すえドンさんの方で書いてたので「もういいかな」なんて勝手に思ってました(汗)
それにしてもやたらと濃いメンバーが集まってしまいました(笑)
ワタクシめなど手も足も出ないようなメンバーです(笑)
えーと、まずは資料から出しておきます。
前回も書きましたように


八人塚古墳
徳島市名東町1丁目「眉山カントリー」内にある。
八人の武将を葬っていることからこの名前が付く。

集成、古墳(前方後円墳)。<立地>尾根先端。標高100m、水田からの比高90m、方位N10度W、造出なし、周濠なし、周庭なし、墳長60m、後円径30m・高4m・頂径約12m、前方幅15m・長30m・高1m、くびれ幅13.5m、後前高差-3m、葺石あり(後円部に積石)。 前方部に盛土。(内部主体)位置:後円部中央か(複数か)、槨:竪穴式石槨か。
古墳時代初期の積石塚古墳としては日本最大級の規模。



上図「1」が「八人塚古墳」ですね。
このように鮎喰川をはさんで近辺にやたらと古墳が存在しております。
それも三世紀前期から中期をも含んでおります。
このように、この近辺は古墳の超密集地帯なのです。
また近辺の古墳からは三角縁神獣鏡、銅鐸、銅剣、また鉄器、砂鉄等も出土しており古墳時代の文化の最重要地域である事は間違いないでしょう。
そして「八人塚古墳」
下写真の看板にもありますように積石塚の前方後円墳としては全国で最大級のものです。
それが「未発掘」(笑)上の資料も測量のみ。

生憎の雨模様の中、古墳の上をウロウロしております。

さてこの「八人塚古墳」このように徳島県産の青石(緑色結晶片岩)を使った古墳です。
近畿の「葺石」を使った古墳はいわゆる構造が単純で阿波の積石塚を模倣しようとしてできなかったため、このような様式になったと言われております。

また、近畿の古墳には阿波産の青石(緑色結晶片岩)が大量に使われており、このことも前方後円墳の東四国起源を伺える材料の一つになっております。
最近ではホケノ山古墳(奈良県桜井市大字箸中字ホケノ山に所在する古墳時代前期初頭の纒向型といわれるホタテ貝型の前方後円墳)に徳島県産の青石が使用され、構造も徳島県鳴門市の「萩原2号墳」と同一である事が明らかになっています。
構造が同じで、材料が徳島県産の青石ならばどちらが本家本元なのか想像に難くないと言うところですね。
徳島県産の青石はいわゆる「ブランド」だった訳なんですよ。
それを「纒向型」ってねぇ。
「纒向型」じゃなく「八人塚型」って言いなさい。まあ同形のは高松市の「鶴尾神社4号墳」もそうなので「東四国型」でもいいですけど。(笑)
また奈良県桜井市にある前方後円墳の箸墓古墳、この造成が西暦260年頃ですが、鳴門市の「萩原墳丘墓」は箸墓古墳から遡ることおよそ50年、西暦200年前後と言われている事を付記しておきます。


えーとそれで、後円部には白色円礫が撒いてありますと受け売りです。

古墳から降りてくると、すぐ下には鮎喰川、気延山もこのように見えます。
敢えて言うなら、古墳時代はここから気延山のすぐ下まで水面が広がっていた訳です。
すぐ下には「広濱神社」があり、少し北側(写真では右側)は石井町の「内浜」の地名が残り海進の様子がうかがえます。

あと、県内の同時代の古墳としては丹田古墳、奥谷二号墳などがあります。
学者によっては、この積石塚の前方後円墳が古墳群を作らず単体でしか存在しないので、古代豪族の権力がこの近辺には集中してなかったかのような書き方をする方もいらっしゃいますが、積石塚の前方後円墳は首長クラスの墳墓なんだから、そうそう数を作るはずがないでしょう。

と、八人塚古墳見学会報告だか、前方後円墳の東四国起源説の紹介だかわかんなくなっちゃいましたが、そのくらい凄い所だってことです。
それがゴルフ場の中に(笑)
徳島ってどんなトコだよって言われそうですね。

それにしても西暦2百数十年頃の八人の武将って誰の事なんでしょうね。
やっぱトップは「◯◯ノ◯命」なんですかね、すえドンさん。(笑)

4 件のコメント:

  1. お疲れ様です!!
    私はそう信じております・・・!!
    上流に須賀山もありますし・・・(^O^)♪

    また、勉強会をしましょうo(^▽^)o

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    1. 先日はありがとうございました。
      いやぁ、楽しかったですね。

      また機会を作って、その時もお願いします。

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  2. ありがとうございます。
    拝見しているだけでワクワクします。
    地図がなんともすごい状態。
    積石塚は高句麗で主流だった墓制とのこと。そのあたりの比較研究を埋蔵文化財センターさんには、ぜひ頑張ってほしいものです。

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    1. 気延山近辺だけで古墳は200基を越してますから、ちょっと範囲を広げるだけでとてつもない数になります。

      んーと、確かに積石塚は高句麗で主流だったのですが、徳島のとは系統が違うようです。
      東三好町の足代東原古墳群や鳴門市の萩原古墳群などは弥生時代後期の積石塚墳丘墓の系統で
      これに対して大阪府柏原氏国分原臼塚古墳などが高句麗積石墓の系統だそうです。

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