2012年8月20日月曜日

8月18日「石井古事記研究会」より(2)

「8月18日「石井古事記研究会」より(1)」からの続きです。
もう一度史蹟地図を見ていただきましょう。
左下の一部を枠で囲んであります。所に「河辺寺跡」と記されております。

ここが「河辺寺跡」ですね。



河辺寺跡は、四国山地の山沿いに位置する古代寺院である。
 江戸時代の記録にみられたが、場所などははっきりとしていなかった。昭和29(1954)年に田の耕作中に、大形の石や瓦が出土したことから、記録にある河辺寺と考えられるようになった。
 2005(平成17)年の徳島県埋蔵文化財センターの調査では、これまで知られていた礎石17カ所の他に,礎石を取り除いた穴10カ所と東西の基壇を確認した。この調査結果から、この礎石建物が4間×5間の規模の金堂と分かった。
 建物の周囲からは、瓦が大量に出土した。出土した瓦の文様の特徴などから、寺が奈良時代(8世紀)に建てられたことも分かった。
 徳島県の古代寺院は遺構の配置などはっきり分かっていないものが多く、建物の規模などが分かるものとして貴重な調査例である。
 遺跡を見学するには、旧伊予街道(県道西浦・下西線)から、飯尾派出所の交差点を南へ500m。
徳島県立埋蔵文化財総合センター資料より

そしてちょっと離れますが、同じく鴨島町敷地に「敷島神社」があります。




御祭神 事代主命
合祀 式内社
阿波國麻殖郡 天水沼間比古神(社)天水塞比賣神社二座
徳島県吉野川市鴨島町にある。
西麻植駅の南2Kmほどの敷地に鎮座。

社号標には、以下の社名が刻まれていた。
「河邊 八幡神社 梅宮神社 西宮神社 山神社 敷島神社
雨足 天水沼比古神社 天水塞比賣神社
神木 諾冊神社 山王神社」



当社の創祀年代は不明。

通称は、西之宮。
江戸時代までは、西宮八幡宮と称しており、
明治になって、周辺の小社を合祀し、敷島神社と改称したもの。
社号標にある「河邊 八幡神社」が当社の元の形。

合祀されている「雨足 天水沼比古神社 天水塞比賣神社」が、
式内・天水沼間比古神社 天水塞比賣神社の論社。

合祀以前は、雨足神社(無格社)と称しており、当社の東400mほどの場所、当社参道の北側の小祠に祀られていたもの。
雨足神社は、天足社とも書かれ、明治四十二年九月に、当社に合祀された。

この合祀されている「河邊八幡神社」石碑の残る場所より、もともとは「河辺寺」の傍にあったと考えられます。

そして大正六年の「麻植郡郷土史」には「忌部の伝説」としてこう書かれてあります。

この地忌部に関する伝説は頗る(すこぶる)多い、史実改名ならされども参考として茲(ここ)に掲ぐ。
 壇の原と称せる地あり、東西三十間南北四十間計り(ばかり)平地あり。附近に古松あり忌部松と称す、字西の宮山上 天日鷲命御陵ありと伝う先年村人開拓せしに、原史時代営造せし古墳にして鉄器、土器等を発掘せり、式社略考に曰く西麻植村に小字廣堂(現在広畑)と称せる地あり、往昔は堂と云い西隣(西隣村のこと)に神後(じんご)あり、東(西の間違いか)に接して、絵馬堂と云う地あり、上古広堂附近に忌部神社ありけるが、洪水に流失し、其後兵乱打続きし故再建に至らすと云へり。
 又、中内神社は其当時流出せし忌部神社を仮に祭祀せしなり、とも云う。其他地名に馬場、的場、御供田(ごくでん)、巫塚(みこづか)、土器メン、麻植市等あり、又四基の立石と称せるあり、一基は神後、二軒茶屋、一基は山田村、一基は敷地村、一基は西麻植村田渕にあり、而して安房忌部の祖太玉命を祭祀せる官幣大社安房神社は安房国(千葉県)安房郡神戸村にあり、此地字敷地村小字に神戸あれり、忌部の大社ありしならんとの口碑を伝う。

敷地村「神戸」にあったのは「河邊八幡神社」。
「河邊八幡神社」は忌部の大社であったと思われるのです。
そして「麻植郡郷土史」に書かれているように

安房忌部の祖太玉命を祭祀せる官幣大社安房神社は安房国(千葉県)安房郡神戸村にあり


安房の国一の宮、安房神社略記を出してみましょう
安房神社公式ホームページからの転記です。

御本社御祭神(上の宮)
日本産業総祖神・天太玉命、相殿后神・天比理刀咩命
御摂社御祭神(下の宮)
房総開拓の祖神・天富命(天太玉命御孫神)、日本武道祖神・天忍日命(天太玉命御弟神)

由緒・神徳
房総半島の南端神戸郷に静まり座す旧官幣大社安房神社は、天太玉命を主祭神に天比理刀咩命を配祀として奉斎し、摂社下の宮に天富命をまつる。
延喜の制には名神大社に列せられ、安房全域を神都として有した全国屈指の名社である。本社の主祭神天太玉命は中臣氏の祖神天児屋根命と相並んで天照皇大神の側近に重臣として奉仕し、政治・祭祀・農漁業・建築・金属工業等、諸産業の祖神を統率された大力無双の神に坐す。
天照皇大神が天石窟に御幽居あらせられた時には、大神の出御に大功を顕わされた。
房総開拓の神として下の宮に祀らるる天富命は、天太玉命の御孫にあたらせられ神武天皇の重臣に坐す。
天富命は、勅命を体して四国阿波国忌部族の一部を割いて海路東方に沃土を求められ、最初に占拠されたのが房総半島の南端、即ち現在の安房神社の鎮座地であって茲に本拠地を定めて祖神天太玉命の社を建てた後、次第に上総・下総に進み房総半島に麻穀を播殖しその産業地域をひろめられたのである。
安房神社の御祭神は、日本産業の総祖神として崇められ更に現在では交通安全、厄除開運家内安全、商売繁昌等、関東地方随一の神社として信仰が厚い。

安房神社は安房国(千葉県)安房郡神戸村にあり
忌部の大社であると口伝により伝えられた「河邊八幡神社」は鴨島町敷地村小字神戸にあるのです。

また、この「敷地村」という村名

敷地は通常、川底だった所が地面となった地をいう。国府町の敷地がその例であるが、鴨島町の敷地村は川は多いが村全体が川底であったはずも無い。
これは敷地は実は「式地」と書き、忌部の祭祀を司っていた土地である事を示す。
のです。

また「神戸」の字名については兵庫県神戸市の例を見れば


(参考)神戸地名の由来
歴史をさかのぼってみると、神戸が「神の戸」と表されるようになったのは、生田神社の神戸(かんべ)に由来しているとされています。神戸(かんべ)というのは、古代から神社には封戸(ふこ)と呼ばれる神の戸なるものがあり、生田神社には四十四戸の封戸が与えられていました。この封戸とは、税を納めて神社を支える民家のことをいいます。

生田神社、安房神社と大社クラスの神社を支えた封戸(ふこ)のある地の事を言うのです。
この伝でいえば「河邊八幡神社」が大社であった事を想定しても、何もおかしくないと言えるのではないでしょうか。

続く♡




9 件のコメント:

  1. 直接お聞きしたかったです!残念!
    とっても知りたがったことが沢山書かれていて、何度も読み返しています。
    ただ、私の頭が活字の多さと自分の妄想が交差して・・・。
    まとまりませんっ!

    なので、やっぱり何度も読み返し、その奥深いお話を少しでも理解できたらなぁ。
    がんばろっと。

    不思議がまたひとつ。
    安房の国へ、何故に?
    とっても楽しい不思議で、うれしい悲鳴です。

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  2. おいでになれば良かったのに。女性なら大歓迎です(笑)
    遠すぎますか?

    >安房の国へ、何故に?
    単純に阿波忌部一族が海路で進出しただけですよ。
    まずは東京都伊豆諸島の神津島に(「阿波命神社」があります)
    そこから安房、富崎村の布良へ(布良崎神社(めらさきじんじゃ))
    そして安房神社。
    そして関東へ。
    天日鷲命を祀る酉の市として残っています。
    天日鷲命神社もあるでしょ、阿波忌部の祖ですよ。

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    1. >女性なら大歓迎です(笑)
      アレッ?!
      今までに何処かの文面で、お疑いにっ?
      妄想好きの大和撫子ですよっっ(笑)。

      >遠すぎますか?
      遠いですねぇ。なのに、なんでこんなに阿波忌部に惹かれるのでしょう。
      (あ、ぐーたら先生のサイトにもですっ。)

      先日、ノートをまた一冊新調しました。
      教えていただいた神社等、記していきたいと思います。
      これからも、よろしくお願いいたします。

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    2. 東京辺りならそう遠くはないでしょう(笑)
      ところで、家で採れた「スダチ」いります?
      今年は暑さのせいか小振りで種が多いですが
      数はまあまあありますので、よければ送りますよ。
      メールででも連絡ください。

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  3. ヤマタロウ研究所2014年11月12日 12:09

    最近 佐那河内村下に、ゴミ焼却場の建設するとのことがあり、問題になっています。
    天皇家の墓が佐那河内、神山には、存在しておりまだ、発掘されていないものがあります。工事するまえに調査をしなければなりません。
    神社があるのは、移動するとかいっています。
    ヤマタロウ研究所は調査しにいく計画をしています。
    石井古事記研究会としても、ぜひ調べてほしいです。

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    1. すいません、お返事が非常に遅くなりまして、申し訳ございません。
      佐那河内村ゴミ焼却場予定地というのはどのあたりになるのでしょうか?
      もし本当にどこかの神社、社地にかかるのなら、おっしゃるように十分な調査が必要だと思われます。
      多分、行政はあてにならないでしょう。

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  4. はじめまして。こちらには由来を知りたかったり馴染みがある名前や地名が詳しく載せられていて、楽しく学ばせてもらっています。

    >これは敷地は実は「式地」と書き、忌部の祭祀を司っていた土地である事を示す。
    そうなんですね! もしかしたら、土佐国幡多郡の敷地氏は秦氏じゃないか、と想像してたのです。ちなみに、高知県には式地さんもいらっしゃいますよ。

    土佐国幡多郡では鎌倉時代末期から室町時代にかけて敷地氏・布氏・入野氏などが幡多荘の押領をもくろんでいたそうですが、こちらで「布」「入野」で検索すると、どちらも出て来て驚きました。もしかしたら、三氏ともルーツは阿波だったりして。

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    1. ありがとうございます。
      学んでいただけるほどのブログではございませんが、些少なりとも楽しんでいただければ幸いでございます。
      土佐の方は疎くて、まだまだ調査が足りませんが、関連があればまた書いていきたいと思いますのでよろしくお願いします。

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    2. こちらこそお願いしますm(__)m
      今日も、こちらで答えを頂きましたので、後程、感動のコメントを書くつもりです。
      歴史音痴なのに、先祖の由緒書きの現代語訳を父方の叔父に押しつけられ、いえ、任せられて四苦八苦しています。
      仮冒の可能性があれば、その旨も書かなければと思いつつ、ぐーたらさんのブログを見付けたおかげもあり、楽しみが増えてきました。

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