月曜日から無茶苦茶仕事が遅くまであって、腹立ちまぎれに書いちゃおかな
って言うのが小ネタ(笑)。
ちゃっちゃと書いて寝よう寝よう。
国府町井戸、井戸寺のすぐ東側に鎮座ましましております「八幡神社」。
上にな〜んにも付かない「八幡神社」
場所はここ。
より大きな地図で 国府町井戸 八幡神社 を表示
まあ「井上八幡宮」とも言ってたようです。
もう眠たいんで、さくさく書いていきますぜ。
宇佐八幡宮ヨリ御分遷誉田別命 仲哀天皇 三女命ヲ奉斎爾来惟神ノ誠を捧ゲ今ニ至
迄幾度改修....
以下略
御祭神 誉田別命、仲哀天皇、三女命(いわゆる宗像三神)
まあ、なんちゅう事の無い御由緒でありますが。
白鳳二年は一般的には674年ですね。井戸寺(妙照寺)開基と同時です。
寛保改神社帳にも「別当同村妙照寺」とありますので間違いないでしょう。
さて勧請した宇佐八幡宮(宇佐神宮)の開基は725年。
ん?
宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』には筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮
より穂浪大分宮は我本宮なり」とあり、大分八幡宮が本宮であるとある。また社伝等に
よれば、欽明天皇32年(571年)、宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)降り立
ち、大神比義(おおがのひき)が祈ると三才童児となり、「我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂
(註:応神天皇のこと)、護国霊験の大菩薩」と託宣があった(扶桑略記 東大寺要録、
宮寺禄事抄)とある。 wikipedia
のでホントは571年が正しいの?
でも宇佐神宮のHPには
御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地に ご示顕になったといわれます。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた方です。725年(神亀2年)、聖武天皇の勅願により現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りされました。これが宇佐神宮の創立です。
ってあるのよ。
やっぱ725年の創立じゃないの?
なおかつ
宇佐神宮にある由緒書き「八幡宇佐宮御託宣集」には筑前国穂波郡の大分八幡宮は、宇佐八幡宮の本宮であり、筥崎宮の元宮であると明記されている。
で、「大分八幡宮」については
奈良時代の神亀3年(726年)に創建された。社伝によればこの神社がある場所は神功皇后が三韓征伐の帰途、一時逗留した地であるという。
あ〜、訳分んない。
どっちにしても、725年か726年より前じゃないってことでしょ。
じゃあ井上八幡宮はどこの宇佐八幡宮を勧請して来たのでしょうか。
徳島県神社誌に、ここ井上八幡宮は「古くは宇佐八幡宮とも称した」との記載もあります。
もっと意味不明ですね(笑)
♀
☀
…
㏍
㈱
ß
・
☃
あ、寝てた(笑)
と言う訳で
「是社ノ奥深ク厳シク鎮守シ給フ」
いや、意味深ですな。
おやすみな・さ・・
匿名のkaseijinです。
返信削除この八万さんの向かい側が宮司の河野君のおうちです。
国府宮も同じね。「奥深ク厳シク」ありたいと、河野君が言っていたことがありましたね。
神社と宮司の関係を聞こうと思っているのだが未だ果たせない。
天正10年に、この地に結集した長宗我部軍2万3千は中富川で三好軍を鎧袖一触し(中富川の合戦)、勝瑞城を攻略完了。この時に井戸寺も焼かれたから、神社もろともと考えてよいか?と言うよりも焼かれるほどの物も無かったと考えるべきではないか?
その後蜂須賀氏によって、井戸寺と同時に神社の社殿も再興されたのではないか?寛保って年号はやたら新しすぎる。
社殿についても、日和佐薬王寺の本堂の左横にある鎮守さん、あの程度で、今の社域になったのは明治の神仏分離令&廃仏毀釈以後だと考えるが、いかがでしょうか?
教えてください。
ここの北東方向にも隣村の八幡神社があります。ついでに言うと板碑もあります。コンパクトで気に入っているのですが。
じゃなくて!!その東側に「船戸神社」があります。何がしかの意味があるのではないかとネットで検索しても適当なのが出てきません。
to 匿名のkaseijinさん
削除ありますねぇ、八幡神社と船戸神社。
いいとこですよね、子供の遊び場にもちょうどいいし。
でも、最近の子は神社で遊ばないのかな。
徳島県神社誌にも載ってませんでした。国府町資料にも載ってませんでした。
八幡神社の方は「大山祇神社」「句句廼馳神社」「水象女神社」を合祀してありますよね
山の神、木の神、水の神と脈絡が全くないので蜂須賀家が阿波国中に八幡神社をばらまいた時に
こんな形になったけど、元々の船戸神社だけは東側に残ったんじゃないでしょうか。
洋菓子店ラ・セーヌを北にはいってすぐの所にも祠がありますよね。
あれも船戸神社と関係ありそうな気がして仕方ないんですが。
お題の八幡神社は確かに何度も焼失してるようですので、今みたいな大きな社伝になったのは
つい最近でしょうね。河野氏は多分、伊予の河野家の関係でしょう、神社内の石碑にも何か
刻んでありましたが、大分古びてて読めませんでした(笑)
それと「寛保改神社帳」にも「神主井戸村河野石見」とあるようです。
ぐーたらさん、こんにちは。
返信削除「古くは宇佐八幡宮とも称した。」ふううん…、え!?
鳥肌ものじゃないですか。
井上は「いのかみ」とも読めるんですよね。
・・・倭の神?
それにしても近頃のガ*、お子さんたちは表で遊ばないですねえ。
イジメが陰湿になるのもそんなことに遠因があるんじゃないかな。
「カミさんのバチ」があたるで!なんていうトシヨリもいないし。
そんなトシヨリでありたいと、ひそかに願う私です。
PS
返信削除八幡神社といえば、市場町で粟島神社と一緒にされている八幡さんもなかなかのものでしょう?
すえドンさんのブログに詳しく紹介されていました。
あの近くの和菓子屋さんがウチのひいきなのでよくお参りに行きます。
妙にザワザワする気配の境内です。
to ALI爺さん
返信削除>「古くは宇佐八幡宮とも称した。」ふううん…、え!?
あ、気付いてくれた(笑)
ホントにね徳島県神社誌に「しれっと」書いてあるんですよ。
なかなか「キテる」でしょ。
もうちょっと突っ込めば多分凄いのが出てきますよ(笑)
「奥深ク厳シイ」のが。
市場の粟島神社も八幡さんもいいですねえ。
今度、粟島神社に行った時は和菓子屋さん寄ってみます。
「じゃあ井上八幡宮はどこの宇佐八幡宮を勧請して来たのでしょうか。」
返信削除神山町下分字西寺の宇佐八幡宮ではなかったでしょうか?
間違ってたらゴメンナサイ。
to 猫麻呂さん
削除あちゃ〜(笑)
ピンポ〜ン!!!なんですけどぉ
まだ下分の宇佐八幡宮のこと書いてないんで(行ってますけどね)
ちょっと引きを作ってみたんですぅ(笑)
だから知ってる人は(笑笑笑)。
いや書いてもらっていいんですよ。
ぐーたらさん、空気読めなくてスミマセン(汗)
返信削除下分の宇佐八幡宮の投稿も期待して待ってます。
to 猫麻呂さん
削除すんませ〜ん。
そんなつもりじゃないんです。
知ってる人と知らない人向けへの書き方が難しいってことなんです(汗)
そう言う訳で(どーゆー)下分の宇佐八幡宮は難しいです。
ぐーたらさん、こんばんは。
返信削除神山に八幡さん! いよいよワケがわからなく(もしくは、妖しく)なってきました。
八幡さんといえば秦氏がユダヤの神を祀ったものと言う説も根強いんですよね。ということは…。
今朝は石井まで送っていった妻が勧める喫茶店にモーニング・コーヒーを目当てに向かうと、国府。井戸寺に入る交差点の真向かいじゃないですか。
おいしいコーヒーとホットサンドをいただいてから、もちろんまず井戸寺の薬師さんにご挨拶。伝・聖徳太子作。こんなところにお名前が残されているとは。
そしてお隣りの八幡神社へ。朱塗りの社殿からしていかにも渡って来られた神さま風。この辺りは海につながる港、そして鮎喰川に沿って神山に上る入口だったかもしれませんね。
to ALI爺さん
削除今さらですが井戸寺はとてつもないところですよ。
拙の記事
「南井上村誌」
http://goutara.blogspot.jp/2011/11/blog-post_29.html
「南井上村誌(追記)」
http://goutara.blogspot.jp/2011/12/blog-post.html
をご覧下さい、こんな寺院がありますか。
ところで喫茶店は「マイセン」ですよね。
あそこのコーヒーおいしいですね。
参りました。天武天皇が壬申の乱のあと必死に国づくりをされる、そのスタート地点じゃないですかね。曽我氏神社を後ろ盾にして。
削除マイセンのコーヒーは私の好みではちょっと煎り過ぎ。でもセットのホットサンドの甘味とよく合っていました。
to ALI爺さん
削除モーニングなら「マイセン」か「やまなみ」がいいですねぇ、国府町内では。
あとコーヒーだけなら藤村コーヒーがおいしいです。
ちょっと場所が分かりにくいんですが。
お久しぶりです。と、いってもいつも拝見させてもらってます。
返信削除宇佐八幡宮の宇佐って、気になりませんか?
金子いすゞさんのドラマで、波頭が兎に見えて、「うさぎ」と言ってようですが。
アレ?ちがう?
ウサ?須佐?
語源はわりと気になってしまうタイプでして・・・。
夢と史実の宝庫、徳島ですねぇ~。
to babymamaさん
削除いわゆる、古代阿波起源説では「宇佐」は鮎喰川が神山の「北宇井」と「宇井」の間を流れる場所の事を言います。
間が狭くなっているため「宇井」の「狭」で「宇狭」。
神山の宇佐八幡宮は「宇狭八幡宮」だったのです。
769年称徳天皇が託宣を和気清麿を遣わせて託宣を受けたのは、「宇狭」ではないかとの説です。
ここら、ちょっと書きにくい。
あ、書きにくい・・・。
削除ごめんなさい。変なこと聞いちゃいましたね。
気をつけます。
でも、とってもためになりました。
ありがとうございましたっ!
日本の大切にしなければいけない土地の名は、なるべく、なるべく、ですよ、
守るっていうこと。無理かな。今の日本は。でも、忘れちゃあいけないですよね。
to babymamaさん
削除ごめんなさい、書きにくいってのはボクの方でまとまってないってことです。
他意は無いんで、なんでも書いて下さいね。
で、仰るように古い地名がどんどん消えていってるのは淋しいです。
十一面観音と井戸との関係、以前何かで読んだような気がする。一番古いのに本尊じゃないのが不思議。聖林寺みたいにどこかの神社からかっぱらってきたりして。
返信削除薬師如来の脇侍がオリジナルと仮定すると、その時が瑠璃山の創建になるのでは?
件の神社って、江戸時代といわずかなり最近まで田んぼの真ん中ね。八幡でもそうだったけれど村の鎮守って、村から離れた所にあるものかいな?素朴な疑問。
先日臼嶽(うすだけ)を探検しに出かけました。道路地図もなく走ったものだから、何のために行ったやら戦果なし。ただ、道中に遍路路の標識に納得しました。軽井沢から広野に出る間は道路が広がる余地がないもんね。「宇狭」
to 匿名さん
削除ん〜。「南井上村史」に
「建立当時の本尊は上宮太子(聖徳太子)の彫刻された十二上願如来」
とありますので、いまは無いですけど、こっちがホンマもんと思いますが。
天武天皇の勅願寺にも間違い無さそうですので、白鳳二年の建立でいいんじゃないっすか。
>村の鎮守って、村から離れた所にあるものかいな?素朴な疑問。
「ここ」に関してだけ言えば井戸寺の前身「妙照寺」が、井上村、新居村の大半を占める広大な寺領であったため結果的に田んぼのまん中になってしまったんだと思います。
「雨振神社」も同じですがね。
臼嶽に関してはご同慶の至り、地図を見ずに走り回っていつの間にか軽井沢キャンプ場のあたりに舞い戻って来てがっくりした事があります(笑)
空気を読むことが不可能な匿名のkaseijinです。
返信削除白鳳期の寺院遺跡としては、美馬市の郡里廃寺があります。
当時の阿波国の実力としては奇跡的なものですね。
次が石井廃寺跡。童学寺の前身と考えられるが、当時の阿波支配者の私寺ではなかったか。奈良時代前期のもの。
公的に初めて、国分寺と国分尼寺が登場するのが奈良時代中期(天平時代)。
青史によれば、白鳳と言う年号はありません。寺社の縁起に多く使われる年号(逸年号)だそうです。壬申の乱に勝利した大海皇子の統治2年目と考えられなくもありませんが、阿波の国まで勅願を出したのでしょうか?
日本の国土の海退が始まって、昔は海だったところが現在では陸になっています。
前回に問い合わせた船戸神社は、源平合戦ころは川西遺跡のようなの港ではなかったかと思いそのあたりが知りたかったのですが、それよりも500年前には、井戸寺の場所は鮎喰川の川底だったのではないか。
厩戸皇子は伊予の温泉に行ったけれど、阿波の川底に興味を示されますかね??
to 匿名さん
削除空気を読むまいとしているぐーたらです(笑)
仰る通り「白鳳」という年号はありませんでしたが、「続日本紀」神亀元年冬十月条(724年)に「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し」とありますし(朱雀は朱鳥のことで天武天皇15年(686年)を示す事として構いませんよね)仰っている寺社縁起にも見える事から、あながちズレてるとも思えませんが。
井戸寺近辺の地形に付いては確かに港があったかもしれませんが、明和の古地図をベースに海進図を書いてみても、「高輪」等の地名が残っている事、井戸寺縁起に水が無くて困っていた事辺りから類推して、車輪(輪中)であったかもしれませんが、川底であったとは考えにくいのではないでしょうか。
で、後は「厩戸皇子の引田出身説」「上宮は矢野だった説」「厩戸皇子の救世山峯薬師 法谷寺 建立説」が出てくる訳なんですが着いてきます?
もう一つ、童学寺(石井廃寺跡)も天武天皇の勅願寺とされていますし「白鳳」様式の瓦が出てますが。
削除ついでに、船戸神社が港跡だったかどうかは疑問です。
削除船戸神だってもともとは衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)からの転で岐神とも言いますよね。
港に祀れている場合もあるでしょうが、道が分岐する所に祀られた神ですので必ず港だとは
言えないんじゃないでしょうか?
阿波史&国府史を六十の手習いで始めたものにとってはありがたいページです。
返信削除古代の基礎知識(1)のところに、名方津と八万津が優劣を競っていたとあります。
前者のほうをひつこく船戸神社に結び付けてはだめですか?ここからだと、平家物語に出てくる平通盛が訪れた花園館や義経が攻め落とした田口氏の桜間城に近いから。ただ、一宮城の下手に船戸川があって、いつの時代からそう呼ばれているかわからないが考察の対象にはなりますよね。
町内の尼木は府中駅の北側になります。ここが海城だったらやはり井戸寺は海の底ね。
後者は、川西遺跡とすることは無理がありますか?
to 匿名さん
削除こういう話は楽しいですねぇ。
国府町内西の方に敷地の地名がありますよね。
敷地はもと水の底だった所が土地となった場所の事を言います。
その敷地から少し北に行った所が登々路(ととろ)。
そこからすぐ東が東西の高輪。
海域か河口から登って高台への道であったと思います。
だから井戸寺近辺も輪中(わじゅう)の中であっても
海底はナシ。
との私見です。
ただし年代によって多少海岸線の前後はあったでしょうと逃げを打つ卑怯なぐーたらです。