2012年6月24日日曜日

阿波市市場町 建布都神社

なぜか最近市場町近辺を廻っております。
で、行って来たのが
阿波市市場町郷社本に鎮座する延喜式小社「建布都神社」。
場所はここ

より大きな地図で 建布都神社 を表示
なのですが、御参拝前にmapの左上の方にあるマークの所に行かなければなりません。
焼き肉「ともえ」店の写真はないんですが、中華そばもあるんです。
チャーシュー入り(小)700円を注文いたします。
さすが焼き肉屋さんだけあって、チャーシューてんこもりでウハウハ(笑)。
スープはあっさりめ。
あー、満足満足、さて帰ろうかな。
じゃあ、何しに来たんだって事ですので、もうちょっと廻ってみます。
ここらも、いろんな人がい〜っぱい書いてるんで、今さらなんですがね。
板碑とか、その他の事はまた別に書きますんでね(←誰に言ってるんだ(笑))

一応、能書きがいるのかな。


延喜式神名帳、阿波国阿波郡の「建布都神社」論社。
祭神  建布都神、経津主命、大山祇命、事代主命。
建布都神は武御雷之男神の別名であり、「旧事本紀」によれば石上神宮の神とも同神であるとのことです。

葦原中国平定の際に高天原から使わされて、建御名方神を降しました。
ちなみに「建布都神」の名を持つ延喜式式内社は全国でここのみ。
もっとちなみに建御名方神を祀る石井町の多祁御奈刀弥(たけみなとみ)神社について

「名西郡史」に
社伝記ニ光仁帝ノ御宇宝亀10年、信濃國諏訪郡南方刀美神社名神大、阿波国名方郡諏訪大明神ヲ、移遷シ奉ル
とありますが、これは余談。

創建年代不詳。以前は「平治権現」と呼ばれており、通称「おへーしさん」と呼ばれているそうです。八幡神社との式内論争の末、明治に、現社名に復称したとのこと。
あ、写真が要りますね。




杉尾社とも呼ばれていたが、15世紀には、すでに荒廃していたらしく、
領主・原田大和守が社殿を修復したが、細川三好の兵乱、長曾我部の兵火にかかり、
森林の小祠となってしまったという。

天正十四年(1586)。
太守家正が国内巡検の際に、「この神は、いかなる神か」と問うたところ、武神である
から、八幡宮であるという答えがあり、以後、北八幡宮とも呼ばれるようになったという。
神紋は武甕槌神の帯びていた霊剣と見える。


さて、境内には直径約17mの円墳である「建布都古墳」があったり、応安二年に
法眼定金が建立した「応安の板碑」があったりして興味深いのですが、今回はちょっと
別の文献を出してみませう。
相も変わらず「阿波国続風土記」でありますが、第五巻P76もしくはP77
久々に読み下し文も追加しちゃいました。
細かい注釈が入力できてません(汗)が本文はこんなもんでしょう。

建布都神社
郡村ニ在り郡村ハ和名抄當郡拝師(波也之)郷ノ内ナルベシ山城国葛城郡上林郷アリ
伴氏神社アリ河内国志紀群伴林氏神社アリ河内国林宿禰ハ大伴室屋連男御物宿禰之後
ナルガ河内国若江郡弓削神社ハ弥加布都神佐自布都神ナル事三大実録ニ見エ姓氏録左京
マタ河内国弓削宿禰ハ天日鷲翔矢命ノ後ナル由見エタリ林ハ日鷲ノ転ニテ郡モ翔ト近ク
聞ユ御物宿禰ハ拝原郷ニ成長シテ室家(屋)連ノ家ヲ續シナルベシ


もちろん、「阿波国続風土記」記載の内容が全て正しいなどと言う気持ちは全く
ございませんが

河内国弓削宿禰ハ天日鷲翔矢命ノ後ナル由見エタリ
とか「山城国葛城郡上林郷」を引き合いに出して
林ハ日鷲ノ転ニテ

と断定してある所を見るに付け、じゃあ河内国志紀群の「伴林氏神社」は
「天日鷲命の伴(とも)をする氏を祀る神社」なのか?
などと考えてしまうではありませんか。
上の方で書きましたよね、建布都神は武御雷之男神の別名だと。
また石上神宮の御祭神は布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊である
布都御魂大神です。
で、布都御魂剣は建御雷神(たけみかずちのかみ)が葦原中国を平定した時に用いた
劔のことです。
これ以上の事は今回はもう書きませんよ。
建御雷神と天日鷲翔矢命との関係も調べてみて下さい。
ボクは断定するの嫌いだから(笑)
ところで猿田彦命といえば土成町の「案内神社」が有名ですが

建布都神社の近くに鎮座いたしております、王子大権現(の東側)にも
このような猿田彦命と天鈿女命の両神を刻んだ石碑があり、興味深いです。


ここらは、なかなか書ききれませんなあ。

5 件のコメント:

  1. 誰かさんの入知恵で香美まで足を延ばさせてご苦労様です。

    我が国府町における義経の足跡について検討しているのですが、矢倉比売登り口を基点に、マップ上で北へ北へ。要は、古代の南海道ではないかと思うしだいで。
    うまい具合に、推定桜間城を経由するから、うまい具合じゃなくて当然とすべきかもしれない。
    第十堰を越えて更に北上するとと、下庄の栖養八幡宮(読み方がわからない)にぶち当たりここで右か左か立ち往生。平安時代の大寺の分岐点がどこか判らないのも理由。騎馬は田んぼは通行できないから舗装道路を捜す必要がある。

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    1. to 匿名さん
      入れ知恵に乗ってしまいました(笑)
      いやあ、市場は香美付近だけでも廻りがいがありますね。
      栖養八幡宮は「すがいはちまんぐう」のようです。
      ここからのルートは難しいですね。
      大坂の拝立、「鎧橋」までをつなぐルートなんでしょうが
      このあたり川筋が今よりもっと広がってた可能性がありますので
      特定は難しいんじゃないですか?
      思うに消去法で通らないと思われる地名を除いては?
      例えば萱野、中川、などは通らなかっただろうとか(てきとーだなぁ)。

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  2. お久しぶりに書き込みさせていただきます。(しかも最新記事にじゃなくて、済みません)

    一枚目の写真の「ともえ食堂」のラーメン見たら、なんだか無性に食べたくなってきました…。
    今、実家に帰省中ですので、明日の昼にでも、子供たち連れて食べに行こうかしら…((笑)

    たけふっつぁんは…この夏、「阿波市に残る城あとを訪ねて」で行きました!
    昔は多分、この石段の下あたりは、泥湿地だったんでしょうね。
    吉野川も、土手がなければ、もう少し北側を流れていたらしいですし。

    ここらへんは、川ぞいにちょっと走って、ぽこんと盛り上がった茂みがあるな…と思ったら、絶対に神社ですよね(爆笑)?
    ここから西に少し行ったところの、八坂神社にも、古墳がありますよね。

    城と古墳と神社……重要なものが建つ地には、何らかの「場の力」とも言うべきものがあるのでしょうかね??

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  3. あ…済みません。
    「コメントの記入者」選択で何だかわからないうちに選択したら、本名出ちゃいました(-_-;)。
    上記書き込みは、「かずくん」です。済みません。

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    1. すいません、ホントに余裕が無くて、やっとコメントできました。
      「ともえ食堂」のラーメン美味しかったです。
      今見直したら、また食べたくなりました(笑)
      この近辺というか吉野川沿いの神社は、岬状に突き出した場所か、中州、あるいは島に作られたケースが多いです。
      いわゆる和多都美族に代表される海人族の由縁でしょう。

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