2012年5月6日日曜日

おーい、石井の武市さーん

何の事だか分らないでしょうが、高松のキタジマさんから
石井町国実 武市神社」にコメントをいただきました。
失礼とは存じますが、一部引用させていただきます。



>河野家のゆかりと思われる、
>折敷三文字の家紋がついた甲冑を譲りうけたのがきっかけで、河野家のことを調べているうち、
>こちらのブログに行き当たりました。

>石井町つながりでも奇遇ですが、さらに驚きなのが、

>問題の甲冑の家紋(折敷三文字で三の字が毛筆書体)と
>武市大明神の由緒書にある家紋がそっくりだったからです。
>甲冑の制作年が江戸中期頃なので、これまでは河野家諸流の稲葉家の関係と思っていましたが、
>出所が徳島なので、武市家の関係の可能性が大きくなってきました。

>ぜひ、ご子孫の方とコンタクトを取り、お話を伺ってみたいと強く思っています。
>現地に行って地元の方に聞けばよいのでしょうか?(もしくはご存じでしょうか)


ということなのです。
一応マップは大画面で載せておきます。
中央マークの武市大明神近辺は武市姓の方々が集まっている地域です。
先にコメントをいただいた「タケイチ」様
もしご覧になっていたら連絡くださいませ。


より大きな地図で 武市大明神 を表示


それと徳島の「河野家」関係で(もちろん伊予の河野家の系列として)何か情報を
お持ちの方、いらっしゃればご連絡ください。
ワタクシも鴨島に「河野」氏の知り合いがいるのですが、そんな話した事もなかった
ので、その辺りが不明なのです。

ホントにこのご近所の方、見てたらご連絡下さいませ。
すんません、ワタクシにできるのはこの程度かも。
もちろん、何か情報が入ればお知らせいたしますが。

32 件のコメント:

  1. 千葉県に現在住んでいますが、武市常三の子孫です。GWに帰郷し
    叔父に家系について聞きました。実家は既に有りませんが、石井町高原字関でした。河野姓と家紋は同じです。女性の家紋は菊の枝丸とのこと。

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  2. to 匿名さん
    ご遠方から情報ありがとうございます。
    叔父様は石井のこの近辺なのでしょうか?
    高松のキタジマさんが訪問してもいいものでしょうか?
    よろしければ、再度ご連絡いただければ幸いです。
    コメント欄で都合が悪ければContactよりメールでも結構です。
    もちろん高松のキタジマさんと直接連絡が取れるのが
    一番なんですが。

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  3. ぐーたらさんへ

    この度はお世話になります。
    上の匿名(武市家のご子孫)さんからレスあったのですね。。
    改めてインターネットってすごい!と感動しました。
    (ただアホな私、前の記事ばかり見ていて、この記事に本日気が付いた次第で・・
    またまた痛恨のニアミス?)

    なお、その後に何かご連絡はありましたでしょうか?
    もしないようでも、この土日に行って現地であたってみますので。

    しかし、この度は、私の投稿に対して、なんと1テーマ裂いてまで呼びかけていただき、
    本当に感謝しております。
    お礼になるかどうかわかりませんが、何かわかればこちらにご報告させていただきます。
    ありがとうございました。

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    1. to キタジマさん
      それが残念ながら連絡は無いんですよ。
      マイナーなブログなんで見に来る機会が少ないのかも。
      連絡があれば、何か書きますので気長にお待ちください。
      あ、現地へは行ってみて下さいませ。
      一番早いと思いますので。
      知り合いの河野氏へも聞いては見たんですが、その河野氏
      祖先の事、あまり気にしない人でよく知らないとのこと(涙)
      でも、石井にも河野姓は多いようです。
      余談ですが、石井町では「久米」「武市」「武知」「遠藤」とかの
      姓が多いようです。ただ武知は木留近辺だけのようですが。

      何か分れば、ぜひご連絡ください。

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    2. ぐーたらさん

      本日、武市大明神に行ってまいりました。
      おかげさまで、ご子孫の方にも出会え、いろいろなお話を伺えました。
      義父も同行したので、同じ町内に住んでいるということで、
      ローカル話題でも盛りがったりも・・・。

      ご子孫の方のお話の中で、特に興味深かったのは、
      主君の蜂須賀家がもともとキリシタンで、常三もキリシタンだったという話です。
      そのことが、後に幕府のお咎めを受け、孫にあたる三代目当主が処刑されるという
      非業の死を遂げたそうです。

      知られざる歴史秘話があるのですね・・・。

      それから、目的でした当方の鎧の家紋と、武市家家紋を比較することもできました。
      「三」の字体が若干違うだけで、非常に似ており、不思議な縁を感じました。

      ぐーたらさんのおかげで、今日は本当に有意義な1日を過ごせました。
      本当にありがとうございました。


      *別途、公開には支障あるかもしれないことも少しあり、
       コンタクトで詳細をお送りさせていただきました。

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  4. おー、よかったですね。
    長老が対応してくれたようですね。

    石井町の堂学寺にキリシタン燈籠があります。
    キリシタン燈籠のことは知っていましたが、常三がキリシタンだったというのは初耳です。
    子孫ですけど・・・。(聞いてないぞー)
    なんで孫だかひ孫だかの時代にキリシタン燈籠?と思っていたので、驚きの発見です。

    高原関の武市さんは本家です。
    明治の頃に移住したと聞いていますよ。

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    1. タケイチさん

      はじめまして。この度は長老様にはお世話になりました。
      突然の訪問にもかかわらず、ご夫婦で歓待していただき、感激いたしました。
      嫁の実家が同じ石井町で、これまた不思議なご縁を感じずにはいられません。

      問題でした、鎧の家紋の謎についてですが・・・
      江戸時代から伝わる「折敷三文字」がついた祭祀用のたれ幕を拝見し、
      「三」字体は少し違うものの非常に近いのに驚きました。
      また、鎧の仕様からわかることとして、
      ・大名まではいかないがかなり位が高い人物
      ・鎧の出所が徳島
      ・制作年代は江戸中期頃
      これらの条件からして、武市家のものであった可能性は十分あり、否定できない・・
      というところでしょうか。(たぶん永遠に特定はできないかも)

      長老様ご夫妻には良くしていただき、本当に感謝しております。
      「八本松の北島」がお礼を申していたと、よろしくお伝えください。
      (嫁の実家が八本松のほうなので・・・)

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    2. 長老の所に行くように伝えたのがうちの父です。
      私はあいにく不在でした。
      武市家って最初はいいけど、途中からあんまり禄も高くなかったようだし、なんでだろって思ってました。謎が解けたような気がします。
      ありがとうございます。

      キリシタン灯籠は武市左馬之助という人が寄進しました。
      検索したら簡単に徳島新聞の記事にたどりつきますよ。

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    3. 補足

      徳島城博物館の企画展(昔)で同じ家紋の火縄銃を見たことがあり、もしやうちのちゃうん?って思ったことが…

      物がいわれをしゃべってくれたらなと思いました(笑)

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    4. タケイチさま

      あのトラクターに乗っていた方がお父様ですか!?
      いや~、これは絶対にご先祖様のお導きですね。

      新聞記事、読ませていただきました。
      武市左馬之助という人のことが、記事では不明みたいに書かれていましたが、
      きちんと由来書を書いておくべきでは、と思いました。

      それと、長老様が「鎧があったけどだいぶ前に売った」と言われてましたよ。
      もったいない・・・(+o+)
      火縄銃ももしや・・・聞かれてみては?

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  5. to キタジマさん
    どうもお疲れさまでした。
    でも、こんな事があった日は高揚してて疲れなんか感じないですよね。
    多少なりともお役に立てたのなら、幸いです。

    >知られざる歴史秘話があるのですね・・・。

    なかなか表に出てこないお話ありがとうございます。
    すぐ上でコメントいただいた子孫の方も知らないんですから(笑笑笑)
    武市一族のみならず阿波史の深いところが伺えますね。
    また、面白そうな(失礼)お話がでてくれば、教えて下さい。
    こちらも楽しみにしています。

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    1. ぐーたらさんへ

      いや~ホントに・・・、昨日は感激してしまい、興奮冷めやらぬって感じです。

      キリシタンの話は意外な話でしたが、当時はタブーだったので
      永くフタをされていたのでしょうね。
      タケイチさまご紹介の、石井町の堂学寺のキリシタン灯篭も、今度見に行こうと思います。

      また、何かわかればご報告させていただきます。

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  6. to タケイチさん
    いや、ホントによかったです。
    でも一発で出会えたっていうのも凄いですね。
    一族の縁ってのを感じてしまいます。

    あと、一番上のコメントをいただいた千葉の匿名さんがもう一度
    連絡くれたりしたら面白いんですけどね(笑)

    そしたら、このブログ武市家の連絡用掲示板として明け渡しましょうか(笑)

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    1. ぐーたらさん
      キタジマさん

      お世話になりました。
      興味をもっていただいて嬉しいです。
      ありがとうございます。

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    2. 今晩は、千葉の武市です。多分国実に住まわれていた武市明さんが平成二年に作成した四百年記念写真集も我家にあります。系図・鏡の実物は叔父の家に有り、武市大明神を祭っています。武市左馬之助の燈籠のある場所は「童学寺」ですよ。誤字の指摘ですみません。武市一族のお会いできて良かったですね。

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  7. 驚きました。すごいやり取りが載っていますね。私も少し武市大明神について聞いたことがあります。結論を言えば、武市大明神は2つあるということです。一つは写真の神社です。もう一つは写真の神社のすぐ南300メートルくらいにある神社です。この神社は鳥居があり、建物も60年以上たっています。そして、その間ずっと地元の人によって10月に祭祀が行われています。この神社のいわれも写真の神社のいわれとほとんど同じのようです。そして、その神社の周りはすべて武市姓です。地元の80歳くらいの方に聞いたことがあるのですが、写真の神社はもともとブロック塀がなく、建物もなかったと聞いています。何時できたのでしょうか?。地元でもっといろいろ聞いたほうがいいかもしれませんね。写真の神社は「武市常三の墓」とも書いてありましたが、常三の墓は徳島市寺町にある寺にあると聞きました。
    時間があれば、もっと詳しく調べたらどうですか。ただ言えるのは、このあたりの武市姓は常三の子孫であることは間違いないように思えますが・・・・。どこが、本筋の家系かというのは、いろいろ言っているようですが、実際はわからないというのが本当ではないでしょうか。実際にその時代に生きていた人はいないのだから。すいません、いろいろ勝手なことを書いてしまって。

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    1. コメントありがとうございます。
      武市大明神は2つあるのですか。
      確かに南西100メートルくらいのところに無銘の神社がありますが、そこのことでしょうか?
      南に300メートルだと国道付近まで行ってしまいます。
      どのあたりか詳しく教えていただければありがたく思います。

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  8. そうだと思います。長老と呼ばれる方の家の付近には、その長老の家を含め、3件、武市姓があります。その100メートル南の集落は全部武市姓です。そのため、各々屋号で呼び合っています。その集落の真ん中にその神社はあります。長老宅の北の方にこの集落の新宅が数軒あるようです。南の集落ではこの神社があるので、この集落には今まで火事のような不幸はおこっていないというお年寄りがいます。昔は武市大明神といえば、この神社のことだったと思います。武市常三の家は3代で、徳島市の常三島宅を家来(名前、忘れた)に譲ったと嘘か本当か知りませんが、聞いたことがあります。もし調べて詳しいことが分かれば、私のほうが知りたいです。もし、機会があれば、南の集落のお年寄り何人かに聞けばいろいろ知っているかもしれませんね。
    ps 確認という画像が小さくてよくわからない。適当にいつも押しています。これを最後にしたいです。面倒なことはしたくありません

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  9. 前回は、公開を押すと、訳のわからない写真がたくさん出てきて、イライラしてしまい、「PS」で愚痴ってしまいました。すいません。本当にもうここへ書き込む気持ちはなかったのですが、3つだけ連絡しておきます。
    1、長老(あき〇さんという人だと思いますが)は亡くなりました。不幸が続き、息子の奥さんがな くなり、次に息子もなくなり、最後に長老がなくなり、今は長老の奥さんが一人生活しています。 写真の武市大明神は長老の家だけでいろいろしていたので、少し今は寂しい感じがします。もうひ とつの100メートルくらい南の集落の中央にある武市大明神は60年以上前からほとんど変わらず、 10月にみんなで祭祀を行っています。
    2、童学寺の話が出ていましたが、その童学寺は最近火事で本堂が燃えてしまいました。
    3、地図の中の加賀谷醤油というのはつぶれ、森田醤油に変わっています。
    以上、3点を連絡しておきます。
    時代とともに、状況は変化するので、正しい過去を見つけていくというのは大変です。「キタジマ」という方がよく登場しますが、聞いた話がすべて正しいと思わず、少し疑いながら、できるだけ多くの人や資料から、判断をしていくことが大切だと思います。いろいろ情報を入手し、興奮しているのではないかと思いますが、そして、水を差すようなことを言って申し訳ありませんが、インターネットの情報は世界中駆け巡ります。書かれている内容が、正しい情報なのかもしれませんが、老婆心ながら書かせてもらいました。

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    1. もう書き込みはされないということなので、こちらも書きっぱなしにいたしますが、
      >いろいろ情報を入手し、興奮しているのではないかと思いますが
      とおっしゃられても、この記事2012年でもう5年も前の記事なんですよ。
      加賀屋醤油にしても、2017年4月3日より加賀屋醤油株式会社として復活してます。
      それと、インターネットの情報は世界中駆け巡りますので、誰々がなくなったとか、個人のプライバシーに関わるような話は書かれない方がいいと思います。
      老婆心ながら御注進申し上げます。

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  10. インターネットで[武市大明神]を調べてみると、同じようなブログがあり、驚きました。内容もにていたので、私も両方に自分の意見等を載せることにしました。自分は二つの大明神を見てきました。そして、思ったことは南の集落にある武市大明神は古く江戸時代からあるということです。逸れに対して上記の写真にある大明神は近くに住む老人が五十年くらい前に建てたものらしいです。また、上記の写真の大明神には武市常三の墓がありましたが、常三の墓は徳島市寺町にあると近くで聞きました。少し興味が湧いてきたので行ってみることにしました。行ってみると、常三、子、孫の墓がありました。よく見ると、家紋が掘られていることに気づき、よく見ると、上記の大明神の家紋と違っていました。あった家紋は南の集落に住む武市の家紋と同じで、[子持ち角切り三](こもち、すみきり、さん)と呼ばれるものでした。本当に驚きました。これって、どういうことでしょうか。あまり、自分には関係ないことですが、少し気になりました。わかる人は教えてください。

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    1. 同じ私のブログでページが違うだけです。

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  11. ぐーたら様
    ご無沙汰しています。
    匿名になっていますが、以前書き込みをしましたタケイチです。
    記入者の選択の仕方がよく分かりませんでした。笑
    久しぶり拝見すると色々な憶測が飛び交っていましたので、コメントさせていただきます。
    申し訳ありません。

    1 南の集落も同族です。分家した時にに本家と区別するため、家紋の枠線を二重にしたと聞いています。その分家から分家を繰り返して、南の集落になっています。本家から分家した家、分家から分家した家もありますのでザッと10軒以上近所に集住しています。祭礼は同じ日に北のグループも南のグループもしています。その他にも、分家する時に家紋を変えている家もあります。岐阜の武市さんもたくさん分家がありますので、岐阜本家は本家であることを示すために折敷を○で囲った家紋です。

    2 北の大明神は本家の方が建てられましたが、もちろん昭和の話です。すぐ近くに本家の墓地がありますが、常三のお墓はありません。寺町にあると聞いています。大明神は厳密には墓ではないと思います。いつの間にか墓と書いてありますが・・・。 文政5年の記録には大明神はすでにあったことが古文書に残っています。本家の敷地内にあったのかもしれません。今、北の大明神がある広い畑2枚分が本家の屋敷跡です。その時代どんな建物だったのか、または祠だったのか、どのような祭礼をしていたのかは私は知りません。祭祀の時期もどうやら江戸時代と違うようで、時代に合わせてやり方や時期は変えています。

    3 江戸時代は自分たちの先祖を神として祀るような風習があったそうなので、何かのきっかけで始まったのでしょう。北と南が同時なのか、南が後なのかは分かりませんが。石井町内にはそういう家が何軒もあります。大体の分家にはそれぞれの家に屋敷神さんも祀っています。今の時代は常三を祀るというより、自分たちに繋がる祖先を敬って祀っているという意識が強いかもしれません。墓と刻んでいる石柱の写真にある白い小さな祠は三島大明神です。武市家のルーツがある愛媛から勧請したようですが、文政5年の記録には時期不明とあります。今よりも古い姿を見ていますが、昔から移転していないように思います。

    お邪魔致しました。

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    1. ご無沙汰しております。
      コメントありがとうございます。
      部外者が回答を返すのも無責任なように思われて、はっきりしないコメントなどしておりましたが、これで、いろいろスッキリいたしました(笑)。

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  12. 匿名
    2017年12月23日「タケイチ」さんの見解を見ました。きれいにまとまっていますね。何か歴史の専門家的な意見で、学芸員の方か、歴史の先生のような職業の方でしょうね、たぶん。「本家の方が建てられました」と書いてありますが、念のため、もう一度、近くを通った時に、近く方に聞くと、やはり、長老が建てたという返事でしたよ。それに、北の大明神の元敷地は今の敷地の6割か7割だったようで、長老が持ち主に交渉してわけてもらい、今の面積になったようですよ。二つ目は同じ意見です。北の大明神に武市常三の墓はないと思います。でも、長老が武市常三の墓と石碑を立てているので、後々には本当のことのように語られるようになるかもしれませんね。歴史はそういうう風に作られる一面もあるので。元本家の家があったところは、現在二枚の畑になっていましたが、元二枚の畑についてもいつ二枚の畑に分けたのかはわからないようです。宅地というのは昔はよく固めてから家を建てたといいます。畑にするのは本当に大変だったでしょうね。持ち主は南の集落の方で、少し前、一つは同じ南の集落の方に売ったと聞きました。そして、本家の方は貧乏して家や田畑をなくし、江戸時代の末期か、明治時代の初期にどこかへ行ってしまったと聞きました。また、近くに行ったとき、こんな意見も聞きましたよ。戦国時代くらいかな、伊予の国から東の方で戦がたくさんあり、その戦で手柄をたてたいと思う人たち(武市 河野姓)がやってきて、その内の何割かがさらに東へ移動し、名古屋岐阜周辺で戦いに参加をして手柄をたてて、蜂須賀の家来として徳島へ帰ってきた。それが「常三」。その常三が隠居の地として選んだのが、この地。ここには徳島にとどまった同郷の人がいたので、この地に来たのではないかというもので、すこし、嘘か本当かわからないけど、納得してしまいました。夢があって面白いと思いました。まったく素人の自分で、部外者ですが、このような思ったことが書けるこの「・・・・日記」はいいですね。

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    1. 諸般の事情で全く書けない状態が続いており、コメント遅くなり失礼いたしました。
      で、2017年12月23日「タケイチ」さんの見解の話ですが、仰るようにまとまっていて、これですっきりした気がします。
      こんな形で、推測でも何でも、史実を文字の形で記録しておくのが重要だと思います。
      なので、思ったことは書き込んでやってください。

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    2. 匿名 (そのⅠ)      令和元年12月
      年末に、この日記を見るのが楽しみです。でも、内容に変化が無いのが残念です。関係者の皆さんは少し、興味が無くなったのかな。また、一年間、聞いたり、思ったことを書いてみたいと思います。よろしくお願いします。失礼な表現があったときはごめんなさい。
      では、
      もう一つある「ぐーたら○○日記(重箱の隅)~おーい、石井の武市さーん~ 」の2017年12月23日「タケイチ」さんの見解を見ました。きれいにまとまっていますね。何か歴史の専門家的な意見で、学芸員の方か、歴史の先生のような職業の方でしょうね、たぶん。「本家の方が建てられました」と書いてありますが、念のため、もう一度、近くを通った時に、近く方に聞くと、やはり、長老が建てたという返事でしたよ。それに、北の大明神の元敷地は今の敷地の6割か7割だったようで、長老が持ち主に交渉してわけてもらい、今の面積になったようですよ。二つ目は同じ意見です。北の大明神に武市常三の墓はないと思います。でも、長老が武市常三の墓と石碑を立てているので、後々には本当のことのように語られるようになるかもしれませんね。歴史はそういうう風に作られる一面もあるので。元本家の家があったところは、現在二枚の畑になっていましたが、元二枚の畑についてもいつ二枚の畑に分けたのかはわからないようです。宅地というのは昔はよく固めてから家を建てたといいます。畑にするのは本当に大変だったでしょうね。持ち主は南の集落の方で、少し前、一つは同じ南の集落の方に売ったと聞きました。そして、本家の方は貧乏して家や田畑をなくし、江戸時代にどこかへ行ってしまったと聞きました。俗に言う「夜逃げ」という状況のようですね。「本家」という言葉が出ていましたが、大明神の小屋を建てた長老が次のようにも言っていたそうです。南と北の武市は同じ伊予の越智一族ではあるが、違うと。それで家紋が違ったわけですね。ここで言う「本家」というのは北の数軒の武市での「本家」ということのようですね。南の武市は含んでいないと言うことらしいですよ。その本家争いを北の武市の数軒の中でしてしまい、少しばらばら状態のようだとも聞きました。
      また、近くに行ったとき、こんな意見も聞きましたよ。戦国時代くらいかな、伊予の国から東の方で戦がたくさんあり、その戦で手柄をたてたいと思う人たち(武市 河野姓)がやってきて、その内の何割かがさらに東へ移動し、名古屋岐阜周辺で戦いに参加をして手柄をたてて、蜂須賀の家来として徳島へ帰ってきた。それが「常三」。その常三が隠居の地として選んだのが、この地。ここには徳島にとどまった同郷の人がいたので、この地に来たのではないかというもので、すこし、嘘か本当かわからないけど、納得してしまいました。夢があって面白いと思いました。まったく素人の自分で、部外者ですが、このような思ったことが書けるこの「・・・・日記」はいいですね。



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    3. (そのⅡ)      令和2年1月初旬
      「2017年12月23日『タケイチ』」さんの見解(1~3)について。
       本当にきれいにまとまっていますね。何か歴史の専門家的な意見で、学芸員の方か、歴史の先生のような職業の方でしょうね、そして北の武市に関係する人かな、たぶん。書いてあった内容を昨年何度か、近くを通った時、近くの人にさりげなく聞いてみました。自分の勝手な見解ですが、パート2としてまとめてみました。その1とダブっているところはすいません、怒らないでください。
      1について、記入されていた内容は下のようなもの。
       「南の集落も同族です。分家した時にに本家と区別するため、家紋の枠線を二重にしたと聞いています。その分家から分家を繰り返して、南の集落になっています。本家から分家した家、分家から分家した家もありますのでザッと10軒以上近所に集住しています。祭礼は同じ日に北のグループも南のグループもしています。その他にも、分家する時に家紋を変えている家もあります。岐阜の武市さんもたくさん分家がありますので、岐阜本家は本家であることを示すために折敷を○で囲った家紋です。」という文章。
      どうもおかしいです。「分家した時にに本家と区別するため、家紋の枠線を二重にしたと聞いています」というのは。常三の墓石についている家紋は南の集落と同じです。きいてみると、長老はいろいろ調べて武市のルーツを調べたと聞きましたが、個人的見解が多いのではないでしょうか。石井町も少し関わっているようですが、石井町は南の「武市」の話はあんまり聞いていないようですね。南の人は無くなった長老が勝手にやっており、いつの間にか教育委員会の石碑まで建っていると言っていました。南の一軒に家系図や家の図面など嘘か本当かあると聞きました。そして、そこの家系図などが北の武市の誰かに貸したと言っていました。約90年くらい前に。亡くなった長老も生前、南の武市と北の武市は違うとよく言っていたそうです。北の武市(3軒)も同郷の越智一族だと思いますが、四国で留まったグループではないでしょうか。だから、長老の奥さんが言っていたと聞きましたが、無くなってしまったけど、古いお墓が多くあったようですね。常三の関係なら、蜂須賀が徳島に来てからのものになると思いますよ。常三の子孫は南の集落ではないかなと想像します。常三の子孫は南の武市ではないですかね。
      岐阜の本家の話も出ていたので、岐阜に知人がいるので、行く機会があれば、川辺町に行ってみたいと思いました。

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    4. その3
      2について 記入されていた内容は下のようなもの。
      「 北の大明神は本家の方が建てられましたが、もちろん昭和の話です。すぐ近くに本家の墓地がありますが、常三のお墓はありません。寺町にあると聞いています。大明神は厳密には墓ではないと思います。いつの間にか墓と書いてありますが・・・。 文政5年の記録には大明神はすでにあったことが古文書に残っています。本家の敷地内にあったのかもしれません。今、北の大明神がある広い畑2枚分が本家の屋敷跡です。その時代どんな建物だったのか、または祠だったのか、どのような祭礼をしていたのかは私は知りません。祭祀の時期もどうやら江戸時代と違うようで、時代に合わせてやり方や時期は変えています。」
      これも、おかしいような気がします。
      「本家の方が建てられました」と書いてありますが、念のため、もう一度、近くを通った時に、近く方に聞くと、やはり、長老が昭和五十年頃建てたという返事でした。しかし、建っているところは元々土を正方形に盛ったところで、目立った物はなかったということでした。写真に写っている物(灯籠、常三と書いた偽の墓、まわりを囲んだブロックなど)は本来無かったようですね。それに、北の大明神の元敷地は今の敷地の6割くらいだったようで、長老が持ち主(南の集落の武市)に交渉してわけてもらい、今の面積になったようですよ。このことは長老の奥さんも知っていたし、売った側も覚えていたらしいので間違いないと思います。
       また、この文章の中に「本家」という言葉がありますが、本当に本家ですか。近くに人で本家だと思っている人は少ないのではないでしょうか。それに石井町教育委員会が設置した由緒などを書いた石、本当によく調べたのでしょうか。調査に来ていないという返事。長老の話だけ聞いて終わったのではないでしょうか。南の数軒ある武市という家にも聞きに行った方がよかったと思います。
      「文政5年の記録には大明神はすでにあったことが古文書に残っています。」という文章がありますが、南の集落の中心にある武市大明神には鳥居や灯籠(二つセットの灯籠がなぜか一つしかありません)があり、作られたのは文政○○年とか寛政○○と掘られていますね。江戸時代から会った大明神は南の集落にある方ではないかな。祭りの時に出す、藍で染めた幕も古い木綿で、北の新しい幕とは全く違いますね。そして、幕に書かれている内容も古い内容ですね。一度、お祭りの時に来て見たらいいと思いますよ。
      また、北の大明神がある広い畑2枚分が本家の屋敷跡というのも本当ですか。二つの畑の高さがすこしですが、違っていますね。どちらかの畑を高くしたのか、低くしたのかよくわかりませんが、宅地というのは昔はよく固めてから家を建てたといいます。畑にするのは本当に大変だったでしょうね。持ち主は先ほども書きましたが、南の集落の方で、少し前、一つは同じ南の集落の方に売ったと聞きました。そして、本家の方は貧乏して家や田畑をなくし、江戸時代にどこかへ行ってしまったと聞きました。昔の言葉を使うなら、「夜逃げ」状態だったらしいです。
       また、近くに行ったとき、こんな意見も聞きましたよ。90年くらい前、前の集落の一軒に、昔から伝わる家系図とか家の配置図のような物があり、北の集落の一軒の家が見せてほしいと言ってきて、持って帰ったといっていました。持ち主はその時写し取られた可能性はあると言っていたようです。最後に、こんな面白い話も聞きましたので、書いてみたいと思います。
       戦国時代くらいかな、伊予の国から東の方で戦がたくさんあり、その戦で手柄をたてたいと思う人たち(武市 河野姓)がやってきて、その内の何割かがさらに東へ移動し、名古屋岐阜周辺で戦いに参加をして手柄をたてて、蜂須賀の家来として徳島へ帰ってきた。それが「常三」。その常三が隠居の地として選んだのが、この地。ここには徳島にとどまっていた同郷の人(北の集落の3軒の関係者)がいたので、この地に来たのではないかというもので、すこし、嘘か本当かわからないけど、納得してしまいました。夢があって面白いと思いました。まったく素人の自分で、部外者ですが、このような思ったことが書けるこの「・・・・日記」はいいですね。
      一年に一度 ~ ぐーたら気延日記 (重箱の隅)~ を年末に覗くのが楽しみです。思ったことを書いても、歴史そのものが本当かどうかわからない物なので、気が楽でいいです。

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    5. その4
      最後に、少しいやなことを聞きました。それは北の大明神に教育委員会の石碑ができたくらいから、北の方で不幸なことが起こったというのです。長老の家も若い人から順になくなっていき、また近くの家では里帰りしていた人が自宅の庭に止めてあった車の中でなくなっていて、警察が来て大騒ぎになったと聞きました。常三が勝手にどこが本家とか子孫とかわからないのに決めるなといっているのかな。過去も大事ですが、今が一番。

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    6. その5
      忘れていました。年末に寿量寺の近くを通ったので、久しぶりに寄ってみました。武市常三の墓地に「太田家累代墓」と書かれた墓石がありました。これはどうなっているのかな。常三が太田家に婿養子に入ったのかな。でも、家紋は南の武市の家紋がついていたけど・・・・。

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    7. ぐーたら様
      ご無沙汰しています。
      以前書き込みをしました何にでも興味を持って書きまくる匿名です。久しぶりに見ましたが、誰も書いていないので少し寂しい気持ちになりましたが、一年に一度この時期に聞いたこと、見たことなどを書いて楽しんでいる者として、今回もいろいろ想像し、思い出しながら、頑張って書いてみたいと思います。
       一つ目は徳島新聞に武市常三について書かれた記事がありました。読んでみて本当によくわかりました。書いた人は徳島城博物館の根津寿夫という方です。わかったことは次の通りです。
      ① 美濃国 河辺郷の領主の三男    ②戦国大名 斎藤道三に仕え十五歳で初陣
      ③ 豊臣秀吉が丹波国で一万石を与え大名に取り立てようとした。
      まとめとして、常三の人柄は、無欲で律儀な歴戦の勇者ということでした。いいですね~。
      常三は本当に素晴らしい。こんな人物だから、みんな言いたいのでしょうね。自分は常三の子孫だと。わかります、その気持ち。

       二つ目は北の武市大明神の灯籠(現在はどうしてかわかりませんが、解体してあります。)の紋がおかしいのです。どうおかしいのかというと、その紋が南の武市の紋と同じだと言うことです。前回、南の大明神の灯籠が一つ行方不明と書きましたが、どうやらその無くなった灯籠ではないかと言うことです。長老が持って行ったという噂もありました。

       三つ目は南の集落で10月に行われる武市大明神祭の時に出して使われる紺色の幕に書かれている文字です。 「文政十一・・・・八月二十日」「板野郡中原村 越智姓 武市・・・」「阿波常三島 小千姓 武市・・・」よくわかりません。そばを通ったとき、ちょっと見ただけなので。興味のある人は調べてみてください。そして、何かわかったら、この日記に書いてほしいです。

      最後に、残念なことですが、長老の家で一人生活していた奥さんも、現在、介護施設に入っていると聞きました。子ども達が交互に家に来て掃除をし、奥さんが戻ってこれるようきれいにしているようです。
       最初の方に乗っている写真ですが、武市常三の墓はおかしいと思いますので、消した方がいいのではないでしょうか。うさんくさい青石とか、とってつけたような妙な石の社は消した方がいいと思いますよ。

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