2011年6月11日土曜日

石井町「薬師庵」

ご無沙汰でございます。今日も雨模様でどこにも行ってはないんですが
ちょっとは書いとこうかなとか思って書いております(意味不明)

でも、ホントはこの記事お蔵入りにしようかなと思ってたんです。理由は後で。

石井町利包(としかね)に真言宗のお寺「薬師庵」があります。
無茶苦茶分りにくい所にありますが、石井町の神宅(かんやけ)神社と白鳥神社の
間あたりです。
場所はここですが、例によって例の如く、車では行きにくい所です。

より大きな地図で 石井町利包の石風呂 を表示

さてここに何があるかと申しますと、石井町指定の文化財「石風呂跡」があるんですねぇ。
「薬師庵」自体はこんな感じです。
変なおっさんが突然バレーの練習の邪魔してごめんなさい。
阿波学会研究紀要に図面がありましたのでお借りいたします。
内部図面もありましたが「転載不可」でしたので。

で、解説はこうです。
で、これも阿波学会研究紀要からの引用ですが

薬師庵が所蔵する由来書が新旧二通ある。古い方は残片をとどめる程度で、全文の解読は
不可能である。新しい方は江戸中期ごろ、当時の庵主が古い方を転写したものと思われる。
その内容を概説すると次のとおりである。
 「天平9年(737)聖武天皇は、厄除祈願のため僧行基に命じて、四国に九十九体の薬師
如来像を造らせた。行基は石井へ来て、前山の密林の中に小屋を建て、そこで薬師如来を
念じている中、「厄難を避けんと思えば、この山の温石(おんじゃく)で石風呂を築き、
17日間入浴すれば、厄難はもとより、諸病難を除くであろうとの霊示を得た。これがこの
石風呂の由来である。」

中略

ただ、石風呂の原型は天然の岩穴などの中で、焼いた温石に水を注いで蒸気を発生させた
といわれる。
従って現在のような、石を赤土で練り固めて築造した石風呂の登場は、ずっと時代が
下がり、江戸中期以後と考えたい。

無論、実際に聖武天皇の御宇の頃作られたとしても、そのままの形で残っている筈も無く
何度も構造が変えられていった事は想像に難くありませんので、旧態のまま残っていない
からといって由緒を疑う理由にならないのは当然ですよね。
それにしても聖武天皇の頃、行基上人が作られたというんですよ。

さて、ここからが書きにくい部分。
当ブログじゃあんまりおおっぴらに書いてはないんですが、要は記紀の舞台が阿波に
あったのではないかというスタンスで書いております。
「允恭天皇神社」しかり「舎心山太龍寺縁起」しかり「品陀真若王社跡」しかり
ってとこなんですが。
その伝で大師匠の「のらねこ大先生」が
「崇神天皇は阿波国美馬郡にいた」のコメントの中でお書きになっております。

「前略 久久能智神は石井の神宅神社。大山津見神は、阿讃山脈の大山。この2点を結ぶ
線上に鹿屋野比売をる鹿江比賣神社。
この4点を結ぶエリアで吉野川沿い平野部がすっぽり収まります。
久久能智は木の神ですが、ここが入り口でこの南のほうが木の国です。
古事記では「木国」「紀国」と書かれますが、のちに「紀伊の国」と書かれ、和歌山のこととされます。
これも地名のコピーですね。

方言のところにも書いたでしょう。
阿波弁では一音を伸ばして発音すると。
「木」の国は、阿波弁では「きーの国」と発音します。
後世、その音通りに漢字を当てたのが「紀伊」です。

つまり、「木」「紀」と書いて「きぃ」と発音する地方がオリジナルの「木(紀)の国」だとわかります。」


と申しております。
「紀伊の国」が石井町のあたり?
じゃあ、例えば日本書紀にでてくる斉明天皇紀のここ
「九月有間皇子性黠陽狂云々徃牟婁温湯偽療病来讃国体勢曰纔観彼地病自蠲消云云天皇聞悦思欲徃観 
9月有間皇子は性ずるく狂ったようにふるまうことがある云々、(紀の国の)牟婁の湯に
行って偽の病の治療をしてきたように見せかけ  以下略
の部分とかは
「五年春正月己卯朔辛巳天皇至自紀温湯 」
5年春正月に天皇が紀(の国)の湯に行幸された

などの記載を受けて紀州、和歌山の白浜温泉だと言われております。
この紀の国を石井町とするなら温泉は?
石風呂のことでしょうね。

上に記した「薬師庵」は聖武天皇の頃ですので時期は合いませんが、石風呂、釜風呂が
仏教伝来とともに入ってきていたのなら、斉明天皇の頃に石風呂があっても全くおかしく
ないと思うんですが。
さらに、斉明天皇紀では「牟婁温湯」となっております。
牟婁(むろ)」って「室(むろ)」が語源なんですが、ならば室の湯は石風呂じゃ
ないんですか?
大体白浜温泉があるのはもともと「牟婁郡」じゃありませんでしたしね。
石井町にあったであろう石風呂のほうが合うんじゃないかと思うんですが。
ただ、斉明天皇の頃に石風呂があったかどうかは想像するしかないですし、「紀温
と書くとき、それは石風呂(蒸し風呂)ではなく温泉の湯の事を言うのが「今では」
一般的なので、その辺りも悩む所です。

という訳で(どういう)←もう飽きたよぉ。
ひじょ〜に書きにくい記事でございまして、写真とか資料とかは準備してたんですが
やっぱ止めようかなぁ〜と思っておりました。
が、書く事がないので何となく書いた次第でございます。
結局はいいかげんと言う事ですな、はっはっはっ。

なにを笑ってんだか分らない状態でお開きとさせていただきます。

20 件のコメント:

  1. 温石・・・おんじゃく・・・。
    小さい頃に、この石でコンクリートの上に線を引いたり、絵を描いたりして遊んでいましたネ♪
    神山にも「石風呂」がありましたよネ!!
    川島にもあったような・・・「古墳」の石室かな?
    (●^o^●)♪

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  2. まず日本書紀は、地名に関していうと非常に人工的・作為的な印象を受けます。
    古事記と比べれば、ほぼ同じ時代の記述で何故こうも違うかと思います。
    阿波説など知らず、普通に紀を読むと、通説のような地名の解釈になるのも当然でしょう。

    古事記と日本書紀の比較でいえば、昔から古事記偽書説とか、実は記は紀を参考に、より後の時代に書かれたとかいう人がいます。
    しかし読めばすぐわかるように、紀は完全な国史・正史として主に世界を意識して書かれています。
    この時代の日本にとっての世界とは、イコール中国であって、それ以外の国は頭にありません。
    だから完全な漢文体で書かれているのであって、一部の学者が言うように、漢字が入ったばかりだから漢文で書かれていて、古事記の時点では漢字を和風に使いこなしつつあるから後の時代の作なのだという指摘は的外れです。
    内容にも非常に中国的な表現があったり、朝鮮半島との関係も中国人が読むことを頭において書いているようです。
    つまりすごく政治的な意図が介在した文献ですね。

    実話を元にしているとしても、かなりの脚色が加わっています。地名に関してもです。
    「紀温湯」へ行かれたというのだって、木国の石風呂へ静養に行かれたという話をそう表現したのかもしれませんね。

    和歌山県の牟婁に関しても、阿波の牟岐・勝浦・白浜・室(室津・室戸)と一体となってコピーされてます。

    http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/43467611.html

    室津(淡路島)も阿波の一部でしたし、『大日本地名辞書』には海部郷は高知の室戸あたりまでを含むと書いてます。



    まだ漠然としたイメージなんですが、鳴門には木津があり、海部には木岐があります。
    木の国の津と岐だとしたら、古代の一時期の木国(と表現されているエリア)とは実はかなり広範囲だったのではないでしょうか?

    国郡里制は701年の大宝律令で定められました。
    古事記 (712年)、日本書紀 (720年)の記述は、当然この影響を受けて書かれているのです。
    そこから数百年前の記紀の物語の時代には、まだ地名すら確定していなかった地方の話も挿入されているはずで、この8世紀時点の地名を当てはめて記述されます。

    記紀においては、13代成務天皇が初めて国や郡の境を定めたとありますが、それ以前はそんなにはっきりした区別がなかったということでもあり、隙間なく地名というものが決められていて、その境界もはっきりしているというのは現代人の感覚で、古代は当然そんなことはありません。
    人口も少なく地図上では虫食い状態に人が住み、地名も曖昧だったでしょう。

    それに、現代で言えば、石井町の場所を表現するときに、「日本」といっても「四国」といっても「徳島」といっても「名西」と言っても「石井」といっても間違いではないように、「国」の定義すらない時代、たとえば「き」という地名と「かつら」という地名と「なか」という地名などが地図上で被さっていても何も不自然なことではないといえます。

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  3. きよっさん2011年6月12日 11:53

    ぐーたらさん、こんにちは。m(_ _)m

    石井町が木国ですか…。地名のコピーが多々あるのは知ってはいましたが
    まさか石風呂より記紀の内容と繋げるとは目から鱗です。

    みなさんが研究されていることは柄のない膨大なジグソーパズルを手探りで探し埋めていく作業に近いところがあると思うのですが、同志のネットワークも強力で頼もしい限りですので近かららず遠からず何らかの成果はでることと期待しております。( ´ ▽ ` )

    私は知識が乏しいのでみなさんの考察に触れて勉強させて貰っているだけなんですが、客観的に観るとこれだけの情報をだしているにもかかわらず然るべきところが興味を示さないのはおかしいといつも思い、いつも腹立たしい気持ちにさえなります。(逆に動きだしたら鬱陶しいかもしれませんが…苦笑 )

    いろんな視点からの諸説はあるのは当然。またそれに挑み、これまでの歴史の教科書をひっくり返す内容に挑むみなさんをこれからも影ながら応援させていただきたいと思います。(私は全然役に立ちませんので。爆‼ )
    ま、みなさんと共通する熱いところは真実を知りたいというところですかね。

    それでは。(`_´)ゞ=3ドロンっ!

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  4. http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/50969433.html

    上で書き忘れましたが、式内社・室比賣神社の「室」「室津」は当社の海部の地名で、室戸、室津、牟婁、はこの関連地名と思われます。

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  5. to すえドン さん
    徳島市大原町篭(かご)にも同じ構造の石風呂があるそうです。
    ただ、そっちは新しそうですけど。
    で、石井の石風呂は由緒が残ってて貴重かな、と思ってます。

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  6. to のらねこ さん
    >「紀温湯」へ行かれたというのだって、木国の石風呂へ静養に行かれたという話をそう表現したのかもしれませんね。
    その観点で書いてみたんですが・・・
    今回の記事はぐだぐだで申し訳ないです。
    最近ずっと「日本書紀」ばかり読んでて、漢文と作為的な記述に頭を抱えてます。
    ただ、「日本書紀」は年と月日が比較的詳しく書かれてて、資料としてはありがたいです。ただし、どこまで信用するかの問題ですが。
    表記にしても、おっしゃる通り統一されておりませんし
    例えば、最近見た資料にも「気延(きのべ)」は「木戸(きのべ)」つまり
    木が多いことを意味するとの表記を見つけたりしてます。
    であるならば、石井町の気延山麓であるこの近辺、やはり木の多い「木の国」との解釈でいいんでないでしょうか。
    ただし一宮の方まで含まれてるかもしれませんが。

    で、「牟婁の湯」「だけ」に関しては「室(むろ)」つまり石風呂であるとの解釈で間違いではないような気もするんですが。
    地名の「牟婁郡」等々は「室津」「牟岐」「室戸」などを含む海部氏の居地でありましょう。

    でね、今度の記事はね、中途半端なんでホントに心苦しいんですよ。
    「紀伊の国」の傍証のつもりだったんですが(涙)
    もう一度、滝に打たれて修行して参ります。

    余談ですがBloggerはコメントがいっぱい書けていいでしょ。

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  7. to きよっさん
    コメント遅くなりました。こんばんはです。
    この前も出張のときJRでずっと「日本書紀」読んでたんですが、いろいろ「会う」んですよ。不思議なくらい。
    古事記研究会さんじゃないですけど、人皇の部から詰めていけばすっごいことになりそうな気がします。
    変な宗教に毒されたような気分です(笑)
    一人で勝手に毒されてるんですけどね(爆)

    知識が乏しいのは皆おんなじでしょ、こんなの(笑)
    異界があるのにすれちがってるってことですよ。
    視点を変えればいくらでも出てきます。
    ワタクシめはその中で面白そうな所「だけ」を書いてる訳でございます。
    また、「面白そうな」所をご協力いただければ、恐悦至極でございます。

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  8. そうそう、そうです。私も紀伊国の傍証だと読ませていただきました。
    書きたいことがたまってるのに書けないのでだらだら書いてしましました。すみません。

    古事記も日本書紀も書かれる時点で数多い伝承を元にしていますから最初からすべて正しいかどうかもわかりませんが、100%の作話ということもないでしょうし、事実を汲み取るしかないですね。

    本来の木の国の室風呂のことを、新紀伊の国の地名牟婁に当てはめるというテクニックを使った可能性ということを書きたかったのです。

    ところで香川の何処かには石風呂跡が残っていますし、さぬき市には1300年前からあるという「から風呂」が今でも利用できます。

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  9. 斉明天皇7年には、「伊予の熟田津の石湯行宮に泊つ」というのもありますね。

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  10. to のらねこ さん
    そうそう(笑)斉明天皇紀にはやたら「湯」が出てくるんですよね。
    多分石風呂へ行くのがステータスだったんじゃないでしょうか。
    露天風呂なら誰でも入れるし、仏教伝来以来「流行」の石風呂へ行くのは
    天皇、僧侶ならではの特権じゃなかったのでは。
    そうでなければ、あえて「紀」に書く意味ないですよね。

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  11. なんか読み返すと私のコメントぐたぐたですね。
    ぐーたらさんの記事の意味も意図もわかってるんですよ。

    >人皇の部から詰めていけばすっごいことになりそうな

    まさしくです。
    眠れる宝の山かも。

    木国について書くときには室も木戸も使わせてもらいます。
    寝不足なんで大目に見てやってください。
    ごめんねごめんね~(U字工事風でお願い)

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  12. to のらねこ さん
    ご同慶の至りです。
    本文も今見直してみると、なんでかフォントがバラバラだし、訳分かんないです。
    「紀」でとりあえずもう一回書く事があるのですけど
    やっぱり、ぐたぐたになりそうです(苦笑)
    ぐたぐた気延日記にしましょうか。(これも笑えない)

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  13. あわちゃん2011年6月14日 22:06

    お久しぶりです。「道は阿波より始まる」を手に入れて以来すぐ読めるように3冊常に持ち歩き、
    そのくせ読み始めると急に強烈な眠気におそわれる・・を繰り返していました。^^;
    そして今、「室」だけに反応しコメントを書き始めています。
    播州にも室津があり、ついこの前行ったばかり。そして大きな賀茂神社がありました。
    それが「道は・・」のその3にも載っており、へ~って思っただけなんですが。
    すみません。もっと考えてコメントします。
    また・・眠たくなってきました。

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  14. to あわちゃん さん
    「読んで」「行ってみる」のが面白いと思いますよ。
    「行って」から「読む」のでは見落とす所ができてしまいますからね。
    ついでに安い地図を買ってしるしをつけるのもいいんでないですか。
    あ、でも女性の方は地図を読まない(読めない)って説はどうなんでしょうか?
    失礼な事を言ってしまってるかも。
    それと、賀茂神社の由緒、賀茂族(鴨族)の由来なんかを調べても面白いですよ。

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  15. あわちゃん2011年6月15日 0:39

     なんだか目が覚めました。^^;
     私は地図はカーナビより好きです。全体の中の位置が分かる方が安心だから。
    この賀茂神社で、社務所にいた(宮司さんらしき)方に話しかけてみたんです。(阿波で反応があるかふってみたかった)
    「立派な神社ですね。私も鴨神社の近くで育ったので、なんだか親しみがわくんです。」
    「・・どこから(の)ですか?」 (来た!)
    「徳島の(あの丹田古墳の)三加茂町にある鴨神社!です!」(力強く)
    「賀茂神社は全国に沢山ありますからね・・京都の云々・・・・」(あっさり^^;)

     「もしかしたらと思って聞いてみたんやけど、なんやあの人まだ知らんのやな。鴨神社が先やのに、後でびっくりすることになるわ。」(中途半端な播州なまりの阿波弁・・?)
      またはじまったかという顔の主人相手に 阿波の古代史の初歩を語りながら、室津の石畳を歩いたんでした。

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  16. to あわちゃん さん
    そりゃ、知らんでしょう(笑)
    県内でそんな事言っても全く相手にされないのにねぇ、県外だといよいよですよ。
    たとえ安房の国の人にここらの神社はほとんど阿波の忌部が祀ったものですよと言っても「?」で終わるでしょうねぇ。
    大嘗祭に木屋平の三木家が麁服(あらたえ)を納めているあたりからはじめなくちゃだめですよ(笑)

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  17. まーあれですわ。
    今の神社で人が常時詰めているようなところは、観光化してたり、ビジネスとしてやってるようなところが多くて、歴史の真実なんか興味がないでしょう。

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  18. to のらねこ さん
    あ〜知ってる知ってる、そんなとこ(笑)
    でも、神社は寺にも増して収入少ないようですからねぇ。
    ここらの(言えんわ)宮司さんも、かけもちばっかでしょ。

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  19. あわちゃん2011年6月16日 0:27

    そうですよねえ。
    でもそんな秘密をうっかり知ってしまったんですね。
      倭は国のまほろば  たたなずく青垣
            山ごもる 倭し美わし
    もうこの歌で思うのは、むせかえるほどの青と緑の吉野川中流域の山々の風景でしかありえません。
     
     ①山なみ遠くさわやかに みどりあふれるつるぎ山
     ・・・
     ②忌部のこころ受け継いで くらし豊かな町つくり
     ・・・
     ③木綿麻の川に 色染めて咲かす文化の花模様
     ・・・
     貞光町民歌の1~3番の前半部分ですが、ここの部分がとても印象的でした。・・山なみ遠くさわやかに
    緑あふれるって、倭健命の歌に重なるんです。


                  

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  20. to あわちゃん さん
    >忌部のこころ受け継いで
    って凄い町民歌ですねぇ、貞光は。
    さすがのもんです。

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