2013年1月13日日曜日

阿波国は本当に粟国なんですか?

ちょっと二人程に先にしゃべくってしまったので、なんとなく書いてしまいます。
阿波国はホントに粟国からの由来なんですか?

「阿波」の名称と表記
古代、現在の徳島県の北の地域は粟の生産地だったために「粟国(あわのくに)」、南の地域は「長国(ながのくに)」と呼ばれていたが、大化の改新の後に「粟国」に統一された。和銅6年(713年)、元明天皇の命により地名を二字で表記するため粟は「阿波」に変更された。 wikipedia
とあります。

また、古事記の国産みの段を見れば

如此言竟而。御合。生子淡道之穗之狹別嶋【訓別云和氣下效此】次生伊豫之二名嶋。此嶋者身一而有面四。毎面有名。故伊豫國謂愛(上)比賣【此二字以音下效此】讚岐國謂飯依比古。粟國謂大宜都比賣【此四字以音】土左國謂建依別。次生隱伎之三子嶋。亦名天之忍許呂別【許呂二字以音】次生筑紫嶋。此嶋亦身一而有面四。毎面有名。故筑紫國謂白日別。豐國謂豐日別。肥國謂建日向日豐久士比泥別。【自久至泥以音】熊曾國謂建日別【曾字以音】次生伊岐嶋。
亦名謂天比登都柱【自比至都以音訓天如云】次生津嶋。亦名謂天之狹手依比賣。次生佐度嶋。次生大倭豐秋津嶋。亦名謂天御虚空豐秋津根別。故因此八嶋先所生。謂大八嶋國。

とあり、「粟國を大宜都比賣と謂う」から「粟國」との記述で、粟がこの地で多く栽培されていたのに由来すると解釈するのが普通でしょう。
また、吉野川中流の川中島として「粟島(現在の善入寺島)」が阿波の地の語源とも言われていることは有名でしょう。

しかし、単に「粟島」ならば他にもありまして、例えば香川県三豊市の「粟島」
あるいは新潟県岩船郡粟島浦村の「粟島」
新潟県の「粟島」については
縄文時代の遺跡が東海岸に5ヶ所発見されていることから、既にその時代には人が住んでいたと想定される。しかし、弥生時代・古墳時代の遺跡は発見されていない。万葉集第12巻所収の「波の間(ま)ゆ雲居に見ゆる粟嶋の逢はぬものゆゑ吾(あ)に寄する児(こ)ら」が文献資料での粟島の初見と思われる。wikipedia
ともあります。

また、「粟国」についても「粟国(あぐに)の塩」で有名な沖縄県島尻郡粟国村は「粟国」島にありますよね。

なーに言ってるんだ、って声が聞こえてきそうですが、単に「粟島」から「粟国」は分るにしても、「阿波」になった理由が釈然としないってことが言いたいだけなんです。
「粟島」が阿波だけに存在する地名でない以上、例えば新潟が「阿波」になっててもおかしくなかったかもしれないということです。
もちろん、吉野川の「粟島」が川中島であり、阿波の中心付近に位置していたからとか、色んな理由があるってことは承知の上で、世迷い言を呟いてるんですぜ(笑)

では、なんでこんな世迷い言を呟いているかと言いますと、去年からこんなのを読んでおりまして。
「阿波國後風土記巻之一 初稿」松浦年長(宗作)の手による文です。
徳島県立図書館の正式な許可を得てませんので画像は部分といたします。

松浦年長(宗作)は、ワタクシがくどくど言っております「阿波國続風土記」編纂御用掛
主要メンバーの内「主任」とされております(後藤年譜より)。
後藤家文書の中で、後藤尚豊(麻之丞)が「まつらぬし様」と呼んでいる、実務上のまとめ役を行なっておりました方です。
ちなみに徳島藩校である「長久館」から出仕した士分の方です。
その「松浦年長」が「阿波國続風土記」の序文として書いた文書ですが、「続風土記」の編集方針であるとか基本的な阿波国の由来であるとかを記しております。
最初の方だけ簡単に書下しますと(旧仮名遣いとかは勝手に変えてます)

此の粟の國は顕世(うつしよ)の初めにまず成り出るは伊豫の二名(ふたな)の島の四面あるが中の其の一面にして山青く水長く萬(よろず)満ち足るをせる御國なり、そは古事記に伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)二柱神・・・

と始まっております。
また色々面白いことも書いてあるんですが
例えば位田を王地山城国と同等に扱われているとか、「拾芥抄」(しゅうがいしょう)に「封戸に充ずして其の國を禁秘し賜う」とあるとか(笑)
ここらは全文書き下してから見て行きたいと思いますが(思うだけだったりして)
今回見ていただきたいのは、この部分。

本国(このみくに)を阿波という名の義は海國(あまのくに)なり(阿)波と麻とは同じ唇音にて、ことに親しく通へり、凡て皇国の古義事実を探索なすには、まず神社地名の起源を故事に倣し古言和訓を明らめ五十音を貫徹し神国の神国たる御名代(みなしろ)の御名代(みなしろ)たる言霊の幸は小国たる所以・・・

阿波國(あわこく)は海國(あまのくに)の意だと申されております。
ここからは原文の書き下しは載せませんが、その理由が綿々と書かれております。
凡直(おおしのあたい)、粟凡直(あわのおおしのあたい)は海神に縁(えにし)あり、大麻日子の神も海神(わたのかみ)建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)に因縁(ちなみ)ありしより潮之郡(いたのぐん)の名神となり、などとも言っております。
また、凡直(おおしのあたい)は尾張連(おわりのむらじ)凡海連(おおしあまのむらじ)、安曇連(あずみのむらじ)と同祖なる事継体天皇の御巻に尾張連の祖は凡連という人出て、とも書かれております。

そして粟については、粟という作物はどこでもできる雑穀であり、その昔に(粟を植えることを)奨励されたが農民はそれに従わなかった程の無味下品(げぼん)の性であるのでこれを国名にするのは有りえない、じゃあ吉備国は黍(きび)が多く穫れたから吉備にしたのか?ちがうでしょ(笑)との説を展開しております。

では大宜都比売(おおげつひめ)の鼻から粟が実って、云々の話はどうなんじゃいとの問いには、凡爾臣(和爾氏)の祖である「意祁都命(おげつのみこと)」その妹「意祁都比売命(おげつひめのみこと)」また妹「素祁都比売命(そげつひめのみこと)」からきてて、これは全て海神(わたのかみ)の縁(えにし)であると言っております。


実際、安曇宿禰が上八万町の大木にいたことと佐那河内にいたことは多分間違いないんです。上八万の大木は王城からの転ですし、佐那河内には大川原(高原)がありますが、あそこに川原なんて無いことは県民誰でも知ってます。「王ケ原(おうがはら)」の転なんです。

まだまだ書ききれないんです、松浦年長による説は。

でも大筋は上に書いた通りです。阿波国の義は「粟」からではなく「海国(あまこく)」からという説です。
これを「阿波國続風土記」の序文として書いているのです。

その他にも「勝間の井」についても調べて行く旨、記されており、これについては「後藤尚豊」氏の「勝間井探索記」も手元にありますので、皆様の希望があれば書かせていただきますが、どうしましょうか?

あ、もひとつ。
これはあくまで「松浦年長」の説であって、ボクはよく分りません(笑)

ただし、海国説を採るといろいろ面白い解釈ができることも確かです、例えば御名を大海人(おおあま)と云う天武天皇は、幼少期に凡海氏(海部一族の伴造)に教育されたと言いますよね。
「大海人皇子(おおあまのおうじ)」ですよね。
海人(あま)が海国(あわこく)から来てるなら........以下略



嗚呼、今回も画像が無くて読みにくいなぁ。

56 件のコメント:

  1. 阿は五十音の最初、つまり一番始めの意で、波は和、つまり倭のことで、阿波とは倭の始まりの場所のことである、という説はどうでしょうか?(笑)

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    1. 充分「あり」だと思いますよ。
      「阿」には「大きな」という意味もあるので「大倭」ととってもいいし、文字通り「波が始まる」とすれば、今回のテーマ通りにもなりますしね。

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  2. 阿波は海(あま)の国だから、阿波の国なんですね。とてつもなく、すごい情報ですね。当たり前だと思っていたことが、当たり前でなくなってきた。研究の源になりますです。(^^)

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    1. 書いていいのかどうか迷ったんですけどね。
      いろいろひっくり返る事があると思います。
      下手したらとんでもない事になるかもしれません(笑)
      でも、何でも一度は疑ってかかる事が大事ですよね。

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  3. サクラサク48692013年1月13日 22:36

    ぐ~たらさん、こんばんは。早速書いていただきありがとうございます。
    凡は船の帆を表していると聞いたことがあります。
    勝間もまたお願いします(^^)
    モヤモヤしています(^ー^)

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    1. 個人的には原典(第一次資料)ってやつは極力出していこうという方針でやってます。
      勝間井については、詳しい資料も手元にあるんですが、入力に手間がかかるんです(涙)
      誰かテキスト入力だけしてくれませんかね。
      そしたら好き勝手に付け足して、ある事無い事書くんですが(笑)
      いや、書きますけどね(笑)

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  4. わたしも丁度「あ」に関連する一族について調べています。

    松浦氏は、大彦命の裔で安倍、高橋などは同族ですね。
    出雲には100代以上続く式内社・水神社を祭祀してきた松浦氏がいます。
    海部氏は、元々は紀氏です。紀伊国造系譜の天道根命は天香語山(イソタケル)
    の子です。その紀氏に関連する郡に伊勢と石見の安濃郡(「あ」の郡と読みます。)
    があります。

    出雲国神門郡高岸郷(元は高椅と言った)に阿(あ)利神社があって、
    石見の安濃郡に因む吾郷氏が多く居住しています。
    出雲郡河内郷には吾郷氏に因むと考えられる阿吾神社があって、
    彦火火出見神と豊玉姫命を祀り、出雲系ではないと言う言い伝えがあります。

    石見には、小野氏と忌部氏が領土争いをした伝説が残っています。
    海部族(忌部)と出雲族の喧嘩と言っていいと思います。
    (小野氏は出雲族です。)

    富家の言い伝えでは、粟島神は、事代主命のことを指しています。
    米子の粟島神社は松浦家と関係していて、事代主命が幽閉された
    と言う言い伝えがあります。

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    1. うーん。唸ってしまうコメントありがとうございます。
      「あ」は「吾(われ)」であるし「阿」「安」ですよね。
      個人的には「吾」の一族と書けば理解しやすいです。
      また、松浦氏が大彦命の裔とは知りませんでした、ありがとうございます。
      出雲国の伝承については、まだ全然手がつけられていませんが、忌部氏が日本海側(壱岐、隠岐)から上陸して行ったのと、岡山、広島方面から山越ルートで渡って行ったのとで、相当な争いがあった事は想像できます。
      播磨国風土記逸文を最近見てますが伊和大神の段は気になります(的外れかもしれないけど)。

      で、「富家の言い伝え」は面白いですね、鳥肌が立ちます。
      個人的には事代主命は当時の大陸への海路を掌握していたと思っています。
      その先導で越智氏が大陸から四国に渡って来たと考えるのは、余談です(世迷い言ですね)。

      また、ぜひご教授願います。

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    2. 「ア」とは「アズミ」ではありませんか。
      古代氏族系譜集成の阿曇氏の系譜に、振魂命の子に黒島磯良御気
      姫(津杭耳命妻、由布津主母)
      とあって、忌部と阿曇氏の協力関係が見て取れます。
      阿曇氏には阿曇犬養(いかい)氏がいて、海犬養氏とも言います。
      長国造の後裔、佐奈河内の井開(いかい)氏は長国造系譜に出
      てくる御間都比古神社や大宮八幡の社家ですよね。

      物部族に海部族と出雲族の王朝が負けて東に少しずつ
      押されていったと聞いております。初期阿波王朝
      からすると、物部/越智氏は敵ではないかと。

      富家の話では伊香色雄命の子、十千根命が出雲を攻撃し、
      同時に倭を攻撃したと聞いております。
      伊加加志神社は、攻撃者の記念碑ではないかと。

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    3. なるほど「ア」は「アズミ」ですか。
      ここら、ボクの頭の中ではぐちゃぐちゃです(笑)が、
      振魂命-武位起命-椎根津彦命ときて、椎根津彦命と天日鷲命が出会ってる(日本書紀)ということでいいんでしょうか?
      信濃にも安曇犬甘(いかい)氏があり、東へ圧されて行った様が見て取れますね。
      忌部と阿曇氏の協力関係があれば「粟国」と「長国」の「合併」がスムーズにいったことは納得できます。
      物部/越智氏と当初、敵対関係にあったこともイメージとして分ります。
      多分、そこらの理解のレベルが違うんで、的外れかもしれませんが、「ア」が「アズミ」なら色々妄想できる事があって嬉しくなってきます。
      深いお話ありがとうございます。

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    4. 天ノ日鷲の子大麻比古命(津杭耳命)の妻ですので、会ったかも
      しれないですね。大麻比古と縁のある猿田彦は富家では稲田宮主須
      賀之八耳命の事と言われていて、阿曇氏(出雲族)の影響があった場所に
      忌部族の方が影響力が強くなって、大麻比古を祀ったと考えられます。
      ご存知と思いますが、井開氏の大宮八幡神社には、
      天石門別豊玉比賣神社が境内に大切に祀られていて、
      豊玉比賣命は阿曇氏の人ですから阿曇と長国造の
      井開氏は繋がっているように思います。
      姓氏録に阿曇連等の祖天造日女命(旧事本紀の天道日女尊の事か?)
      とあって出雲族と同じく女系であった事も伺えますね。
      筑摩の安曇犬甘氏は大伴氏流とも言われますが、
      富家の伝承では、本来大伴は、天村雲命にお供をして倭に行った
      と言われていて、大名持系の神門臣です。天道姫は大名持の娘です。

      天富命は太玉命の後裔と言われますが、海部氏の系譜にも
      天富命ではないかと思われる、阿麻刀弥命(笠島系図)があります。
      天忍(海)人-阿麻刀弥命(姪に孝昭帝の后世襲足媛)
      系譜的にも、阿麻刀弥命と天富命は近いところにあります。
      阿曇が出雲系で、海部が忌部系ではないかと思います。

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    5. 安曇は「アズミ」ではなく、「アヅミ」で、「アマ-ツミ」の略ですから
      ama-tumi ama-be、でamaつながりですね。(^^)

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    6. なるほど、それならば、大麻比古神社の祭神が猿田彦から大麻比古に変わったことの説明がつきますね、納得です。
      >井開氏の大宮八幡神社には、天石門別豊玉比賣神社が境内に大切に祀られていて
      それは間違いないです。豊玉比賣命は安曇のいわゆる綿津美族ですので、長国とは同系列でしょう。
      時代による力関係で祭神とか呼び名が変わってくるのは承知していたつもりなんですが、こうやって指摘されるまで気付きませんでした。
      何度もありがとうございます。

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    7. >amaつながりですね
      ふーむむ、ということは「安曇」は「海(あま)曇」
      「海部」はそのまま「あまべ」ってことで、同じ阿波国(ややこしいな)に住んでた地区が違うだけのお隣さんだったわけですね。(なんちゅう比喩じゃ)
      なんかイメージ湧いてきたなぁ(間違ってるかもしんないけど)

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  5. サクラサク48692013年1月14日 0:14

    ぐ~たらさん、すみませんm(_ _)m
    何か私にできることがあればお手伝いさせていただきます。
    あるかな~…(ぽりぽり)

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    1. よろしくおねがいしま〜す(笑)
      なんぼでも、言いますよ(ウソウソ)。

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  6. 私も以前、阿波が粟語源というのは違うのでは?と書きましたが、何故かといいますとカンです。(おいおい)
    短絡的すぎるんですよね。「無味下品の性であるのでこれを国名にするのは有りえない」で大変納得しました。板野の元が潮野というのは理にかなっていて昔の吉野川河口海沿いですからね。

    茨城の海沿いに潮来(いたこ)市がありますが、常陸国風土記には板来(いたく)と書かれています。
    利根川河口で鹿島神社の近くです。
    「潮(板)から来(て上陸し)た」の意味じゃないでしょうか?もちろん阿波の忌部海部が。
    なんせあの茨城ですし。

    amaは、天でもあるし、海でもあるわけですから。
    ちなみに女性のことを、ぐーたら兄貴は「このアマが!」と言いますが、例えば海外でも、

    サンスクリット語amba(母)、メーリー語amm(母)、amma(女子に対する呼びかけの語)、

    タミール語amma(母)、ビルマ語ama(女)、レプチャ語amo(母)、朝鮮語am(牝)、満州語erne(母)、

    モ-コ語ma(女)、ヘブライ語amh(下女)、スメル語uma(母)、ペルシャ語ammah(父方の伯叔母)、

    サカイ語ame(伯叔母)、チャム語・タガログ語ama(母、父)、マレー語amah(母、乳母)、

    ネパール語(母)

    (ネットで拾ったので不明言語含む)

    で、母の国=天の国=海の国=阿波国。

    せっかく昌幸先生がコメントしたのに次元の違うこと書いてスミマセン。

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  7. この「ハハの国」というのはもちろんスサノオが行きたいと言った「母の国」で、式内社で定められた通りイザナミの眠る国・阿波で、サンスクリット語でもambaとなっていますが、阿波は徳島や関東の一部でaba、anbaとも発音されます。

    amaを、aのma、とも分解すれば、ァは「吾」で「自分」(我が妻=吾妻アヅマ)ですから、これは吾アのmamaにつながります。

    ママ (mama) は、日本語、中国語、スペイン語、ロシア語、一部地域の英語などの言語において母親を呼ぶときの言葉である。
    日本語以外では主として「マーマ」と発音され、スペイン語では「ママー」。ポルトガル語ではこの発音は乳首の意味がある。
    英語の「Mama」はアメリカ南部の方言で、呼びかけの意味での「(そこの)カノジョ」という意味もある。 (ウィキ)


    a-ba、としたときは、吾のbaba、で婆さん(年配の女性)。

    出家した女性のことを尼といいますが、パーリ語のアムマーamm(サンスクリット語ではアムバーamb。母の意)からきた(←Yahoo!百科事典)、といわれています。

    AMAの国ABAの国、とは、女性の国(女王国)とも考えられますね。

    その音に「天」と「海」の字を当てた、と。
    高天原の時代からそうだったのか、あるいは古事記が書かれる200年前に阿波に仏教が入っていますから、その間に定着したamaという言葉を神代の物語に当てはめたか?

    あれ、ほかにもなにか書こうとしたのに思い出せないぞ。歳やな。







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    1. 「吾(あ)」の「母(まー)」の国って事ですね、よく分ります。
      「あば」「あんば」も聞いた(見かけた)ことがあるように思います。

      これも、ひじょ〜に短絡的に書けば、スサオノは「海の国」つまり航海ルートの保安をまかされていたため、イザナミの国「ハハの国」に帰りたくて仕方が無かったので、たまに帰った時に暴れまくったと云う事でしょうか。
      息子の「五十猛」と半島とを往復しても、最後は故国で住みたかったのでしょう。


      と書いたら、ちょっと急用が入ったので、帰って来たら、もうちょっとコメ書きたいので続きを(笑)

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    2. 帰って来たので続きを(笑)
      阿波が海国だったことは、明らかで神山ですら船盡比売神社からさらに奥まって、船底まで船が運航していた程ってことは、今さら書くなって?
      >茨城の海沿いに潮来(いたこ)市がありますが、常陸国風土記には板来(いたく)と書かれて
      なるほど、間違い無さそうですね、忌部でしょうね。
      やはり、板野は潮野でしょう。海部氏上陸場所ですね。
      粟についても粟国と長国に分かれていたのはいいとしても、一つになるのならば「長」を採るべきでしょうかね。
      ならば那賀国とか那珂国になっててもおかしくなかったかも。

      いか〜ん、何書こうとしてたか、外出したら忘れちゃったよぉ(涙)

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    3. 国名を「那賀」「那珂」「長」にしたら、葦原「中国」がここだと後世にバレるからじゃないでしょうか?

      いずれ詳しく調べて書こうと思っていましたが、現在のカンでは倭→大倭への遷都の直接の「引き金」は、大地震と津波だと考えています。(ちらっとどこかに書いたけど)
      それはもちろん「祟り」「怨霊」が常識であったことが前提なので、それも前もって書かなければなりません。

      天武天皇元年に壬申の乱が起こり、

      天武天皇四年十一月辛丑朔、是月、大地動、

      天武天皇六年六月壬辰朔、乙巳、大震動、

      天武天皇七年十二月癸丑朔、是月、筑紫國大地動之、地裂廣二丈、長三千餘丈、百姓舍屋、毎村多仆壤、是時百姓一家有岡上、當于地動夕、以岡崩處遷、然家既全、而無破壤、家人不知岡崩家避、但會明後、知以大驚焉、

      天武天皇八年冬十月戊辰朔、戊午、地震、

      天武天皇八年十一月丁丑朔、庚寅、地震、

      天武天皇九年二月丙午朔、癸亥、如鼓音聞于東方、

      天武天皇九年六月甲辰朔、辛亥、灰零、

      天武天皇九年九月酉朔、乙未、地震、

      天武天皇十年三月庚午朔、庚寅、地震、

      天武天皇十年六月己亥朔、壬戌、地震

      天武天皇十年冬十月丙寅朔、癸未、地震、

      天武天皇十年十一月丙申朔、丁酉、地震、

      天武天皇十一年春正月乙未朔、癸丑、地動、

      天武天皇十一年三月甲午朔、庚子、地震、

      天武天皇十一年秋七月壬辰朔、戊申、地震、

      天武天皇十一年八月壬戊朔、癸酉、大地動、

      天武天皇十一年八月壬戌朔、戊寅、亦地震、是日平旦、有虹當于天中央、


      そして、例の“記録”。

      天武天皇十三年冬十月己卯朔、壬辰、逮于人定、大地震、
      擧國男女叫唱、不知東西、則山崩河涌、諸國郡官舍及百姓倉屋、寺塔、神社、破壤之類、不可勝數、由是人民及六畜多死傷之、

      時伊豫湯泉沒而不出、

      土左國田苑五十餘萬頃、沒爲海、古老曰、若是地動未曾有也、是夕、有鳴聲、如鼓聞于東方、有人曰、

      伊豆嶋西北二面、自然增益三百餘丈、更爲一嶋、則如鼓音者、神造是嶋響也、


      さらに、

      天武天皇十三年十一月戊申朔、庚戌、土左國司言、大潮髙騰、海水飄蕩、由是運調船多放失焉、

      天武天皇十四年三月丙午朔、是月、灰零於信濃國、草木皆枯焉、

      天武天皇十四年夏四月丙子朔、己卯、紀伊國司言、牟婁湯泉沒而不出也、

      天武天皇十四年十二月壬申朔、辛巳、自西發之地震、


      祟りが現実のものというのが常識だった時代に、これだけのことが続いて、時の天皇家が「祟られている」と“考えないわけがない”のです。

      その原因をどう考えたか?また倭大國魂の神が怒ったのか?、天智天皇、大友皇子の怒りと考えたか?は、置いておいても、海のない(津波のない)土地へ遷都を決意させるに十分な恐怖です。

      四国を捨てた(隠した)んですね。

      大杉博氏の説では、天武8年の「吉野の盟約」は通説のような内容ではなく、歴史から四国を隠す盟約だとしていますが、その前にも大地震が記録されているだけでも3回あります。

      そのあともダメ押しするかのように立て続けの地震と津波。
      「ここを出て行け」と祟られていると震え上がったに違いありません。
      その後徐々に遷都の準備を進め(一気には無理なので)、持統天皇などは、そこにいると安心できる吉野宮へ度々通ったと思われます。

      削除
    4. 師匠、こんな所に書いちゃもったいないっすよ。
      誰も見てないうちに、コピーしてから消しときます(笑笑笑)

      それは、さておき(笑)
      祟りで遷都というのは納得です、長岡京から平安京もそうだったですよね。
      ならば中の国、那賀の国で海(あま)国ですね。それならば、「粟」を「阿波」と記して「海(あま)国」のヒント(?)としたと思ってしまいます。
      今回も書こうと思って、資料がどっかに行っちゃったんですが、どっかの神社の(笑)祭神が尾張氏の祖だとの記載がありました。氏族の関係を見ても「海部」の系列である事ですし。
      この線、イケてますね。追っかけがいがあります。

      削除
    5. 先達の阿波説の遷都理由については、触れられていないか、不明か、今ひとつ納得のいかないものしか無いですね。
      これはけっこう可能性があると思ってるんですよ。
      古代人の感性の理解と、これらの地震が四国中心の記述なのだということを説明しなければいけないから・・・、あとはよろしく。

      削除
    6. 読み返すと「amaを、aのma、とも分解すれば、ァは「吾」で「自分」(我が妻=吾妻アヅマ)で、これは吾アのmamaにつながる」というのがちょっと強引な感じがすると思うので、補足します。

      ba(ば、おばぁ、ばさま)でも、baba(ばば、おばば、ばばさま)でも同じ意味として普通に通じるように、「音の関係」で言えば、maもmamaも同じであるといえます。

      ママはパパとセットの英語の外来語と思われているでしょうが、上に書いたようにアメリカでは方言に過ぎませんし、多くの国でama、maが女性・母親を意味します。
      幼児言葉で食べ物をママ・マンマといいますが、母が与えてくれる食べ物だからとも言えますね。

      さらに日本においても、古来から「乳母」の読みにmamaがありました。
      (うば・おんば・ちうば・ちおも・まま・めのと)

      maもbaも女性を表す「音」には違いないようで、a-ma、a-mba、a-ba、すべて「阿波」に関係する読み方と見えます。

      方言にも残るのではないかと検索しましたら、

      沖永良部(国頭)  アマama(母親)
      沖縄        アンマー(母)
      茨城        アマ・アマッコ(女・若い女)
      福島        アマ(女)
      静岡        アマ(女)
      石川        アンマ(若い女)
      群馬        アマッチョ(女)
      下北        アバ(叔母・母 )
      但馬        アバさん(おばさん) 
      秋田        アバ(母・妻)
      新潟・石川     アバ(独身の女)
      新潟・石川・和歌山 オバ(独身の女)
      ・島根隠岐・長崎
      神奈川       オンバ(独身の女)

      など出てきました。他にも探せばあるんでしょうが、a+ma、a+ba、a+mba
      は、みな女性を表すことは各地共通のようです。

      阿波では、アバは小母となってますが、これはあの「オバの宮」のオバなんでしょうか?
      なぜなら、オオヒルメムチを表すらしく、眩しいことを阿波弁で、abaバイ、とも、amaバイ、とも言うからです。

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    7. 地震の“活動周期”の山が来ていたわけですね。
      現代人でもこれほどビビってるんですから、当時は大変だったでしょう。

      しかも壬申の乱が起こったのは、その9年前の天智2(663)年に白村江で完敗して以来、唐が攻めてくるぞっていう噂が絶えなかったはずの頃ですし。

      守りを固めると同時に、東へ、そして内陸部へと勢力範囲を広げていったのも、それら両方の動機があったのではないでしょうか。


      それにしても方言っておもしろいものですね。
      ama に y がつくと yama、山の神 へもつながるかも。
      たとえば“イヤ+ママ”で、イヤマ→ヤマ?
      ヤマの語源は諸説あるようですが、ヤマタイ(ヤマト)のルーツにもつながるかも知れない大事な言葉ですよね。

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    8. ぐーたら先輩が店仕舞いされるまえに (^J^)

      天武時代に起こった最大のが「白鳳地震」と名付けられている南海(東南海)地震。
      のらねこ先輩があげてくださった日本書紀の翻訳・解説が Wikipedia にありましたので転載させてください。
      漢文は苦手なので:

      684年11月26日(11月29日;天武13年10月14日)
      白鳳地震M8.25、死者多数。
      亥時(午後9時 - 11時頃)になって大地震があった。
      土佐で津波により大きな被害。
      伊予温泉(道後温泉)は埋没して出なくなり、田園(約 12 km²)が海面下へ沈下。これは『日本書紀』の南海地震の最古の記録である。
      地質調査によれば、ほぼ同時期に東海・東南海地震も発生。

      発掘調査
      『日本書紀』による記録は、南海地震を示唆するもののみであるが、発掘調査によりこの南海地震の発生が裏付けられ、さらに同時期に東海地震や東南海地震の発生を示唆する痕跡が発見されている。
      東海・東南海地震の痕跡 静岡市川合遺跡では7世紀中頃の遺構と埋土が砂脈に引裂かれ、8世紀の遺構は砂脈を削り込んでいることから、7世紀中頃から8世紀の間に砂脈が生成したと考えられる。
      1989年末から行われた発掘調査では、静岡県袋井市の原野谷川の自然堤防上にある坂尻遺跡において、7世紀後半と推定される液状化の痕跡が発見された。
      1992年には愛知県一宮市の田所遺跡において、噴砂の痕跡が発掘された。
      2011年には志摩半島沿岸のボーリング調査で海洋生物の死骸を含む津波堆積物が9層発見され、上から3番目のものが白鳳地震の時期に一致した。
      2000年には三重県尾鷲市大池で合計10層の津波堆積物が発見され、上から4番目のものが7世紀の14C年代を示した。
      南海地震の痕跡 和歌山県では紀ノ川北岸にある川辺遺跡から、7世紀後半から8世紀初頭と推定される砂礫層の液状化現象の痕跡が発見された。
      奈良県明日香村の酒船石遺跡では石垣が7世紀後半に達磨落しの様に崩壊した痕跡が発見された。
      淡路島の汁谷遺跡では7世紀後半に当時の住居が砂脈で引裂かれた痕跡が発見された。

      これらの調査により、東海地震・東南海地震もほぼ同時期に起きたことが裏付けられた。
      また『日本書紀』にはこの夕刻に伊豆嶋の西北で噴火があり島が生じたとする記録もあり、伊豆諸島の噴火を誘発した可能性も考えられる。
      大分県佐伯市間越龍神池で発見された津波堆積物から、白鳳地震は、正平地震および宝永地震と並ぶ大規模連動型地震であったとも推定される。


      日本書紀の“最古の地震記録”が土佐と伊予の細かい話を載せているですね。阿波に首都があった傍証のひとつになりそう。
      伊豆の話も、海伝いに都に伝わってきたのでしょう。

      天武天皇七年の際、「是時百姓一家有岡上」って、岡上に百姓一家が居た?
      山の人々は揺れたけれど被害はなく、あとで驚いたってことでしょうか。

      ともあれ、100年一度の割で太平洋岸でM8クラスの地震が起こっているんですね。
      白アリに食われたウチの柱、まずい。耐震補強を考えなくちゃ。

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    9. だって、今回の記事のコメントとその検証だけで一冊できちゃいますぜ、ホントに(笑)
      とてつもないコメントが集まってしまいました。

      確かに「日本書紀」の記事には「阿波」が震災を被った記事がありませんよね。
      阪神淡路のときも、徳島は70㎞はなれていただけで、ほとんど被害はありませんでしたので、土佐、伊予で地震があっても、被害は無かったんでしょう。
      逆に記事があれば、首都が壊滅した記載などがあるはずなので、言い方悪いですけど「惜しい」ですよね。
      で、「次」は阿波かとビビったんでしょうか?各地の「阿波」から進言があったんでしょうか?
      もひとつだけ疑問なのは、地震で遷都を決めたとすれば、それを隠す必要はあったんでしょうかね。
      そこらで「唐」が攻めてくるっていう理由が加わるんでしょうか。

      あああ、こんなの言ってると、終わんないよぉぉ。
      でも、いつまでもこの記事で書いてられないから、一応次へは行きますよ(笑)

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    10. いやいや、この記録で何も記されていない全てが「記録の主体地である倭国」、すなわち阿波国ですから、わざわざ国名を書いていないだけですよ。
      「寺塔、神社、破壤之類」とありますが、白鳳時代建立という美馬の郡里廃寺もこのとき崩壊したかもしれませんね。

      「伊豆嶋」「信濃國」「紀伊國・牟婁」だって、倭(阿波)内の「諸國」かもよ?っていう話です。
      長野「信濃國」、和歌山「紀伊國」っていうのは、8世紀頭の命名でしょう。
      この記録は7世紀後半のものです。

      「遷都(故地)を隠す」ということに関しては、もっと検証が必要ですが、まあ、四国全体を「呪われた島」と「感じた」わけですからね。
      いうなれば、しめ縄を張り巡らせて「禁断禁足の地」としたわけです。
      それを完成させたのが空海ということになりますが。
      これを理解するためには古代人の祟りに対する感じ方を実感するしかないです。
      現代人のように地震や津波のメカニズムを理解しているわけではない人々が、それらをどう感じたか?ですね。

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    11. ああああぁぁぁ、やっと分ったぁぁ。
      物わかりの悪い弟子ですいませんねぇ。
      みんながこれだけ核心について書いてくれてるのに、今の今までイメージにならんかったとわぁぁ。
      検証不可能ですけど、歯車がはまってしまいました。
      ありがとうございます。
      やっぱ、あそこは霊験あらたかだわ(笑)

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    12. なるほど、そうですね。
      メシア降臨を主導したエッセネ派のことが聖書にはまったく書かれていないのと似ています。

      それにしてもここまで天武帝が呪われた帝だったのだと主張されると、『日本書紀』の編纂のうしろにいた藤原不比等と子供たちが、天智系と自分たちの正当性、そして大倭への遷都の正当性を訴えているのは明らかでしょう。
      泉涌寺に今も天武系の帝たちが祀られていないのは“残して封印してきた”からなんですね。
      四国遍路には、その封印(結界)が解けないように、という意味もあったのかもしれません。
      となると、高野山を押さえたことにも別の意味があったかも。
      切幡寺まで西に進み、(郡里廃寺あたりを避けるように)一気に南下するコースの不思議さの答えも…?
      あ~止まらない…


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    13. 遅くなりました、すいません。
      不比等は何かあがいてるように見えて仕方ないです。
      (どこがと云われたら困るけど(笑))
      確かに1番から8番までの直線ルートと比べると10番切幡寺から11番藤井寺へはひじょーに不自然ですね。
      それと遍路には、回向の意味もあったのではないかとか、思ったり思わなかったり。

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    14. 回向、でしょうね。
      私たちの回向にも、どこか“安らかに”眠って出てこないでねという意識がありますもの。

      不比等のあがきの理由を探れば、きっと蘇我氏のことも浮かび上がってくるのではないでしょうか。
      そのへんの探索、ぜひ曽我氏神社のお近くにお住いの皆様方にお願い申し上げます。
      理由不明ですが、なぜか蘇我一族が好きなんです、私。

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  8. 昨日、美馬郡の山の中を巡って・・・クタクタになって帰ってきたら・・・すごい事になっていますネ♪
    いゃ~勉強になります!!
    ありがとうございますo(^▽^)o

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    1. お疲れさまでした。
      そうなんです、今見直してみても、いただいているコメントの方が本文より内容があると云う、えらい状況になっております。(笑)

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  9. ハナミズキ2013年1月14日 22:53

    はじめまして。時々拝見させてもらっています。
    今回とりあげていらっしゃる『阿波國後風土記』は,県立図書館のデジタルライブラリー「郷土関係和古書」のひとつとして全ページ画像が公開されています。
    (ご存じとは思いましたが,知らない方もいらっしゃるかと思い失礼しました。)
    これからも記事楽しみにしています。

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    1. はじめまして、ご指摘ありがとうございます。
      いつも、何かしら書いておくべきことを忘れてるんです。
      あんまり読み直ししないで、書きっぱなしなのがよくないのは分ってるんですが、だいたい「ノリ」で書いてますもんで(笑)
      今後ともよろしくお願いいたします。

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  10. その“無味下品の性”の穀物が、いまも献穀として新嘗祭に供えられるために毎年(種が引き継がれて)栽培されているんです。
    茨城県の農家の方が完全無農薬栽培で苦心されている様子を紹介くださっています:
    http://www.arakawa-agri.co.jp/awapage1.html
    また、いかに厳重におこなわれているか、富山県での栽培の様子が南砺市のサイトに載っています:
    http://www.city.nanto.toyama.jp/cms-sypher/www/info/detail.jsp?id=1183

    改めて粟のことを少し調べてみると、稲や小麦とは違う C4光合成という能力によって、効率よくCO2を固定することができ、「高温や乾燥、低CO2、貧窒素土壌と言った、植物には苛酷な気候下に対応するための生理的な適応」(Wikipedia)をした穀物なんだそうです。
    「米」という漢字は古代には粟のことを意味したという説(『説文解字』)もあるように、命を養われた、人類にとってはまさに“母の穀”だったといえるのではないでしょうか。
    また勉強になりました。
    のらねこさんのまとめに、ぜひ加えてください:母の国=粟の国=天の国=海の国=阿波国、と。

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    1. 皆様の議論のおかげさまで一稿できました。

      またご覧いただき、ご意見いただければ嬉しいです。

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    2. 一稿、拝見させていただきました。
      新嘗祭供御献穀粟や説文解字の説は承知した上で、呟いてみるんですが(笑)
      元明天皇の御宇、好字二文字をもって郡、郷の名を現わす旨の詔が示された時「粟」の嘉字が「阿波」となることにちょっと納得がいきません。
      また、「粟」「長」の二国(三国説はおいといて)の名からなぜ「粟」が採用されたのか?
      疑問は深まるばかりです(笑)

      ただ、勝手な想像ですが、風土記っていうのは、その国の事をあらいざらい書けっていう命令ですので、一種の軍事的な意味合いがあるのではないでしょうか。
      というか忠誠の度合いを図る「踏み絵」みたいな。だから何十年も提出しない国があったりしたんじゃないでしょうか。
      そこらあたりで、時の朝廷に対して嘘とは言えないまでも、正直に書かない部分があっても...(以下略)
      話が飛んじゃいました(笑)
      ここらについては、もうちょっと書きたいと思いますのでお付き合いくださいませ。

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    3. なあんだ、ご存じだったんですか。
      献穀粟のこと。
      三木さんちの麻畑と同じしつらいで育てられていることに感動しました。

      それにしても古代史は謎が謎を呼びますね。
      とりあえず、こういうことにしておこう、の積み重ねでしょうか。
      文書類を掘り起こしていただくおかげで私もあれこれ展開させていただけて楽しいです。

      なんたって明治の薩長政府の言うことですからね。
      政府も徳島藩を高知や香川とくっつけたり名東県なんていうのにしたり、嫌がらせ(?)をしているようです。
      あげく、淡路島を取り上げらちゃって。
      (そういえば明治維新で徳島藩はなにをしとったんでしょう…。)

      明治になってからも続く、阿波の謎~
      続きを楽しみにしています。

      削除
    4. まさしく古代史は謎だらけで面白いです。
      ALI爺さんのおっしゃるように、粟は“母なる穀”だったかもしれませんね。
      ただ、各地で粟を厳重に栽培するのは「新嘗祭に供せよ」と命じられたら当然とも言え、
      三木家の麁服とは意味合いが違うように思います。
      各地「持ち回り」で献上地に宮内庁から指定されるものとは扱いの内容を含め別格ですから。

      ただ、粟はいつからawaなんだろうと思います。
      ama母の国の特産だったから?
      母が眠る高越山の下に広がる島でよく実ったから?
      名前が後付けなのかもしれませんね。
      そしてだから新嘗祭でも故地を偲んで使われるのかもしれません。
      伊邪那岐命、伊邪那美命が各地を従えていったのは「まつろはぬ国々を言向(ことむ)け和平(やわ)す」すわわち武力よりもむしろ農業や各種の技術を使った和平交渉だったと思います。このとき粟は大活躍したのではないでしょうか。
      (想像ばっかし)

      天amaの国、海amaの国、母ama/amba/abaの国、阿波amba/ama/aba/awaの国、粟awaの国
      で、兄貴の言うようにカケラを残したんでしょう。
      完全に痕跡を消しさることは人情的に無理でしょうから。

      人様のブログで、えらい断定的にばかり書いてますけど、あくまで個人的な仮説なんで、この記事の答えがこれだと断ずるつもりはございません。
      他のご意見もいろいろお聞きしたいです。

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    5. ほんとに、それが日本の(お近所の国と違って)すごいところなんですよね。
      農耕技術をもった弥生系の人口が増えた地域で、同時に縄文系の人口も増えているという研究をどこかで読んだことがあります。
      (うろ覚えばっかし)

      負けたら“九族皆殺し”なんていう風習の国との違いを王自身も認識していたからこそ「大和」という漢字を当てたのかもしれないなんて想像しています。
      日本で敵を皆殺しなんて信長一党くらいじゃないのでしょうか。

      異なる人種、部族間の婚姻も盛んにおこなわれた結果、多くの民族のNDAが現・日本人に受け継がれて、それはすなわち“優勢遺伝”の法則というものを信じるなら、結晶のような優れた民族となった根拠になるのではないでしょうか。
      現れやすい特性が優れているとは限らないので「顕性遺伝」呼ぶ向きもあるようですが、少なくとも文化的な交流・蓄積は間違いなく洗練されていきますよね。

      ぐ~たら先輩、あちこちに書き込んですみません。
      ブログの仕組みがまだよくわかっていないもので…。
      整理、よろしくお願いします。

      削除
    6. もう、誰のコメントで何をいうやら、ミカンやら。
      粟でもう一点だけ気にかかるのが、大宜都比売と粟国との関係。
      大宜都比売がスサノオに殺されて「頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた」訳なんでしょうが、古事記では国産みで粟国ができたのが先のように見えるんですが?
      どうなんですかね。
      ボクが古事記を書くのなら(笑)
      「スサノオ、大宜都比売の産みし食物汚しとて、其の比売を殺す。
      その身より五穀生ず、頭より蠶。目より生稻種、耳より粟を生ず、また鼻より小豆。
      耳より漏れし粟の実りし国より粟国と名づく。」
      とかね(笑)
      でも、国産みの方が先っぽいでしょ。
      ここらどう考えたらいいんでしょうか。
      教えて下さい。

      削除
    7. 古事記は時系列的にはいいかげんなところがあるし、現在の文章感覚での国史ではありませんから、本当に国生みがあった(と表現されている)時代には、まだ粟国や讃岐国といった国名は無かったでしょうね。
      あくまで古事記を書く時点での呼び名を使って国名表記しただけじゃないでしょうか?

      五穀の発生は、あくまで大宜都比売が食の神だということを表現しただけで、シャンプーのない時代の頭髪を蚕に、まつ毛を稲に、耳毛を粟に、鼻くそを小豆に、陰毛を麦に、○ん○を大豆に例えただけで、一部の先生が言うような深い意味はないと思います。

      でも、もともと、

      イヨはあったでしょうね。
      ナカもあったでしょう。
      ツサ(トサの前はツサだったらしい)もあったかも?
      あとが問題です。いろいろ説があるけど「これだ!」という感じがしない。
      阿波に「イ」のつく国名があったのは間違いないでしょう。
      「イヨの二名島」の真の解読が鍵ですね。

      やはり女神の名が付く二国の関係が全てです。
      二国の王家は同族だったかもしれません。
      イヨと呼ばれた女王(王女?)はいた気がします。
      イヨの語源がイヤという説があることは書きましたが、イヤの西側がイヨで東の端はイツ(イヅ)。
      イの国の王が定まらない時にイヨに来てもらったのかもしれませんね。
      瀬織津姫の秘密もそこにあるというイメージを持っています。

      どんどん、話がアッチの方に行ってアレなんでコレくらいにしときます。

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    8. いやイヤ、面白いですね(笑)
      「イヨの二名島」はご同様に前々から気になっておりました。
      というか「伊予」は秦氏の関連だと。
      もっとトンデモ説を出すと徐福の関連であるかとも。
      徐福の「徐」を分解すると「イ」と「余」。
      うそ、ウソ、嘘、ピョーン。
      アメリカンジョークですって(笑)

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  11. 母の国=阿波国。
    とても、きれいですね。

    野暮な私は、我らの倭。我、倭。
    ちょっと、詩的では、ありませんが。

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    1. スサノオは根の国を「妣(はは)の国」と呼んでいました。
      海を司ったスサノオは根の国、穀物が成茂れる国、母のいる国に帰りたくて乱暴の限りを尽くします。
      で、今は姉の眠る山の、川をはさんだ山懐に眠っています。
      この前、報告した所です(笑)

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  12. はい、復習します。
    とんちんかんでしたね。

    懐深いご返答、ありがとうございました。

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    1. あれ、ごめんなさい。
      ちょっと、的外れな事書いちゃいましたかね。
      すんません、半分寝てたもんで(笑)←(笑って下さいってコト)

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  13. サクラサク48692013年1月17日 11:22

    ぐーたらさん、こんにちは。
    尾張で作られる「にぎたえ」は簡単な字では「和妙」と書き、
    阿波で作られる「あらたえ」は「荒妙」と書きますよね。
    「和」と「荒」
    布目が粗い、細かいの違いだけではなさそうに思いますが合ってるかな?
    「和妙」は赤引きの糸から作られるようで、伊勢のおみやげ「赤福餅」=「赤服」(和妙は赤色ではないですが)もここからきたのかな?なんて・・・(笑)
    辰砂が採れた長国=海国
    ニギハヤヒ(海の人)が天孫族より早く阿波に居たというか、那賀川流域居たと思う私にとって、
    「和妙」の「和」は「本当は海の人たちが古くから居住し開拓して行ったから「和」なんだよ」とのメッセージに取れます(笑)
    やっぱ、私お得意のトンチンカンな話かなぁ~・・・・自信なし(T_T)

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    1. 伊勢では五月と十月の十四日、皇大神宮及び荒祭宮で行われる神御衣祭(かんみそさい)に備えて
      この神御衣の素材である荒妙(あらたえ)、和妙(にぎたえ)が奉職されます。荒妙とは麻の布のこと。
      松阪市井口中町の神麻続機殿(かんおみはたどの)神社で織られ、和妙とは絹のことで、
      松阪市大垣内町の神服織機殿(かんはとりはたどの)神社で織られます。
      麻と絹。
      和妙(にぎたえ)は十月なので秋、だから白。
      荒妙(あらたえ)は五月なので夏、だから赤。
      ですね。OK?

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  14. サクラサク48692013年1月18日 17:09

    ぐーたらさん、コメント入れ過ぎですが、すみません。
    ご存知かもしれませんが、アンバ様(阿波様)というのを見つけました。
    千葉、茨城、福島、岩手など太平洋岸の漁村で信仰される神様で、
    常陸阿波村の大杉大明神とも言われていたり、船霊様の親神様だと言っていたりする所もあるそうです。
    一定の祠を持たぬものが多く、船乗りの若者が休みを要求したりする時にアンバ様を祀るのだとか。
    漁具を船から取り外してアンバ様を飾ると、船を出すことが出来ず、
    無理に出せば難船すると信じられているということです。
    アンバの語意は不明とのこと。漁網の浮子とは関係があるかどうか明らかでない。(民俗学辞典より)

    海の人たちの本拠地は九州のように一般には言われていますが、海の人たちが信仰する神様が
    阿波様という、このことだけでも九州じゃないって思います。

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    1. やっぱ、忌部、海部の関係でしょうね。
      大杉神社の祭神は大物主神(おおものぬしのかみ)。
      「阿波(あば)」から「アンバ様」へ変わったと云う事です。
      アンバの語意は不明ということですが、忌部の東征を知ってる人には明白じゃないっすか。

      それにしても、今回は誰がどこに何のコメントを書いたか、ぜ〜んぜん分んないっすね(笑)

      削除
  15. はよ、次の記事書かにゃ、えらい事になっちゃいますな。
    (ひとりごと)

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  16. とても魅力的な記事でした。
    また遊びに来ます!!

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    返信
    1. ありがとうございます。
      ご意見などあれば、書き込んで下さいませ。

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