2011年11月25日金曜日

奈良飛鳥行(4)

奈良飛鳥行(3)からの続きです(間あき過ぎ)
続いては「飛鳥大仏」を拝見せんとて「飛鳥寺」へまいります。


現在の飛鳥寺の前身である法興寺は蘇我氏の氏寺として6世紀末から7世紀初頭にかけて
造営されたもので、明日香村豊浦の豊浦寺(尼寺。現在の向原寺がその後身)と並び日
本最古の本格的仏教寺院である。
『日本書紀』によると、法興寺は用明天皇2年(587年)に蘇我馬子が建立を発願したも
のである。馬子は排仏派の物部守屋との戦いに際し、この戦いに勝利したら仏寺を建立
することを誓い無事に勝利したので、飛鳥の真神原(まかみのはら)の地に寺を建てる
ことにしたという。
一方、天平19年(747年)成立の『元興寺縁起』には発願の年は『書紀』と同じながら
内容の異なる記載がある。『縁起』によると丁未年(用明天皇2年、587年)、「百済の客」
が当時の日本には尼寺しかなかったので法師寺を作るべきであることを上申し、用明天皇
が後の推古天皇と聖徳太子に命じて寺を建てるべき土地を検討させたという(当時の日本
には百済に留学した善信尼などの尼はいたが、日本人の正式の男僧はいなかったと見られ
る)。wikipediaより

さてさて、ここらで書いておきたいのは、いかにも「百済」の文化を輸入したような
書き方をあちらこちらで見受けられますが、「百済」はほとんど倭の領土だったような
ものだったのです。

こんなこと書いてて反論の山がやってきても困るんですが、ちょっとだけ。
まずは復元図、五重の塔があったとされておりますが、法隆寺に代表される
「耐震構造」を備えた建築技術が新羅、百済にあったとは思えません。
地震の無い國の技術者が来て、地震大国の倭にどんな建築物を建てるんですか。
そこらから疑問でしょ。
また半島では日本の様式である5世紀頃の前方後円墳が見つかっていますが、これも
ご存知の通り、国内では3世紀頃から作られております。
また、国内で鉄の鍛造が行なわれていた頃、半島では鋳造しか行なわれていなかった
ことも明らか。
 続いては文献より。

まずは、日本書紀の「391年に神宮皇后が百済と新羅を征服した」とあるのは有名な
ところですよね。
続いて「好太王碑文」。
西暦400年前後、高句麗の好太王(広開土王)王の業績を石に刻んだ碑文のこと。

その一部に

百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民

〈そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉
とあります。

また、十二世紀に編纂された、高句麗・新羅・百済三国の史書である「三国史記」
高麗17代仁宗の命を受けて金富軾らが作成した、三国時代(新羅・高句麗・百済)から
統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書。朝鮮半島に現存する最古の歴史書である。
1143年執筆開始、1145年完成、全50巻。

それによれば、新羅の四代目の国王である脱解王。
この人はもともと韓国の人ではないと書いてあります。
多婆那国という国で生まれた。その多婆那国は倭国の東北一千里にあると書いてあります。
倭国の位置をどこに想定するかで、多婆那国の場所は変わってきますが、仮に九州あたり
だったとしても、短里で千里なら山口県近辺、奈良を想定しても三重の辺り。
完全に現在の日本国内、つまり「倭人」だったわけですね。

また「瓢公」という人物がおりまして、二代から四代に渡って新羅の王に仕えた
人なんですが、新羅第一代の王赫居世の時、新羅にやってきた国内ナンバー2の地位。
そのとき腰に瓢をくくりつけていたので「瓢公」と呼ばれた。こう呼ばれた「瓢公」という人は、元「倭人」である。とあります。
「倭人」が新羅のナンバー2にいたんですね。
ちょっと百済からはなれましたが、分っていただけると思います。
「倭人」の支配する国だったのでしょうかね(また、逃げ道を残してる書き方)。

宋書倭国伝にも倭国が朝鮮半島南部を支配した記録がありますし

三国志魏書 東夷伝には、こうあります。
韓は帯方の南にあり、東西は海を以って限りとなし、南は倭と接し、方四千里
ばかり。三種あり、一を馬韓といい、二を辰韓といい、三を弁韓と曰う。辰韓は、古の
辰国なり。


帯方の南にある韓は倭と接しているのです。「海をはさんで」なんて意味じゃないのは
明白ですよね。

つまり「百済」近辺と想定される半島南部は「倭国」領地だったと考えるのが妥当な線
じゃないでしょうか。
寄り道が過ぎました(笑)

で、最後は石舞台古墳へ。
なんでこれを見るのに250円もいるの?


「せんとくん」も250円払ってねと申しておりました(うそ)。

ちょっと、訳の分んない講釈と、訳の分らない終わり方になってしまいますが
奈良飛鳥行、ここまでとさせていただきます。

おまけ
帰路、近鉄鶴橋駅でちょっと降りて、鶴橋商店街。
一周廻ってキムチをおみやげに買いました。
ここらはホントに異国ですなあ。
「のりまき」とか「チヂミ」もちょっと欲しかったんですが。、今回は大根キムチ
だけにしました。
2重にポリ袋に入れましたがニオうにおう(笑) 
でも、ひじょーにお安くて、おいしかったですよ。

4 件のコメント:

  1. ぐーたら先生。アニョハセヨ~。(笑)
    鶴橋キムチマシッソヨ。
    カムサムニダ~。(笑)

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  2. to 伊 古彦 さん
    ポサムキムチとかなら、たまに買う時もありますが、チャンジュとか
    豚足とかなんとかフエ(笑)なんかが、山盛りにされてるのにはちょっと
    手が出ませんでした。
    あ、葉とうがらしのキムチも。
    いや、あそこはホントに日本じゃないや。

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  3. ぐーたらさんが「百済は倭国である」と仰る意味は
    良く理解できます。
    きっとそうであっただろうと賛同します。
    しかし、一般的に歴史を考える時、
    例えそれが古代のものであっても、どうしても現在の国境線、
    あるいは地形をベースに説明せざるを得ないこともあります。
    倭国の一地方であった"百済"を経由して大陸から、
    その最果ての海際の倭国の中心部へと文物が流れて来た、
    と云うことなんでしょうか?
    少なくとも、様々な文物が倭国発祥であるとは
    言い難いと思いますので....
    考えるだけで何だかワクワクしますね。

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  4. to 猫の兄弟 さん
    全てが倭国発祥なんていうつもりは全くございません。
    ただ、古の半島の歴史の基礎を造る一翼を担っていたということは言える
    のではないでしょうか。
    ご存知の通り、新羅、高句麗は大陸から頻繁に侵略を受けております。
    百済(地方)も一度ならず滅ぼされております。
    また新羅本紀には新羅が倭人に攻め込まれる旨の記載が多々あるようです。
    ということは、大陸からの文化、文物は半島を経由せず直接、海路で入って
    来た線が強いように思われます。東シナ海航路は古くから確立していますし
    少し時代を下れば渤海国からの航路も発達しております。
    魏志倭人伝の解釈でも半島を陸路でというのは無かったように思います。
    そんなややこしい所を通るより、楽浪→帯方と沿岸海路のほうがいいかも
    しれません。
    今でも半島の付け根はややこしいですしね(笑)
    ただ例外として、秦氏が一万人単位で移住して来たときは半島経由では
    ないかと思います。
    ともあれ、千数百年前は半島南岸と日本はもっともっと近かったって事です。
    下手したら一部は天橋立のように繋がってたかもしれませんぜ。
    いやいや、書いてても面白くなってきました。

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