ホンットに疲れてるんだよぉ。
じゃあブログなんて書いてないでとっとと寝りゃあいいんでしょうが
なんか書かないといけないような気がして、これは強迫神経症なんで
しょうかね。それとも誰かの呪いがかかってるんでしょうか(笑)
(あぁ、きっとそうだ、そうに違いない)
ホントなら(こればっか)もう一箇所廻ってから書くべきなんですが
いつまで経っても行けそうにないんで、いいかげん書いちゃいます。
石井町国実(くにざね)の「武市神社(武市大明神)」
場所はここ。
より大きな地図で 武市大明神 を表示
徳島県神社誌には載ってないので「石が語る阿波」より引用いたしますと
石井町国実の水田のまん中に、ぽつんと十坪くらいの敷地に「武市大明神」という
石造の小さい社殿がある。
武市神社ともよばれ、毎年十月二十二日の秋祭りには、付近の神社以上の盛大な祭典が
催されるが、その日は、社殿の主の武市常三の命日供養といわれている。
常三は美濃川辺城主六万石右京亮(うきょうのすけ)通栄の二男として生まれた。
十五歳にして濃州表の合戦にでて以来、数々の合戦に参加し、蜂須賀家政の供をして
阿波に入り家老格として、徳島の築城に林道感とともにさい配をふるった。
居宅をたてるため家来の桑村八蔵に城裏の助任川を泳がせ、小島を下検分して屋敷を
建て、武家屋敷としたが、そこを常三の名をとって「常三島」と呼ぶようになった。
中略
この武市家は孝霊天皇の末葉といわれ(現在も家系図が現存している)その子孫が
国実の屋敷跡に社殿を建て、武市一族の氏神としてまつった。
まあ「常三島」までは分ります。
ただ、家来に助任川を泳がせるなよ、なんては思いますがね。
「この武市家は孝霊天皇の末葉といわれ(現在も家系図が現存している)」
はどうでしょうか。
家系図なんて、今も昔も怪しげなものの筆頭ですからね。
この、「徳島城築城した人」って書き方、なんだかなぁって感じですね(笑)
なんですが、ここにありました由緒を見てみますと
武市大明神由緒
抑々武市本家ノ祖ヲ経ルニ伊豫ノ國越智族ノ流レニ而
河野四郎通信十一代ノ孫彦六ノ小千通生ノ嫡男ナリ
初而関東ノ足利持氏ノ横暴弾圧為出兵シテ濃洲ニ
留ル武市右京亮小補ノ通高ハ河辺城主六萬石ニ有シ
嫡男右京亮通祐其ノ嫡男右京亮通栄ノ三男に武市常三
有リ其ノ母方ハ神洲諏訪大膳大夫頼方ノ娘常三ハ天正
十二年丹波ニ而一萬石給ル常三病身ニ而禄を返上ス
御腰物信國ヲ賜フ天正十三年五月蜂須賀家政公ノ
重臣トシテ阿波ノ國ニ入国三千五百石給ル渭城(徳
島城)築城後天正十九年十月禄ノ二千五百石ヲ返上
シ千石拝領嫡男ノ十左衛門忠方ト共ニ常三ハ阿波
領内名方郡内浦庄國実ニ隠居今ノ常三島ハ
常三拝領ノ地ナリ室ハ栗山備前守政久ノ娘ナリ
文禄二年巳年十月二十二日 冥界ス
以下略
ふむ、伊豫國河野家の末裔ですな。
河野家は饒速日(にぎはやひ)命の後裔であると言われる越智族の流れです。
それならば孝霊天皇の末葉であってもいいかな、なんて思ってしまいますね。
というのは、越智氏の祖とされる彦狭島命(ひこさしまのみこと)は
何を隠そう(誰がじゃ)孝霊天皇の皇子なんですね。
河野氏については阿波の方じゃあまり有名じゃないかもしれませんが愛媛の
方では超名家でありまして、伊藤博文も河野氏出身であるそうです。
で、さらには武市姓でありますが「武市」は「武知」と同根でありますことから
同じ石井町内の武知神社との関係が伺える....か.....な.......
とか書こうかなと思ってたんですが時間がない。
尻切れトンボの記事で申し訳ない。
ホントに年度末にかかわらず、なんでか忙しいんだよぉぉぉぉぉぉ。
ボクは仕事が嫌いなんだよぉぉぉぉぉ。(←笑ってやってよ)
というわけで「常三島」は「武市常三」から来てますよってことです。(フン)


