御縁起
鎮座地 名西郡神山町神領字西上角三三〇
おおげつひめのみこと 又の御名
御祭神 大宜都比売命 天石門別八倉比売命
大粟比売命
御例祭 歳旦祭(一月一日)
例大祭(一月十日) 祈年祭(四月十一日)
新嘗祭(十二月十一日)
一、 古事記によると大宜都比売命は粟国(阿波)を開かれた祖神で五穀 養蚕の神として古代から農耕を守り生命の糧を恵み続けられています
一、 神亀五年(七二八)聖武天皇御勅願所となり 元暦二年(一一八五)御祭神に 位階正一位を給い 以来正一宮大明神として広く崇敬されてきました
一、 旧事記によると当社の古代祭官は応神天皇の御代に千波足尼が国造 を拝命し以後三十四世にわたって祭事を司りましたが時の祭官一宮宗成 に代って歴応四年(一三四一)阿波守護の小笠原長宗が祭官となり後に一宮 大宮司となり その子成宗の代に一宮町に当社の分霊を勧請して一宮 神社を創建しました 蜂須賀家政は当社に二度も参拝し 代々の 藩主も深く尊崇していました
一、 今に残る江戸時代の十四枚の棟札(最古寛文十三年)からも社名が 一宮明神 田ノ口大明神 大粟上一宮大明神 上一宮大明神などと 変った事がわかります 明治三年(一八七〇)埴生女屋神社と改めら れたが 明治二十八年(一八九五)氏子の請願によって現在の上一宮大 粟神社に確定されました
撰 宮司 阿部千二
氏子会
大粟山保勝会
境内 案内書より
さて由緒にある「明治三年(一八七〇)埴生女屋神社と改められた」時、最も憤ったのが大宜都比売命の系譜を自負する「大粟氏」一族と上一宮大粟神社氏子一同でありました。
「大粟氏」の手による「大粟比賣尊考證」によれば、一族が祀る「大宜都比売命」こと「大粟比賣」は
「高皇産霊尊御子にて粟国造粟凡直等之遠祖也」
つまり「粟国造粟凡直
」の末裔である「大粟」一族は「高皇産霊尊」の系譜であると宣言しているのです。
詳しくは次回以降に記述いたしますが、「大宜都比賣命」は断じて「埴生女屋命」ではないとの主張により、県知事への直訴に至ります。
その次第が詳述されたのが
本「上一宮大粟神社古傳書及御神号改正願稿」
であるのです。
表紙には明治25年とあります。
この稿を以って直訴に至るのです。
そして延々と続く氏子の記名
宛名は「徳島県知事村上義雄殿」と記名。
さらにはこの請願書には、一族の出自を詳細に記した史料及び反駁文が添付されます。
「杉尾明神非八倉比賣神社辨」
「杉尾明神」は「八倉比賣神社」ではないとの見出しより始まり
「神名改正なりしは如何なる考証か知らず」と叫ぶがごとき反駁が記されております。
「上一宮大明神を埴生女屋神と非る事を知ると足れり」ともあります。
詳細については、後述致しますが、自らの出自を否定する、県による社名の変更に対するため、膨大な史料を提出しております。
その内容により我々は、「上一宮大粟神社」と「大宜都比賣命」の真実を知る事となるのです。
また、「大粟氏」のみならず、同じく「粟国造粟凡直」の一統である神山「粟飯原氏」の系統を示す事によりさらなる事実が明らかになる(かもしれない(笑))。
(ここで落とすかって?笑笑笑笑笑)
ただし「粟飯原氏」の系統に偽りはなく「名東郡下分上山村史付録」にも
「粟飯原氏に曰く大宜津比賣命に粟飯を炊き神供と為せしより粟飯原の氏を冒せりと、其三日月と称する起因は大祖月読尊に繋る傳説にして三日月家一族のものは古来より...」
云々の伝承を以って「月読尊」の裔である事を示しております。
さて、
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「えらいこっちゃあ〜ぁぁぁぁぁ」
ワタクシめなどの手に負えないではありませんかぁぁぁぁぁ。
一応続いたりしますが、あとは「awa-otoko」さんに任せようではありませんか。
へっへっへっへっ.......
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