tag:blogger.com,1999:blog-718874097527579234.post1568545740201883483..comments2024-02-27T03:02:49.317+09:00Comments on ぐーたら気延日記(重箱の隅): 善入寺島(粟島) 浮島八幡宮(1)ぐーたらhttp://www.blogger.com/profile/17983995401005232758noreply@blogger.comBlogger16125tag:blogger.com,1999:blog-718874097527579234.post-59528513228049737412023-09-28T11:00:06.862+09:002023-09-28T11:00:06.862+09:00返信ありがとうございました。
寛保三年改神社帳という通称があるのにわざわざ寛保年中(1741―43年...返信ありがとうございました。<br />寛保三年改神社帳という通称があるのにわざわざ寛保年中(1741―43年)に編纂された阿波国神社改帳と言うのはかなり不思議に思います。忌部神社の式内社論争でこれは考慮されなかったのでしょうか?不思議だらけですね、Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-718874097527579234.post-14693600662123367812023-09-27T21:38:59.569+09:002023-09-27T21:38:59.569+09:00九年も前の記事ですよ。
記事のソース全ては覚えていませんが阿波学会研究紀要は入ってたと思います。
阿...九年も前の記事ですよ。<br />記事のソース全ては覚えていませんが阿波学会研究紀要は入ってたと思います。<br />阿波国神社改帳と寛保改神社帳は同じだと思ってます。ぐーたらhttps://www.blogger.com/profile/17983995401005232758noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-718874097527579234.post-78441992156445686882023-09-25T22:28:54.811+09:002023-09-25T22:28:54.811+09:00『寛保年中(1741―43年)に編纂された阿波国神社改帳』とは、誰が何の目的で作成したのでしょうか?...『寛保年中(1741―43年)に編纂された阿波国神社改帳』とは、誰が何の目的で作成したのでしょうか?幕府の命によって徳島藩が作成した『寛保改神社帳(寛保三年改神社帳)』とは違うものでしょうか?この記事のソースはどこからでしょうか?よろしくお願いいたします。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-718874097527579234.post-67374770417076249832021-12-27T00:21:04.802+09:002021-12-27T00:21:04.802+09:00ワタクシとしましては、この歌は高所から(中洲島)を見下ろした時の印象を語った歌だと考えているのですが...ワタクシとしましては、この歌は高所から(中洲島)を見下ろした時の印象を語った歌だと考えているのですが…。河川が2股に分かれた後、再び閉じてゆく川の形がちょうどトンボが交尾している時の様な、いびつな形の輪形になっているのに気づいて歌われた物だと思っています。<br />中洲島をぐるりと取り囲んでいる二股に分かれた河川をトンボの細長い胴体に見立てて、2匹のトンボが交尾のために繋がった時にできるあの輪形になぞらえているのだと思っています。ローマ倭人https://www.blogger.com/profile/06006988905527546510noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-718874097527579234.post-83890054020942417942021-12-26T22:09:07.146+09:002021-12-26T22:09:07.146+09:00遅くなりました。
どのように解釈と言われてもって、ところですけど。
「のだせんいちチャンネル」ではど...遅くなりました。<br />どのように解釈と言われてもって、ところですけど。<br />「のだせんいちチャンネル」ではどんな質問をしてたんですか?<br />個人的には単純に神武天皇が弥生時代にあったとされる「大和湖」(もしくは古奈良湖)の形が菱形だったことを「蜻蛉の臀占」になぞらえたものと解釈してますが。<br />なにか他に論点があるのでしょうか?ぐーたらhttps://www.blogger.com/profile/17983995401005232758noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-718874097527579234.post-27809138667642304382021-12-21T23:55:24.009+09:002021-12-21T23:55:24.009+09:00ええと… そちらの方ではなくて 蜻蛉のとなめ の方でお願いします。ええと… そちらの方ではなくて 蜻蛉のとなめ の方でお願いします。ローマ倭人https://www.blogger.com/profile/06006988905527546510noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-718874097527579234.post-11796224101054013792021-12-21T22:52:36.806+09:002021-12-21T22:52:36.806+09:00神武天皇の国見の歌ですか?
「神風の 伊勢の海の 大石に 這ひ巡ろふ 細螺の い這ひ廻り 撃ちてしや...神武天皇の国見の歌ですか?<br />「神風の 伊勢の海の 大石に 這ひ巡ろふ 細螺の い這ひ廻り 撃ちてしやまむ」の歌でよろしいですか?<br />舒明天皇ではないんですね。<br />ぐーたらhttps://www.blogger.com/profile/17983995401005232758noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-718874097527579234.post-17268093692557853742021-12-21T21:38:04.755+09:002021-12-21T21:38:04.755+09:00話は変わりますが、ぐーたら様は 神武天皇の国見の歌 についてどの様に解釈されているでしょうか? のだ...話は変わりますが、ぐーたら様は 神武天皇の国見の歌 についてどの様に解釈されているでしょうか? のだせんいちチャンネル でも同じ質問をだいぶ前にしたのですが、未だ返信を頂けていませんので、ぜひご意見をお聞かせください。ローマ倭人https://www.blogger.com/profile/06006988905527546510noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-718874097527579234.post-23440142868949152542021-12-19T22:42:57.981+09:002021-12-19T22:42:57.981+09:00いえいえ、異説上等でございます。
ただワタクシとしても敷島については未だ纏まっておりませんので、詳し...いえいえ、異説上等でございます。<br />ただワタクシとしても敷島については未だ纏まっておりませんので、詳しくはご提示できませんが。<br />ヒント 母神 伊賀色謎命<br />程度で。<br />ぐーたらhttps://www.blogger.com/profile/17983995401005232758noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-718874097527579234.post-58314544286813167892021-12-18T21:31:39.351+09:002021-12-18T21:31:39.351+09:00未熟者で申し訳ございません(笑)。実をいうとそういう阿波説の一般的な見解は知ってはいたのですが、ぐー...未熟者で申し訳ございません(笑)。実をいうとそういう阿波説の一般的な見解は知ってはいたのですが、ぐーたら様ならば何か独自の考えを持っているのではないかと思い、お尋ねしてみた所存です。わたくしも大概に天邪鬼な性格をしているようで、たとえ阿波説とはいえ通説化したものにたいしては疑念を抱かずにはいられないのです(苦笑)<br />そして敷島に対するわたくし独自の考えとしましては(通説とさほどには変わらないのですが)、ズバリ 中洲島(川中島)の事を指しているのではないかと思っているのです。<br />高所から中洲島を見下ろせば、ちょうど陸地の上に島が敷かれているかのように見えますよね。ゆえに (敷島) なんじゃないかと・・・。<br />まだ大した勉強はしておりませんが、こういう事に対する勘の良さが自分にはあるような気がしておりまして(阿波説に出会う前から徳島には何か大きな秘密があるような気がしていました)諸先生方や先輩方に意見する無礼をできれば大目にみていただければ…と思っております。ローマ倭人https://www.blogger.com/profile/06006988905527546510noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-718874097527579234.post-61730030743177915122021-11-23T17:44:51.357+09:002021-11-23T17:44:51.357+09:00うーん、阿波説についてはどの程度ご存知でしょうか?
基礎的なところは押さえておいていただいた方が説明...うーん、阿波説についてはどの程度ご存知でしょうか?<br />基礎的なところは押さえておいていただいた方が説明しやすいんですけど。<br />磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)は、崇神天皇の都で、師木水垣宮であり、師木(しき)は河川敷、敷地、敷島などに用いられ、敷とは川の中、川辺、川口で土砂が堆積した場所のことですよね。<br />一般的な阿波説においては、周囲を水に囲まれていた「美馬郡半田町天皇」の地名が残る小高い丘を「師木水垣宮」に比定しています。<br />ぐーたらhttps://www.blogger.com/profile/17983995401005232758noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-718874097527579234.post-50697584309526882002021-11-22T14:41:04.367+09:002021-11-22T14:41:04.367+09:00どうもこんちには…。以前、邪馬台国の場所を尋ねた者です。今回は 敷島(磯城島) の言葉の意味について...どうもこんちには…。以前、邪馬台国の場所を尋ねた者です。今回は 敷島(磯城島) の言葉の意味についてお聞かせ頂きたいと思い書き込みしました。ネットなどでは具体的な事は何も解りませんでしたので、ここは阿波説研究者の方に聞くのがベターであろうと考えた次第です。<br /> ~島 という以上はやはり特定の形態の島を指す言葉なんじゃないかと思うのですが、ぐーたら様はどの様にお考えでしょうか?ローマ倭人https://www.blogger.com/profile/06006988905527546510noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-718874097527579234.post-1301081319055935782014-03-21T02:06:26.962+09:002014-03-21T02:06:26.962+09:00S家の方の話はおもしろくて、過去帳に「◯◯天皇と共に死す」なんて記載を見た事がある、なんて........S家の方の話はおもしろくて、過去帳に「◯◯天皇と共に死す」なんて記載を見た事がある、なんて.....<br />ああっ、これ以上書けないっっっっっ(笑)ぐーたらhttps://www.blogger.com/profile/17983995401005232758noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-718874097527579234.post-31179497104041352162014-03-19T19:56:30.833+09:002014-03-19T19:56:30.833+09:00ぐーたら先生。こんばんは。(ぺこり)
いや~。お久しぶりのブログアップですね。(笑)
何度も訪問...ぐーたら先生。こんばんは。(ぺこり)<br /><br />いや~。お久しぶりのブログアップですね。(笑)<br /><br />何度も訪問(勝手にですが・・・)して、楽しみにしてるんですが、<br /><br />この頃不定期的なご様子で・・・。<br /><br />いきなり(2)になっていたので、ご指示どおり(1)から拝読させて<br /><br />頂いております。<br /><br />「八咫鏡」については、私もいろいろなお話を耳に入れてはいるのですが<br /><br />どうも信憑性に欠けていたり、難しいものに関わる危険から、意図的に<br /><br />「ぼんやり」させて関わらないようにしてきました。<br /><br />わかったようで、わからんようなのが魅力的だったりしてね。<br /><br />旧麻植郡川島町には強い関心がありますので、引き続き(2)を<br /><br />楽しみに拝読させて頂きます。伊古彦ちゃんnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-718874097527579234.post-75064369112864381472014-03-17T21:46:59.583+09:002014-03-17T21:46:59.583+09:00その大野寺で聞いたお話
ええ、直接聞きましたよ。
この近辺に2〜300世帯あるS家。
治承・寿永の...その大野寺で聞いたお話<br />ええ、直接聞きましたよ。<br /><br />この近辺に2〜300世帯あるS家。<br />治承・寿永の乱、いわゆる源平合戦に平家方としても随行していた程の旧家。<br />「うちには天正頃の過去帳しか残ってないけど本家には源平合戦の時の過去帳もあるよ」などと平然と言い切るほど。<br />このS家の分家、岡山にある分家には、なんと壇ノ浦の戦いで失われたと云われる三種の神器の一つ「八咫鏡」が保存されているという。<br />壇ノ浦の戦いで敗れた平家に付いていたS家の一派は剣山へ、もう一派は海を渡って岡山方面に落ちて行ったという。<br />その岡山に落ちた一派は「八咫鏡」を持って逃げ、現在まで伝えているという。<br />数年前には、年代分析も行なったそうである。<br />その結果までは聞かなかったが「公表はしない」との結論が一族でまとまったそうだ。<br /><br />だと言う事です。<br />宝篋印塔にもS家の姓が施主として刻まれてました。ぐーたらhttps://www.blogger.com/profile/17983995401005232758noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-718874097527579234.post-85896729580555547042014-03-17T19:47:51.655+09:002014-03-17T19:47:51.655+09:00おお! 大野寺だ! 善入寺島だ!
大野寺の石造文化財については…親戚のおっちゃんが「市場町史」で専...おお! 大野寺だ! 善入寺島だ! <br />大野寺の石造文化財については…親戚のおっちゃんが「市場町史」で専門に書いてましたね。<br />ここから西の、山野上城跡辺りにかけて、板碑や宝篋印塔がゴーロゴロあったそうですが…持ち去られたものも多くて、今では少なくなっています。<br /><br />昔、善入寺に住んでいた人の多くは、北海道の開拓民として移住したそうですが、中には向こうでの生活に慣れなくて、故郷に戻ってくる人もいたとか。<br />実家の、斜向かいに住むおじいさん(100歳超えて、シルバーカーで町内を爆走する元気なおじいさんでした)が、まさにその帰還組だったそうで。<br />惜しいことに、一年くらい前に亡くなられたんですよね。<br />ご存命なら、今度の帰省の折にお話を伺いに行けたのに…。<br /><br />かずくんnoreply@blogger.com