神社の祭礼時に神前にささげられる神饌・供物を75種類、あるいはひとつのものを75個用意して神前にささげるというのが、「七十五膳の神饌」であり、この神事は通常「七十五膳神事」と呼ばれている。
徳島県では、麻植郡川島町の川島神社、麻植郡山川町の川田八幡神社、麻植郡美郷村の平八幡神社、名西郡神山町の黒松八幡神社、同じく神山町の新田八幡神社で行われている事がよく知られています。
川島神社の「七十五膳神事」では
毎年秋祭りの例大祭に続いて七十五膳神事が行なわれる。氏子から奉納されたおごく(炊いたご飯)・酒・穀物・魚・海藻・野菜・果物などのあいとあらゆる食べ物を75台の三方に載せ本殿にお供えする。(徳島県の七十五膳神事より)
山川町の川田八幡神社では
十月の秋祭りに合わせて七十五膳神事が行なわれる。神前には75台の三方が供えられるが、それぞれの三方には、ご飯・餅・栗・昆布・いりこ・の五品が盛りつけられる。新穀で造った甘酒も付き物である。(徳島県の七十五膳神事より)
川田八幡神社の七十五膳神事についてはオキタリュウイチさんが
【徳島】川田八幡神社例祭-10 七十五膳の神事 [特殊神饌]
の動画をYouTUBEにアップされてましたので貼らせていただきます。
麻植郡美郷村の平八幡神社については詳しい記録があります。
ちょっと長いですが引用いたします。
八幡神社の例祭(秋祭り)は現在、10月24日に行われている。以前は旧暦9月9日に行っていたが、昭和の初めに現在の日程に変更になった。
宵宮(10月23日)は祭りの準備(境内の清掃、飾り付け、幟のぼり立てなど)くらいで、特に行事はない。
10月23日は川田川を挟んだ向こう山の別枝山字照尾にある照尾神社、24日は平の八幡神社、25日は平から川田川を上流に1袰ほどさかのぼった別枝山字宮倉の八幡神社の秋祭りで、3日連続で大字別枝山の祭りが行われている。かつてはそれぞれの祭りに3台の屋台が行き来してにぎやかであったが、現在は屋台は出ていない。
24日(本祭)は早朝より御膳ごしらえの当番14人(いずれも男性)が神社に集まってくる。一番ドウヤは5合の米を炊いて朝8時に持ってくる。平成13年の一番ドウヤは下浦の枝川明義氏であった。
御膳ごしらえ(写真2)はごはんを丸めて「ゼニゴック(銭穀)」と呼ばれる団子状のものを作る。
ゼニゴックはやや大きめの丸いもの80個(75+5)と、小さく平たいもの320個((75+5)×4)を作る。また、七十五膳の神饌の中央に配置する大きめのご飯(上部がすぼまった四角錐状のもの)を80個、木の型に詰めて作る。
栗は井頭地区のトウヤが毎年持ってくる。橘は、採れるところから出す。
栗、橘、ゼニゴック(大)各1個を取り、それぞれに長さ10袍ほどの竹串(竹を裂いて作る)を刺す。
その上部に長さ2袍ほどに切ったズキ(里芋の茎)を刺し、稲藁いなわらを巻き付けてまとめる。全体が三角錐のような形になる。
三寸四方の折敷おしきの上で七十五膳の神饌を組み立てる。
まず、台の中央に型にはめて作った上がすぼまった形のご飯を載せ、その上に、先に作った栗・橘・ゼニゴックの三角錐をかぶせるように載せる。
空いている四方に小さなゼニゴックを載せる。最後にズキの頭にカッターナイフで1袍ほどの切れ目を入れ、長さ8袍ほどの小さな御幣を差し込めば完成である。
これを80個作る。
この変わった形の神饌については、氏子の間に次のような話が伝えられている。
自然の恵みを与えてくれる三宝荒神(三本の竹串で象徴)に感謝し、八百万の神々に氏子・在所を守護してもらうよう願いを込めて、その年に土地でとれた穀物・果物・野菜などの収穫物を「四合わせ」(=幸せ。四角い膳)でお供えする。
中央の穀物が全体を代表し、栗の丸さは平和を意味している。
ズキで3本の竹串を結ぶのは縁結びの意味がある。
できあがった七十五膳の神饌(写真3)は八寸四方の三方に載せ、拝殿内左手の神饌仮案(かりあん)に据え置かれる。
七十五膳の神饌は小さいので、一つの三方に4個あて載せる。
七十五膳の神饌は75+5=80個作る。
七十五膳として三方に載せ神前に供する以外に、裏山の王子権現(美奴間 みぬま神社)、神社右手入口のコミヤ(美郷の社家・松田家の屋敷神)と、さらにその奥の山道を100mほど上ったところの窟の中にあるコミヤ(地元の人は八幡神社の奥の院ではないかと言っている)、鳥居元の狛犬一対に各1個(計5個)の神饌を供える。これら5つの神饌は後で回収することはない。
10時、神職(麻植郡山川町の川田八幡神社宮司・熊代美仁氏および助勤神職)が到着、例大祭の神饌の準備をする。神饌は大型の三方5台に載せる(神饌の内訳は「餅・御神酒」が2台、「大根・生鯛」が2台、「塩・水」が1台)。
13時より例大祭の神事。神職、トウヤ、神輿かき、神輿のお供一同は拝殿に参進。神事は修祓しゅばつ、宮司一拝、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠 (たまぐしほうてん)、宮司一拝の順。
献饌の際には全員が起立し、榊の葉をちぎり各1枚口にくわえ、神饌仮案から本殿にかけて等間隔で並ぶ。
続いて、神饌仮案から本殿まで手渡しで三方(通常の神饌および七十五膳の神饌)を役送
する。
本殿内の神饌案は3段になっており、そこに通常の神饌と七十五膳の三方を並べる。神事は15分ほどで終了する。
13時30分、社殿前(境内西側)で平八幡神社獅子舞保存会による獅子舞7)の奉納が行われる。
昔、穴地の穴山という家に病気が発生し、魔よけのために獅子頭一対を祀まつった。
法印様がそれを見に来て、病気よけのために獅子舞をするように言われたので、以後獅子舞を行うようになったと言う。
創始は文化年間(1804~18年)と言われており、山川町北島(さらに元をたどれば香川県)から伝わったものとされる。
社殿前に太鼓4台を据え、その前で社殿に向かい、2頭だての獅子が舞を披露する。拍子木2名が音頭をとり、 錫杖1名が舞を見守る。
太鼓は両端の「向かい太鼓」2台(大人が担当)、内側の「中太鼓」2台(子供が担当)に分かれており、中太鼓は太鼓をたたきながら獅子を操るしぐさをする。
14時、神幸祭の神事。神輿を拝殿に安置し、その周囲を覆うように絹垣きぬがき
を張りめぐらせる。トウヤ、神輿かきらは絹垣の中に入る。
神事は修祓、宮司一拝、献饌(御神酒の蓋を開ける)、祝詞奏上、徹饌、出御の順。
徹饌では、神前(本殿)の神饌案に奉じた三方(通常の神饌と七十五膳の神饌および甘酒)を神職およびトウヤ、神輿かき、神輿のお供が順次手渡しで拝殿西側(左手)の神饌仮案に下げていく。
出御の後、絹垣を外す。神輿かきが神輿を担ぎ、社殿を出る。天狗(猿田彦)1名、屋台ドウヤ(長さ約1mの大きな御幣を持つ)1名、幟(7本)、御幣(7名)、毛槍(2名)、神饌(三方5台。通常のもの)の後に、神輿、神職が続く。
天狗は神輿担当地区から出る。御幣はトウヤ(一番ドウヤ~七番ドウヤ)が持つ。
幟持ちは各地区で1~2人あて出す(幟はトウヤ地区によって本数が異なる。役は各
トウヤ地区で相談して決める)。
一同は鳥居をくぐり、境内を出た後、突き当たりの上柿徹氏宅前を左折、100mほど進み川田川に突き当たったところで左折、川田川沿いに北に200mほど進む。
ここは平集落の外れで道は行き止まりになっている。
一同はここでは止まらずにぐるっと回り元の道を100mほど引き返す。
ここに神輿2基(神社に近い側(南側)に八幡神社、遠い側(北側)に王子権現の神輿を、それぞれ神社の方角(西側)を向くように据える)と幟、神幸具を据え置く。
神輿の前に三方に載せた神饌を置く。
14時30分、御旅所祭の神事。
修祓、宮司一拝、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠、徹饌、宮司一拝の順。
神事終了後ただちに神輿が御旅所を出て社殿に戻って行く。
天狗、幟、屋台ドウヤなどに続き神輿2基が進む。
15時、神輿が社殿に到着。神輿かきは拝殿内に参進、神輿を据え置く。
神輿の周囲に絹垣を張りめぐらし、還幸祭の神事が行われる。
神事は修祓、宮司一拝、入御、祝詞奏上、宮司一拝の順。
還幸祭の神事終了後、絹垣を外す。直ちに一同、後片づけに入る。
神饌仮案に据えられた七十五膳は、参列者が各自持ち帰る(家で食する)。
(阿波学会紀要「平八幡神社祭礼について」より)
全国的に見れば
福島県では県内各地の八幡社、双葉郡富岡町の太田八幡神社・八幡神社、同郡楢葉町の北田神社・木戸八幡神社、いわき市の飯野八幡宮など。
茨城県真壁郡大和村の大国玉神社、栃木県日光市の日光東照宮、群馬県富岡市の一宮貫前神社、神奈川県大礒町の六所神社。
新潟県糸魚川市の天津神社、長野県南佐久郡小海町の諏訪神社および茅野市の諏訪大社上社前宮。
静岡県志田郡岡部町の若宮八幡宮、小笠郡菊川町の大頭龍神社、周智郡春野町の秋葉寺、袋井市の富士浅間宮および可睡斎、天竜市の光明寺。
兵庫県揖保郡新宮町の河内神社。
岡山県上房郡賀陽町の吉川八幡宮および勝田郡勝田町の梶並神社、総社市の国司神社。
鳥取県日野郡溝口町の福岡神社。
島根県八束郡東出雲町の揖保夜神社。
山口県下関市の蓋井島の山の神神事でも、七十五膳の儀式が見られる。
あと、香川県丸亀市の垂水神社でも行なわれている。
また、岡山県の、吉備津神社の「七十五膳据神事」は有名であり
七十五膳据神事は当社にて春と秋に行われる大祭の献饌行事で、古くは陰暦9月中の申日に行われていた大饗会であります。備中の国内の諸郷から新穀をはじめとする産物を一宮である当社に献納し感謝するお祭りであります。
殊に江戸時代には一ヶ月以上にわたり歌舞伎芝居やその他の興行も行われ賑わいを極めておりました。明治時代になると5月13日、10月19日の春・秋二 度斎行されるようになり、昭和46年からは多人数を要するため、5月と10月の第二日曜日に斎行しております。
現在では300メートルに及ぶ廻廊の端にある御供殿(ごくうでん)という建物に大祭の世話人の方十数人が集まり、七十五膳やその他の神饌、神宝類、奉供 物を前日までに準備いたします。膳の形は御掛盤・平膳・高杯・瓶子など種類がありますが、どれも黒漆塗りの立派なものであります。それぞれの膳には春は白 米、秋は玄米を蒸して円筒形の型にはめて作った御盛相(おもっそう)を中心に鯛や時節の山海の珍味で四隅をはり柳の箸がそえてあります。
小忌衣(おみごろも)を身にまとった奉仕者が、御掛盤は二人一組で両側から捧げ持ち、平膳その他は一人で捧げ持ち順番は並び行列をつくります。百数十人 の長い長い奉供行列は多数の見物客の見守る中、御供殿から粛々と廻廊を進み南随神門につくと一旦立ち止まり、宮司が随神門の神に祝詞を奏上します。そして 再び進み御本殿前に到着すると、そこで待機中の伝供役が奉供者が持ち運んできた神膳やその他の供物を受けて御本殿内部の祭員に渡し、祭員は所定の場所に是 を献供いたします。この日ばかりは広い本殿内部も神膳やお供物でいっぱいに埋まってしまいます。
お供えが終わりますと宮司が祝詞を奏上し、参列者の皆様が玉串を御奉奠され直会会場に移動し祭事は完了いたします。午前11時ごろ御供殿出発に始まり午後1時ごろ本殿退下する荘重な祭典であります。(吉備津神社公式サイトより)
最も特異であろうと思われるのが長野の「諏訪大社」
三月酉日本社より十八丁を隔て前宮に十間廊あり 往古は鹿狩之実検廊也と云、俗に十間廊と云、上段に一百余の燈篭を挑(かかげ) 猪鹿(ちょろく)の頭七十五俎板(まないた)にのせて供(そなふ)(「信濃奇勝録」、「御頭祭」より)
イノシシ、もしくは鹿の頭を七十五供えたという記録となっています。
さて、これらの分布を多いと見るか少ないと見るかは主観によるものでしょうが、共通するところは「七十五」という数字にこだわっているところでしょう。
祭りの意味としては、その土地で収穫されたものを、お供えするという解釈が一般的ではないでしょうか。特に供え物のメインとなるのが新穀を炊いたご飯である事、神山町の黒松八幡神社では戦前は十一月に行なわれたいた事からも、新嘗祭との関連をも伺えます。
では、なぜ「七十五」なのか?
これも一般的な説としては「七十五」と言う数が、お祀りする神様の数が多い事を意味するとか言われておりますが、では引用した美郷村の平八幡神社では、何故「七十五膳の神饌は75+5=80個作る」のか?
数が多い事を意味するだけでは説明できません。
また縁起の良い「陽数」いわゆる奇数の組み合わせでできているという説もあります。
「七五三」という、縁起のよい数の組み合わせを用いて、7・5・3のそれぞれに陽数5を掛けて合計すれば、75になるという解釈です。
(7×5)+(5×5)+(3×5)=75
となりますが、こうしても何故掛けるのが「5」なのかと言う疑問が残ります。
どうしよっかな....
長くなりすぎたんで分けよかな....
よしっ、上下にしよっと!
(下)に続く。
あああ、(下)が半年先になったらどうしよう.........
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