2013年6月8日土曜日

桜間の碑石

個人的に言って..........
阿波弁で「しんどい」。
全国的に分るように言えば「疲れた」。
英語圏も含めれば「I'm very tired」(warai)(笑)
けど、たまには何か書いとかないと、死んだんじゃないかなって思われるので(笑)
難しい事書く気力も無いし、時間もないので、手持ちの資料からと、写真があるものを....

これ行きましょか「桜間の碑石」、近場だし(意味ないけど)。
あんまし、古代史とは関係ないかもしんないけど(笑)

ご存知、石井町高川原の桜間神社、場所はここ。

より大きな地図で 桜間神社 を表示

徳島新聞の文化財記事によれば
石井町高川原の桜間神社にある高さ4・2メートル、周囲10・2メートルの巨大な石碑。刻まれた文には、かつて「桜間の池」と呼ばれる全国でも有名な景勝地が、この地にあったことを伝えている。1969(昭和44)年に県文化財に指定された。

 文中には、鎌倉時代に編集された夫木(ふぼく)和歌集で桜間の池は「鏡のように美しい池」と詠まれている、とある。正式な記録はないが、池の面積は両端が見えないほど広大だったと伝えられている。しかしその後、吉野川から流れる土砂の堆積(たいせき)で江戸時代には小池ほどになった。

 美しい湖のような池があったことを後世に伝えようと、1828年、徳島藩12代藩主・蜂須賀斉昌(なりまさ)が石碑建立を命じる。約6千人を動員し、海部郡東由岐(現・美波町)の海岸から約75トンの巨岩を運んだ。運搬から石碑完成までに、約7年かかったとされている。

 ここにも同じような事書いてありますね。
で、ここに75トンもの石を運んだ理由が、阿波藩主蜂須賀斉昌(なりまさ)が江戸で、徳川家斉に拝謁した時、将軍から、応永2年(1406)の「夫木(ふぼく)和歌抄」に収録されている句「鏡ともみるべきものを春くれば ちりのみかかる桜間の池」とある桜間の池の所在について尋ねられた時、答えられなかったことを恥とし、調査の上、記念碑を建てる事を思いついた事によるものだそうです。
そんな事思いつくなよな!
家臣にとっちゃ、いい迷惑この上ないモンですな。
 で、「お石」はこっち。
ここ、ここ。
で、この「お石」なんですが、海部郡由岐町 東由岐由宇海岸、通称「まわりが鼻」を廻った小島の磯に二個あった「蛙石」の通称「めす石」を運んで来たものです。
この「蛙石」は俗に「エーバエ」と呼ばれ(意味は不明)「おす石」は今尚残っているそうです。
表面に刻んであるのが「桜間池石文」。
まあ、現地へ行かれた方は直接読んでいただければいいんですがね(笑)
夫木和歌抄に懐中抄を引く「鏡ともみるべきものを春くれば ちりのみかかる桜間の池」阿波の国と注したるはすなわち名西郡なる此池なり、抑今の太守は物ごとにいと深くわたらせたまへは、国政のひまひま皇国の故実をこのませ給ふあまりに千代萬世の後までも此池のあせざらむためにことし文政十余り一とせ長月石文建させたまふとてあつらへさせたまふままにこのよしをかきつけはべるは幕府内史局直事源弘賢時にとし七十一なり。
 でもって、裏面に刻まれているのが「桜間池石碑陰記」なんですが、これは文章が漢文でちょっと難しいので、柴野碧海釈文を出します。

文政十一年八月廿八日、臣武市信圭、臣長浜長致、命を奉じ、石を海部郡東由岐浦に採り十一月二日を以って程を起し、海軍十五里許十二年十一月十四日を以って、別宮口に達す口にあること二歳、臣斉藤惟裕模勒の事に任し、功畢るを告ぐ。天保二年十月三日再び程を起し、陸運四里許、以って桜間邑に達す。三年九月、営建の功畢るを告ぐ。初め二臣の斯の石を擇ぶや、人其の鉅重にして致す可からざるかと疑えり。而るに二臣は之に任ずること甚だ鋭にして、其の之を運ぶに術有り、載するに(木へんに戈)背り、車有り、浮ぶるに桶有り、挽くに舟有り、颶風の漂没する所と為る者再びなり。一は中島口に于てし、一は和田の洋に于てなり。其の之を挙るに亦術有り、束するに帯有り起すに鈎有り、鉗有り、他に凡百用に応ずるの器は、皆臣長致が創意にて之を製し、而して臣信圭之を賛襄して、措置す、長致は久しく作部に在り、巧思を以って称せらる。信圭は中外に閲歴し、老成練達にて今民曹に官たり。故に択んで之に任ずるに、皆其の命を黍しめざる所以なり。凡そ、須る所、巨(木へんに戈「木戈」)三事、巨車一両、浮桶一千有餘事、鉄帯一事、長さ五丈、紐之に作る、鉄鉗二事、長さ三丈、柄の長さ七丈、挽舟三千餘隻挽夫六千餘名なり。公、群臣諸吏の心を用ふるの労、民夫の力を效すの多きを以って、其の功を没することを欲せず。臣柴升乏しきに承け、筆に載す。故に其の本末を記し、併せて碑陰に勒し、以って来世に告げ使む。

これは凄い事が書いてありますよ。
もう一度、出して行きます。
文政十一年八月廿八日、臣武市信圭、臣長浜長致、命を奉じ、石を海部郡東由岐浦に採り十一月二日を以って程を起し、海軍十五里許十二年十一月十四日を以って、別宮口に達す口にあること二歳、臣斉藤惟裕模勒の事に任し、功畢るを告ぐ。天保二年十月三日再び程を起し、陸運四里許、以って桜間邑に達す。

別宮口は旧吉野川の河口近辺を云います。吉野川の前は別宮川と言っていたのはご存知の通り。勿論「別宮八幡神社」より来てる事は論を挟まないでしょう。

三年九月、営建の功畢るを告ぐ。初め二臣の斯の石を擇ぶや、人其の鉅重にして致す可からざるかと疑えり。而るに二臣は之に任ずること甚だ鋭にして、其の之を運ぶに術有り、載するに(木へんに戈)背り、車有り、浮ぶるに桶有り、挽くに舟有り、颶風の漂没する所と為る者再びなり。

人がその重さのものを運べるかと疑ったとき、二人の家臣「武市信圭」と「長浜長致」が「やりましょう」と立ち上がった訳ですな。おお、プロジェクトX!!
それ(石)を運ぶのに、(石を)載せるのに「木戈」(修羅のようなもんですかね)、車を使い、桶を使って海に浮かべ、それを舟にて曳航して行く、そして颶風(暴風)にて二度水没したと。

一は中島口に于てし、一は和田の洋に于てなり。其の之を挙るに亦術有り、束するに帯有り起すに鈎有り、鉗有り、他に凡百用に応ずるの器は、皆臣長致が創意にて之を製し、而して臣信圭之を賛襄して、措置す、長致は久しく作部に在り、巧思を以って称せらる。

一箇所目は那賀川町中島港の沖、もう一箇所が和田島。そして気になるのが「長致は久しく作部に在り」のところ作部(つくりべ)、何の?どこの出身?
この長致が石をサルベージするのに必要な道具を造り上げたというんですから、驚愕です。

信圭は中外に閲歴し、老成練達にて今民曹に官たり。故に択んで之に任ずるに、皆其の命を黍しめざる所以なり。凡そ、須る所、巨(木へんに戈「木戈」)三事、巨車一両、浮桶一千有餘事、鉄帯一事、長さ五丈、紐之に作る、鉄鉗二事、長さ三丈、柄の長さ七丈、挽舟三千餘隻挽夫六千餘名なり。

で、ここで信圭が「挽舟三千餘隻挽夫六千餘名」をコントロールする役目を行なっていたと云うのですな。凄いですね、技術屋と現場監督(笑)が完璧にシンクロして事を進められたのです。

公、群臣諸吏の心を用ふるの労、民夫の力を效すの多きを以って、其の功を没することを欲せず。臣柴升乏しきに承け、筆に載す。故に其の本末を記し、併せて碑陰に勒し、以って来世に告げ使む。

此の一大事業を書き残さないわけにはいかないと、石碑の陰陽に刻み来世にまで告げようとした。

この石碑の陰面にしても文字が刻まれている部分の平坦さは1ミリ以内に納められているそうで、当時の技術の高度さが伺い知れます。

と言う訳で、この一大プロジェクトは終了した訳なんですが、個人的に気になるのが「由岐」の地名の由来です。由岐町史などを見ても「和名抄に記載のある...」云々とは在りますが由来自体は書かれていません。ヒントとして「三岐田町郷土読本」(由岐、木岐、志和岐、田井が一時期合併して三岐田村となっていた)に「由岐は靫(ゆぎ、矢を入れて背負う入れ物)から出たのではないか、上古、靫作部(ゆぎつくりべ)がいたからではないか」との説を挙げております。

確かに京都鞍馬に「由岐神社」があり、其の由来は「靫(ゆぎ)」から来ているとありますので、あながち間違いではないように思えます。
さらには、京都の熊野郡海部(あま)村に「聞部(ききべ)神社」があり、木岐は其の伝では無いでしょうか、との説です。

先に書いた「長浜長致」が作部の出だったというところとか、「聞部(ききべ)神社」が「海部(あま)村」にある辺りに、証明はしにくいですが、近しいものが在るように思えます。

と、こんなトコで、手持ちの資料貼っただけなんで、1時間ちょっとでできてしまいました。(手抜きって言わないでね、碑文の入力にはけっこう時間かかってるのよ)
桜間神社までは今回書けません、そんな体力残ってません。

6 件のコメント:

  1. お疲れのところ、ごくろうさまでございます。

    当時の人たちの様子がなんだか目に浮かぶようです。
    実際の石碑を見ても、まずそんなことは起こりませんから、ありがたいです。

    お手持ちの在庫棚卸しにも、これからも期待しています。

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    1. ありがとうございます。
      在庫も断片ばっかりで、あまりまとまったのがありませんが、合間合間に出して行きます。
      ちょっと「?」なモノもありますけど(笑)

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  2. ピコちゃん2013年6月16日 19:43

    ぐーたら先生。久しぶりにコメントさせて頂きます。(敬礼)

    いや~。とんでもない「技術」を持った集団と、それを動かす「統率力」には驚くばかりですが、
    当時「巨石」をサルベージする技術がどうだったかをイメージするのが難しい。

    問題は「強力な浮力」をどのように得たのでしょうか?
    船を連結させた上、潮まわりや地形(海底の地形)をする技術と云い、誰かがロープ(綱)を潜って縛れなかったら無理な話で・・・。

    ミステリーですね。興味深々です。

    興味深いお話、ありがとうございました。(最敬礼)

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    1. ごぶさたです。
      「其の之を挙るに亦術有り、束するに帯有り起すに鈎有り、鉗有り」の所ですね。
      「浮桶一千有餘事、鉄帯一事、長さ五丈、紐之に作る、鉄鉗二事、長さ三丈、柄の長さ七丈」
      鉄帯と鉄鉗(はさみ)それも柄の長さ七丈の化け物のような鉗(はさみ)二本(鉄鉗二事)で掴み上げ、桶一千余りを使い、浮かべた。後は鉄帯五丈を紐にして、海中を「挽舟三千餘隻」で引っ張った。
      と書くのは簡単ですが、いやぁ〜。
      それに加えて由岐の超人的な海部(あまべ)が大勢加担した事は想像に難くありません。
      鳥肌立つくらい、凄いと思います。

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  3. 地名に関してひとこと。(前出かもしれませんが)
    文字の無かったことを想定しまして、
    牟岐、木岐、由岐、志和岐、椿 (日和佐はなぜか付いていませんが)
    皆最後に「き」が付いているのは偶然の一致とは思えません。
    よって、靫(ゆぎ)とか聞部(ききべ)とかの類では無いと思いますが、いかがでしょうか。

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    1. そうかもしれません。
      仰るように「岐」が付いているのは偶然ではないでしょう。
      もう少し、調べる余地がありそうです(けど、資料がホントにないんですよね)
      ありがとうございます。

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