2013年4月13日土曜日

阿波國続(後)風土記について(6)異聞、阿波國名東郡郷名實地略考


3月9日(土)阿波古事記研究会より、その6。
「異聞、阿波國名東郡郷名實地略考」

前回までは
阿波國続(後)風土記について(1)
阿波國続(後)風土記について(2)
阿波國続(後)風土記について(3)
阿波國続(後)風土記について(4)
阿波國続(後)風土記について(5)
読んでない方は見てから戻ってきてね。

前回までで「勝間井」までの話が終わった訳なんですが、今回はちょっと補記として、これもやはり後藤豊尚翁が記した「阿波國名東郡郷名實地略考」について書いておきます。
後藤家文書として遺されている資料にも「阿波国郡名の事」との書簡が残っておりますが

下図は後藤家文書該当部分


「阿波國名東郡郷名實地略考」の中で名東郡の郡名と郷の名についての考察を行なっております。
その口上として
これの名東郡は、古へ名方ノ郡にて、今の名西郡をも、まとめての名なり。さるを、寛平八年九月になん、東西を分ちて、名方東ノ郡・名方西ノ郡と改めさせ給ひしなりけり。さるを延喜式巻第十に、名方ノ郡ともにあるは、分かれざりしまへつかたより、書上しまゝなるべし。其後三十年計をへて、延長の頃、勤子内親王のおほんおふせをうけて、源順朝臣のものせし和名類聚抄には、名方西ノ郡、郷の名四つ、名方東ノ郡、郷の名六つとぞのせたり、さるを今、名方東ノ郡村・名方西ノ郡村名とぞなれりける。かくなれること、また御代の頃などは、未思ひ得ず、近き頃新田なりしが、村名のごとなれりしこと、あまたあり、この名、さだかにわかりしは、下にいふべし。され代を経るまにまに、ふるき郷名のさだかならぬものすら、いで来ぬ。さるからに、またいにしへにたちかへり、かの名方東ノ郡の郷名、六つの名義をあかし、それらの郷名は、今のこのむら、これは、この浦と、古くもあたらしくも、書にのこりし、または言傅をば、あなぐりもとめ、そがよさあしをなん、おふけなくも、千年にちかきあなたより、書傅へ言傅へしことを、今のおつつにくらべ、そをあげつらひさだめんとするなりけり。さてなん、はじめには、名方といへる名の義をあかし、つぎには郷の名と、その處の今の村浦とを、あげつらふこと、左のごとし。さてはあれど、おのがみしふみはいささかなれば、つぎつぎ誰やしの人もかゝることの、見聞んまにまにあげつらひ直してよ。さるはこれまでの、あげつらひふみの、いささけくて、くらべかふ見るふみの、すくなければなり。

ご存知とは思いますが、上記口上にもありますように、名東郡、名西郡は古(いにしえ)名方郡(なかたぐん)と呼ばれていたのが東と西の二つに分れ、名東、名西郡となったのですが、その由来と、郡に属する「郷」についての由来と所属を書き記してあるものです。
もともと「名方郡」であったのが二つに分かれたのが「寛平八年九月(896年)」宇多天皇の御宇の時です。
それ以前は、延喜式にも「名方ノ郡」としか書かれておりませんでした。

 下図は延喜式巻第十 

それが「其後三十年計をへて、延長の頃、勤子内親王のおほんおふせをうけて、源順朝臣のものせし和名類聚抄」には(下図)
名方西ノ郡、郷の名四つ、名方東ノ郡、郷の名六つとぞのせたり
となっています。
そこから、さらに時代が下って「名東郡」「名西郡」となったわけです。
ちなみに「名東」は「みょうどう」と読んじゃいけません。
「なの ひむかし」と読むのです、ならば「名西」は「なの にし」と読むのは分りますね。
で、
はじめには、名方といへる名の義をあかし、つぎには郷の名と、その處の今の村浦とを、あげつらふこと、左のごとし
と、その名義を明かしてしまおうと言っております。

知ってる人は知ってますが、一般的には(全然、一般的じゃないけどね(笑))石井町に鎮座する「式内郷社 多祁御奈刀弥神社」御祭神の建御名方神よりの由来であると言われております。
本居宣長の「古事記伝(ふることふみのつたへ)」にも阿波の名方郡名方郷に由来すると書かれておりますが、これに対して後藤氏、こう言います。


名方ノ郡 奈加多
この郡名の義二つあり。まづひとつには、阿波志抄に、此郡の號は美名方之命の御名の上下を畧、云々とのせたり。こは延喜式名方ノ郡多祁御奈刀彌神社あり、此御神は建御名方彌命の御事にや、建御名方彌ノ命は信濃國諏訪郡の神社と古史傅百十八段に師云々とてあげたり。この御神この郡の名に、よしありとは見つれど、今は御社もさだかならぬは、あたらしきことなり也。あなかしこ。今一つは、古史傅百三十四段に云々地名云々、舊は佐那方(さながた)と號りしを、後に佐を省きて、名方と爲たること著名なり。(此はかの諸國郡郷の名を、二字に約めて好字を用ひられし故の事なるべし、是をもて和名抄にも、名方は奈加多とぞ書れたる、猶諸國に地名の此にうつり彼に移れる類は計ふるにいとまあらず。)と、しるされし。このもとの義は當國の神社帳に二社(天石門別八倉比賣神社、天石門別豐玉比賣神社)ともに名東ノ郡佐那川内村と云に在て、二社をすべて今も天磐戸別社といふ由見えて云々とも、古史傅五十一段にいへるぞ、平田大人の考なれ。かくてかの伊勢の佐那縣に座す、佐那乃神社の一座を、當國佐那川内村にうつして、天乃磐戸別神社とするとの由にはあれど、當國の神社帳といふも、年頃しるされねば、たづぬるよしなく、はた今存在する神社帳には、上佐那川内・下佐那川内ともに無し。かの里人にたづぬれど、かゝる社は不明といへりき。郡の名によしある神社の、今しられざれば、いかにともせんすべなし。されど此地を名方のもとつ名として、六つの郷の地名をもとむるに、みちのついで、かの阿波志抄(捷一云、阿波志抄の題名はあれど、市原本・後藤本の阿波志、佐野憲の阿波志、その何れの抄録本にも非ず、柴野升の編みたる別本なり)または、野口・木内の兩氏天保年中に調し帳(捷一云、野口徳兵衛・木内榮之丞の天保調書に二あり、天保十一子三月附のものを名東郡御取調帳、壬寅(天保十三年)三月附のものを名東郡再調帳といふ、本書に引用せるは専ら前書なり)に、いへるにもまされりと思へれば、一つの説として下にもいへり。

この郡名の義二つあり
一つは
阿波志抄に、此郡の號は美名方之命の御名の上下を畧
これは本居宣長「古事記伝」と同説ですね。
ちなみに「古事記伝」の完成が天明八年(1788)頃
「阿波志」が文化十二年(1815年)となっています。
今一つが
佐那河内村の旧名「佐名県(さなのあがた)」より
舊は佐那方(さながた)と號りしを、後に佐を省きて、名方と爲たること著名なり
というものです。
これは「平田 篤胤(ひらた あつたね)」「古史傅」の説であります。
上記文章を読んでいただければ分ると思いますが、後藤氏、どちらの説をも疑っております。
ただ、後藤氏は多分「多祁御奈刀弥神社」御祭神の建御名方神が宝亀十年に信州諏訪大社へ勧請された事を知らなかったと思われます、知っていれば
この御神この郡の名に、よしありとは見つれど、今は御社もさだかならぬは、あたらしきことなり也」とは書かなかったはずです。
また、「伊勢の佐那縣に座す、佐那乃神社の一座を、當國佐那川内村にうつして」と思っていたようで、その辺りも、仕方ないんですけどね。

後藤氏、最終的にはこの文章中には書かれていませんが、名方の由来は倭武尊命の皇子であり、阿波國造の祖である「長田別命」からの由来であると考えていたようです。
まあ
さてはあれど、おのがみしふみはいささかなれば(己が見し文はいささかなれば)」
と調べた資料の少なさを感じていたようですので、責めるのも心苦しいですね。

個人的には、建御名方彌ノ命の御神名を縮めることは考えにくく、佐那の県ならば、「佐」は狭いの「狭」なので二字にする時でも省略でき、こちらの説が近いと思ってます。
今回はちょっと寄り道ということで。
郷の名と、その處の今の村浦とを、あげつらふこと」は省略します。
関連する記事の時に書くかもしれませんが。

では次回、「阿波國続(後)風土記について(7)」に続くということで。
それにしても、地震が心配ですね。
このシリーズがエンドレスになる事も心配ですけど(笑)


4 件のコメント:

  1. お久しぶりです。
    いつも、拝見させていただいています。
    まだまだ追いつけなくて、ただただ勉強を楽しくさせていただいています。

    このたびの地震、ぐーたら先生はじめ、みなさんのことが
    心配です。

    >それにしても、地震が心配ですね。
    このシリーズがエンドレスになる事も心配ですけど(笑)
     少し、安心いたしました。よかった。

    返信削除
    返信
    1. お返事遅くなりました。
      ご心配ありがとうございます。
      今回の地震は、震度の割に被害が少なかったようです。
      ただ、関西の人間は地震になれていないので、慌てた人が多いようです。
      家は積んでた本が雪崩落ちた程度です(笑)
      いや、平積みしてたボクが悪いんですけどね。
      シリーズはもうちょっとだけ続きます。
      文字ばっかりで面白くないでしょうけど、覗くだけでも覗いて下さい。
      励みになります。

      削除
  2. 大御神は大変喜び、粟、稗、麦、豆を畑の種とし、稲を水田の種とし、その稲種を天狭田(あめのさなだ)と長田(ながた)に植えた。

    の「nagata」「nakata」が原点なんじゃないでしょうかね?
    私も以前は「狭くて長い山間部の田」と解釈してましたけど。

    「佐那」国の田、と、「長(那賀)」国の田、に植えたんでしょう。

    このナカタ・ナガタがそのまま地名に転化し、長の国の一部(北限)だった(と私が解釈している)吉野川河口地域にも使われた、と。

    返信削除
    返信
    1. なるほど
      >「nagata」「nakata」
      ですか。佐那田=狭田というわけですね。
      納得です。
      ただ、長国の北限は鳴門の長邑まで入りませんかね。

      削除