2013年3月19日火曜日

阿波國続(後)風土記について(3)


3月9日(土)阿波古事記研究会より、その3。
前回までは
阿波國続(後)風土記について(1)
阿波國続(後)風土記について(2)
読んでない方は見てから戻ってきてね。
では、恥さらしの3回目を(笑)

かつて、国府町観音寺には「勝間井」なるものがあり、その畔には「正等庵」なる庵があり、一枚の板碑があったと言う。
後藤翁はこう記す。

觀音寺村の舌洗の池といふを勝間井などといへる㕝につきて
此池をかの風土記なる勝間の井なりといへる㕝(こと)は、辨財天・正等庵の縁起に見ゆるぞ、おのが見しはじめなりけり。されどことふみ作りし人の名も、年月もしるされず、また七條(藤原)淸香ぬしの天保十亥年の文あり、その文、板にえりて摺りしものを見たり、されど其文おのれがめには、いかにぞやと見なすところのあなれば、そをいひいでゝ、後の人のかふがへをまたましとて、あげつらふこと左のごとし。もとも名も年月もしるされざるものには、名東郡圖、または、村附舊跡記、抔あり、こは淸香ぬしの文より、後とも前ともうつせしものにあなれば、見わきがたかり。尚つぎつぎたずぬべし。

その板碑は下図のようであったという。
ちなみに大正三年の舌洗い池の写真
平成25年の舌洗い池と説明の看板




七條(藤原)淸香の記す全文に着いては下記....なんですが
ごめんなさい、入力する気力が切れてしまったので画像で......
いわゆる、源義経が屋島に向かう際にこの井の名を村人にたずね、勝間の井と答えたところ、勝間とはよい兆しであると喜び、兵士や馬の口をそそいだとの伝説を紹介しており、元は「したらひの水」であるという話です。
ここが、阿波國(古)風土記に云う「勝間の井」であると書かれております。

この文に対して後藤翁はこう書きます。

そもそも、この淸香といひし人は、いにしへしぬぶ人とは見ながら、其人となりはしらず、世にはあしわざする人もあれば、勝間の井のふるごとを、仙覚大人が万葉集の抄に引用せるにて、めずらしく見いでて、その處をたづねわびしころ、したら井の清けき水と、かの縁起とを見て、おのがたづねわびしころなれば、めづらかには有ながら、かの佛ざまの、例のきたなき處よりいでし縁起などをとりてしるすも、かたはらいたく、さながらすつるもおしく思へられて、かくしらずがほに、少し巻文をかへ、古老にたくして書きしものと、おのれはおもほゆ、いかにあらん、後の人かふがえさだめてよかし。

うわぁ、強烈な一文でありますこと。
この七條淸香(七條文堂)あるいは藤原淸香という人は板野郡七条村字中村馬立の出身で徳島に出て、名医と云われた人だそうです。国学、和歌を京で学び、「阿波國風土記」の「勝間の井」に興味を持ち調べるほどに、この結論に達したようです。
その淸香を後藤氏は
「世にはあしわざする人もあれば」とか「例のきたなき處よりいでし縁起などをとりてしるすも、かたはらいたく」とか、きっついですなぁ。
で、この「例のきたなき處よりいでし縁起」なんですが、後藤翁が探し出してきております。なんで「例のきたなき處よりいでし縁起」なのかが分らないし、読んだ限りでは特におかしな縁起でも無さそうなんですがねぇ。
まあ、この観音寺近辺も後藤氏の管轄であったようでいわば所領内のこと、充分すぎるほど知ってる場所なんで、なにか思うところもあったんでしょう。

すんません、これも転記する気力、体力が失せてしまったので画像にさせて下さい。
「舌洗辨財天縁記(起)」


要は弘仁年中、嵯峨帝の御宇に僧空海がここにどんな旱魃にも涸れることのない井戸を掘り、里人が「渇を」「免れた」ので「渇免(かつま)の井」と呼び、それが「勝間」となったとの大意です。
後は、この地に龍石ありとか、善女龍王を勧請して雨乞いを行なったとか、お決まりの縁起がつらつらと書かれております。
ちょっと気になる箇所もありますが、おおよそは、そんなもんです。
これを見る限りは、古風土記に云う「勝間の井」とは考えづらいところがあり、後藤翁もこれを見て「あーあ」と思ったとか思わなかったとか、ですかね。
どちらにしても、「ここじゃない」と思ったことは確かです。
でも、ここで諦めてはいないんですね。
さらに「勝間の井」が「阿波郡勝命村」にあるとの情報を得ます。
そうですね、勝命村に調査に出かけるのです。

この「勝命村」の「勝間の井」のことは、かの野口年長も知っており、勝命村の隣、大俣村「スケノカタ」にあるのではないかと、考えていたようですが、老齢のため調査に出向くこともできなかったそうです。
この勝命村に勝間の井があるというのは、どうも水戸藩の「大日本史」が出処らしく

香美(今の香美村に、香美原あり、秋月の西南にあり)に勝間井有り。日本武尊、櫛笥を井に遺す、因りて名づく。(仙覚の万葉抄に、阿波風土記を引き、本書に云ふ、俗に櫛笥を謂ひて、勝間と為すと)

とありますが、どこから香美村の名が出てきたのかは不明です。
さあ後藤氏、調査に出かけるのですが、

ごめんなさい「阿波國続(後)風土記について(4)」に続きます。
(ぜんぜん、話が進まんなぁ(涙))

2 件のコメント:

  1. ぐーたら先輩、おもしろいですねえ。
    さすが人口密度が高いと研究者の人間臭さも濃厚。“阿波説”も(九州・畿内に割って入るには)それくらいの勢いが必要かもしれません。
    がんばってください!

    阿波でも「倭健天皇命」とあったというのがまた不思議。阿波の古代史は空海伝説のまだず~っと深層に眠っているわけですね。

    で、阿波市まで飛ぶかぁ。阿波町勝命に比定されているようですが、アイヌ語との関係でこんな話もあるようです:
    http://www.dai3gen.net/kiray.htm

    後藤氏の毒舌(?)の続きを楽しみにしています。

    返信削除
    返信
    1. 忌部公事を調べたときも、そうだったんですが、ひじょーに「人間くさくて」面白いです(笑)
      でもそれが当たり前なんでしょうね。
      隣にいて面白いヤツもいただろうし、なんだこいつってのもいたでしょうね。
      明治の空気が漂ってくるような気がします。
      では、勝命でお会いしましょう(笑)

      削除