2012年10月28日日曜日

津田山 穴観音

皇太子殿下の御行啓で交通規制があり、今日の午前中川内に行く用事があったんですが、新聞の規制予告を見て、合間を縫ってバイパスを走り抜けると言う荒技(笑)を披露してまいりました。
それはさておき、この季節、狸祭りのお陰で(笑)日頃分りにくいお狸様の祠が幟などが立って非常に分りやすくなっております。
だから、というのではありませんが、行けていなかった津田山の麓、四国の狸の総大将「六右衛門大明神」を祀る、また本拠地であった「穴観音城」へ行って参りました。
場所はここ。
津田山霊園の中を通って行きます。

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由来

天保8年(1837年)。阿波の日開野(現・小松島市)で、大木の中に棲んでいる金長(きんちょう)という狸を大勢の者が燻り出そうとしていた。そこを通りかかった染物屋・茂右衛門は金長を哀れに思い、その者たちに金を与えて金長を救った。
しばらく後、茂右衛門の家へ奉公に来ていた万吉という少年が自らを「金長」と名乗り、守り神として店のために尽くすと言い出した。茂右衛門に恩義を感じた金長が万吉に憑いたのであった。以来、茂右衛門の店は良い仕事や良い客に恵まれるようになった。また、仕事で迷うことがあると万吉が助言をし、その内容は必ず正しかった。こうして茂右衛門の店は繁栄し、金長の評判も高まっていった。
何年かがたち、金長は「自分はまだ無位無官の若造」と言い、狸としての位を高めるため、子分の藤の木の鷹(ふじのきのたか)と共に、名東郡津田浦の化け狸・六右衛門(ろくえもん)に弟子入りした。六右衛門は四国の狸の総領であったが、人を化かして物を奪うなどの悪事を働く狸であった。六右衛門は噂に聞く金長の才覚を早くも見抜き、案の定、厳しい修行の最中でその才覚はめきめきと伸びていった。子分の鷹ですら、六右衛門の息子の千住太郎(せんじゅたろう)を上回るほどだった。
六右衛門は密かに金長を恐れ、今の内に身内に加えようと考えた。丁度、六右衛門の娘の小安姫(こやすひめ)が金長に恋焦がれていたこともあって、金長に対し、小安と結婚して自分の養子として跡を継ぎ、千住太郎の後見人になることを勧めた。しかし金長は、茂右衛門への恩を返すまでは他のことに気を使えないとして辞退。殊勝な言い分に六右衛門も反論できず、日開野へ帰っていく金長と鷹を見送るしかなかった。
しかし六右衛門配下の狸は、金長をこのまま帰してはいずれ大きな脅威に育つ、身内に入らないのなら片付けるべきと助言。頷いた六右衛門は数十匹の狸を金長たちのもとへ放った。小安からの報せで闇討ちを知った金長と鷹は追っ手を迎え撃つ。腕に覚えのある金長たちではあったが、2匹では多勢に無勢。鷹は倒れ、かろうじて金長のみが日開野へ逃げ遂せた。
金長は仇討ちのため仲間の狸たちを呼び集めた。早速、鷹の息子たちが父の弔い合戦のために駆けつけ、日頃から六右衛門の非道ぶりを好ましく思っていなかった狸たちも立ち上がった。一方で六右衛門側では、娘の小安が父の闇討ちを非難し、金長が死んだら自分も生きてはいないとまで言ったが、六右衛門はこれを嘲笑。小安は遂に自分の命をもって父を咎めるべく自刃するが、娘の死は金長に対する六右衛門の憎悪を増長させるだけでしかなかった。また金長も自分を愛してくれた小安の死を知り、六右衛門討つべしとの決意を固めた。
勝浦川を挟み、金長軍総勢600匹余り、六右衛門軍総勢600匹余りが対峙した。こうして俗に「阿波狸合戦」と呼ばれる狸の2大勢力の壮絶な戦いが幕を開けた。
勝浦川下流を舞台とし、死闘は3日3晩に及んだ。空に叫び声がこだまし、川の水は血で真っ赤に染まり、川床は狸たちの死体で埋め尽くされた。弔い合戦故に押しの強い金長軍に対し、六右衛門軍は籠城作戦をとった。守りの堅い城を相手に金長軍は手も足も出ないかに見えたが、遂に門を突破し、城内での血みどろの激闘の末、遂に金長は六右衛門を討ち取った。だが金長もまた、刀による致命傷を負った。金長は死力を振り絞って日開野へ帰り、大恩ある茂右衛門に礼を述べ、力尽きた。
これで合戦は終わったかに見えたが、六右衛門の息子・千住太郎が修行先の屋島の禿狸のもとから急遽駆けつけ、敗れ去った六右衛門軍を再召集して日開野へ攻め入ろうとした。金長軍もやむなくこれを迎え討ち、合戦が再開されたが、そこへ屋島の禿狸が仲裁に入り、ようやく合戦は終結を迎えた。
金長は後に、その生き様に心を打たれた日開野の茂右衛門によって正一位金長大明神として祀られた。現在でも金長大明神は小松島市中田町の金長神社に祀られ、崇拝者たちに厚く信仰されている他、各所に狸の銅像が飾られて人々に親しまれている。 wikipediaより


で、ここが「六右衛門狸」の本拠地であった「穴観音城跡」。

おお、ステキなスマイル。


 ここが「穴観音城」の入口。
ここから津田の鼻、水神社まで地下をつながっていると言う伝説もあるようです。
入口を「不動明王」がお守りしております。

 で、この奥に「如意輪観音」様が鎮座しておられますが、お写真は控えさせていただきますので、御参拝の時にお確かめくださいませ。

そしてすぐ脇に「六右衛門大明神」と娘の「鹿の子大明神」がお祀りされております。

 看板の由来書きは狭くて全部写せませんでした。
そして、面白い事に上で書いた「狸合戦」の古戦場跡が残っているのです。
勝浦川の堤防脇にありました。

 この附近で狸合戦が展開され、無数の屍が累々として川床を埋めたとされます。
それがこの辺りです。
この狸合戦の模様は江戸時代(天保)の頃に面白おかしく草子本に書かれたため創作であると言われておりますが、徳島県内に狸の伝承がやたらと多いこと、未だに化かされた等の話が聞かれる事などから、一概に創作だでは済まされない部分も多分にあろうかと思われます。
ただ一般的に言われる「狸」はいわゆる「アナグマ」のことであり、人を化かす「狸」は「狢(むじな)」であることは憶えておいていただきたいなと。
いやぁ、どうでもいいですかね(笑)
(狐の話はどうしたなんて聞かないでね(笑)ちょっと一筋縄では書けません)

4 件のコメント:

  1. 深い“おとぎ話”ですね。
    なにか史実を投影している匂いがプンプンしますね。
    なにかはばかられることがあって擬狸化?

    「ヒトを化かすなんてのはヒトにきまってますよ」と、金長狸もボソッとこぼしていそうな。

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    1. 「狼」が「大神」であるように、「狸」も神格化されようとして「ならなかった何か」であると思います。
      また、小松島の「田左衛門大明神」は北辰一刀流皆伝とも伝えられており「???」の連続となります(笑)
      さらには津田の「楠大明神」佐古の「四輪大明神」はなぜかいなり寿司を祀るのが風習となっているなど、あえて「何か」を狸としたことが見え見えですね。

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  2. サクラサク48692012年10月29日 19:37

    ぐーたらさん、こんばんは。
    このお話は切ないですね。
    疑心暗鬼が生んだ戦い?話し合っていれば避けられたかもしれない戦いだったのかも。
    ・・・なんて・・・思いました。
    金長さんは渋い狸さんですね。
    ジブリは好きなのに、狸合戦ぽんぽこは見ていません。
    見たくなりました。

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    1. そうですね金長は義理堅く、いわゆる「男前」ですね。
      「死して霊魂は長くお家を守らん」
      が臨終の言葉だそうです。
      創作だと言っちゃダメですよ(笑)

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