2012年9月22日土曜日

8月18日「石井古事記研究会」より(4)

すんませんねえ。前回の
8月18日「石井古事記研究会」より(3)
からどんだけ経ってんだよおってなじられても仕方ないくらい間が開いてしまいました。
今もほとんど余力なしの状態なんで、申し訳ありませんが、レジュメからの転記程度でご容赦願いたいと思います。
その代わりと言っては何ですが、後半から研究会の時には口頭でちょっとだけ口走った「櫛の来歴」について資料を出してみますので。

おまけ

天つ罪、国つ罪について

『古事記』や『日本書紀』に記すスサノオ命が高天原で犯した行為に由来するとされるが、全て農耕を妨害する人為的な行為であることから、クニ成立以前の共同体社会以来の犯罪であろうとされる。

畔放(あはなち) - 田に張っている水を、畔を壊すことで流出させ、水田灌漑を妨害することとされ、『古事記』・『日本書紀』にスサノオ命が高天原において天照大神の田に対してこれを行ったと記している

溝埋(みぞうめ) - 田に水を引くために設けた溝を埋めることで水を引けないようにする灌漑妨害で、これも『古事記』・『日本書紀』に記述がある

樋放(ひはなち) - 田に水を引くために設けた管を壊すことで水を引けないようにする灌漑妨害で、『日本書紀』に記述がある

頻播(しきまき) - 他の人が種を蒔いた所に重ねて種を蒔いて作物の生長を妨げること(種を蒔く事で耕作権を奪うこととする説もある)で、『日本書紀』に記される

串刺(くしさし) - 『日本書紀』には、その起源をスサノオ命が高天原において天照大神の田を妬んでこれを行ったと記しているが、その目的は収穫時に他人の田畑に自分の土地であることを示す杭を立てて横領すること、とする他に、他人の田畑に呪いを込めた串を刺すことでその所有者に害を及ぼす(または近寄れないようにした上で横領する)という呪詛説、田の中に多くの串を隠し立てて所有者の足を傷つける傷害説、家畜に串を刺して殺す家畜殺傷説の3説がある

生剥(いきはぎ) - 馬の皮を生きながら剥ぐこととされ、『日本書紀』にスサノオ命が天照大神が神に献上する服を織っている殿内に天斑駒(あまのふちこま)を生剥にして投げ入れたとその起源を記していることから、神事(ないしはその準備)の神聖性を侵犯するものとされるが、本来は単に家畜の皮を剥いで殺傷することとの説もある

逆剥(さかはぎ) - 馬の皮を尻の方から剥ぐこととされ、『古事記』『日本書紀』に生剥と同じ起源を記していることから、これも神事の神聖性を侵犯するものとされるが、本来は単に家畜を殺傷することとの説があるのも同様である

糞戸(くそへ) - 『古事記』『日本書紀』にはスサノオ命が高天原において天照大神が大嘗祭(または新嘗祭)を斎行する神殿に脱糞したのが起源であると記していることから、これも神事に際して祭場を糞などの汚物で汚すこととされるが、また「くそと」と読み、「と」は祝詞(のりと)の「と」と同じく呪的行為を指すとして、本来は肥料としての糞尿に呪いをかけて作物に害を与える行為であるとの説もある

国つ罪

国つ罪は病気・災害を含み、現在の観念では「罪」に当たらないものもある点に特徴があるが、一説に天変地異を人が罪を犯したことによって起こる現象と把え、人間が疵を負ったり疾患を被る(またこれによって死に至る)事や不適切な性的関係を結ぶ事によって、その人物の体から穢れが発生し、ひいては天変地異を引き起こす事になるためであると説明する。またその中のいくつかには、天武天皇朝における薬師如来信仰がその背景にあったと指摘されている。すなわち、天武天皇朝に薬師信仰が存したことは『日本書紀』に記載を見るが、薬師信仰の一つには病気や災害を取り除くといった現世利益的な目的があり、そのために『薬師如来本願功徳経』(『薬師経』)の語句から採用されたものもあるのではないかとの指摘である。

生膚断(いきはだたち) - 生きている人の肌に傷をつけることで、所謂傷害罪に相当する

死膚断(しにはだたち) - 直接的解釈では、死んだ人の肌に傷をつけることで、現在の死体損壊罪に相当し、その目的は何らかの呪的行為にあるとされるが、また前項の生膚断が肌を傷つけられた被害者がまだ生存しているのに対し、被害者を傷つけて死に至らしめる、所謂傷害致死罪に相当するとの説もある

白人(しらひと) - 肌の色が白くなる病気で、「白癩(びゃくらい・しらはたけ)」とも呼ばれ、所謂ハンセン病の1種とされるが、これが国津罪の一として現れるについては、『薬師経』に薬師如来が菩薩行を行った時に12の大願を起こし、その6番目で人間の様々な病患も薬師如来の名前を聞けば全て取り除かれるであろうと説き、その病患の具体例を「其身下劣、諸根不具、醜陋頑愚、聾盲跋躄、身攣背傴、白癩癲狂、」と挙げており、ここに挙げられた「白癩」が相当するとの説がある

胡久美(こくみ) - 背中に大きな瘤ができること(所謂せむし)で、上記『薬師経』の「身攣背傴」に由来するとの説がある

己(おの)が母犯せる罪 - 実母との相姦(近親相姦)
己が子犯せる罪 - 実子との相姦
母と子と犯せる罪 - ある女と性交し、その後その娘と相姦すること
子と母と犯せる罪 - ある女と性交し、その後その母と相姦すること(以上4罪は『古事記』仲哀天皇段に「上通下通婚(おやこたわけ)」として総括されており、修辞技法として分化されているだけで、意味上の相違はないとの説もある)

畜犯せる罪 - 獣姦のことで、『古事記』仲哀天皇段には「馬婚(うまたわけ)」、「牛婚(うしたわけ)」、「鶏婚(とりたわけ)」、「犬婚(いぬたわけ)」と細分化されている

昆虫(はうむし)の災 - 地面を這う昆虫(毒蛇やムカデ、サソリなど)による災難であるが、『薬師経』に「悪象・師子・虎狼・熊羆・毒蛇・悪蝎・蜈蚣・蚰蜒、如是等怖」も薬師如来に祈れば取り除かれるであろうと説いており、ここに挙げられた「毒蛇」以下が相当するとの説もある

高つ神の災 - 落雷などの天災とされるが、『薬師経』の影響を勘案して、『薬師経』にある「夜叉・羅刹・毘舎闍等、諸悪鬼神」を踏まえた広い意味での悪神による災害とする説もある

高つ鳥の災 - 大殿祭(おおとのほがい)の祝詞には「飛ぶ鳥の災」とあり、猛禽類による家屋損傷などの災難とされるが、これも『薬師経』に「怪鳥来集」とあるのが基になったものとの説がある

畜仆し(けものたおし)、蠱物(まじもの)する罪 - 家畜を殺し、その屍体で他人を呪う蠱道(こどう)のことであるが、これも『薬師経』に薬師如来の力で人々の悪行が全て消滅するであろうと説いている中の、「告林神・樹神・山神・塚神・種々別神、殺諸畜生、取其血肉、祭祀一切夜叉羅刹食血肉者、書怨人字、并作其形、成就種々毒害呪術・厭魅蠱道・起屍鬼呪、欲断彼命、及壊其身」の句、特に「殺諸畜生」以下が基になったものとの説もある

なお、『日本書紀』神功皇后摂政元年2月の条にある「阿豆那比(あずない)の罪」(2社の神官を一緒に埋葬すること)もこれに准じるものである。また、『皇太神宮儀式帳』には川入(川に入って溺死すること)・火焼(火によって焼死する事)を国つ罪に追加しているが、この2項も『薬師経』の9つの横死を述べる箇所に、第4は火に焼かれること、第5は水に溺れることとあり、薬師信仰との関連が指摘できる。
wikipediaより

この、阿豆那比(あずない)の罪」(2社の神官を一緒に埋葬すること)
について坂東一男氏は「狐の帰る國」でこう語る。

神功皇后の項では、皇后、紀伊国日高より小竹の宮に移られた際、丁度夜のような暗さになって何日も続いたので、この変事は何事のせいであろうかと尋ねると、一人の翁が「これは「阿豆那比の罪だ」と言い、更に「どういうわけか」と尋ねると、「二つの神社の祝人を一緒に葬してあるからでしょうか」と言った。

中略

そこでひつぎを改めてそれぞれ別の所に埋めた。すると、日の光が輝いて昼と夜の区別ができた。

中略

阿豆那比の罪というのは子供っぽい、とか、幼稚な、と言われる阿波弁であって、小竹の宮は葛城の曽都比古と言われ、伊弉諾尊より生まれし三貴人の内、右の目に当たる祭神月讀命を祭る所であり、同じく天野と言われる所は、左の目に当たる大日霊女命、即ち、太陽を祭る日浦である事が、すぐ考えられるからである。




そして櫛についてちょっとだけ話そうと思ったんですが、資料の用意が無く、ぐだぐだになってしまった事をお詫びするとともに改めて「櫛の来歴説」をご紹介いたします。
あくまで「一説」である事を念頭に置いてお読みください。
ワタクシも、この説の全てに賛同するものではございませんが、いままで考えていた事について一つの道筋が現れた様な感は受けます。

 縄文前期から晩期まで日本各地から出土した漆塗りの品を点検してみると、漆塗りの櫛が非常 に多い。すなわち、日本では漆の起源が櫛と密接にかかわっているように思われる。和語では、 櫛のことを「くし」という。「くし」はもちろん名詞であるが、それと一音の差で「くす」とい う動詞もある。そして、和語の品詞変化規則から考えれば、この「くす」は「くし」の動詞形だ と思われる。「くす」の当て字は「越」で「越す」と表記されるが、同じ表記を持つ言葉にはま た「こす」という動詞がある。音韻上「く」と「こ」が音転関係にある。若狭湾には「塩坂越」 という地名があり、「しゃくし」と発音されている。漢字表記と結びつけて考えると、「しゃく し」は「しおこし」の音転にちがいない。「く」と「こ」は互いに音を転じることができるとい うことから、「くす」と「こす」はもともと同一語であった可能性がある。そうだとすれば、そ れぞれの名詞形「くし」と「こし」も当然通じることになり、「こし(越)」という地名はそも そも「くし(櫛)」との関連で出来たのではないかと推測される

中略


古越族は、東シナ海の大陸棚に生活していた。しか し、13000年ほど前、地球温暖化がもたらしたammonia海進によって古越族が分かれてしまい、 中国大陸の長江下流域に移転していった人びとは「内越」となり、日本列島に上陸した人びとは「外越」となった。

確かに12000〜13000年前に相当な海進があった事は確認されており、有名な所で「スンダランド」を挙げることができます。


スンダランドとは、現在タイの中央を流れるチャオプラヤー川が
氷河期に形成した広大な沖積平野である。
氷河期に、海面が100メートル程度低くなり広大な平野であった。
紀元前12000年頃から紀元前4000年にかけて約8000年間にわたる海面上昇により海底に没した。

同時期「東シナ海の大陸棚に生活していた」中国の古越族は
下の「国立科学博物館」作成の地図にもあるように陸地であった東シナ海の大陸棚に住んでいて、日本とは自由に行き来していたと考えられます。
上の地図では日本と大陸はつながっていないように見えますが、以前に出した2万年前の海岸線地図を併せて見ると、12000〜13000年前においても地続きであってもおかしくないと考えます。
さて、この東シナ海の大陸棚に住んでいたと考えられる「古越族」から大陸の長江下流域へ別れた「内越族」、櫛を飾る悠久な歴史があり、馬家浜遺跡から出土した象牙の櫛や良 渚遺跡から出土した60件以上の「玉梳背」、角を連想させる28件の三叉形髪飾りなどがその証拠 である。

(もう一回だけ)続く
あかんわ、体力ゼロだわ(涙)


9 件のコメント:

  1. なるほど、スンダランドからの流入ですね。
    日本人のDNA解析で黄河流域と同じくらい一般的だという南アジアの起源として理解できます。

    そういえば近親相姦への嫌悪があふれている部分、いまも中国南部の山間部には一妻多夫があることを思い出しました。

    Wikipedia によれば:
    チベット、インドの南の一部の地方、ナイジェリア、ネパール、ブータン、スリランカ、北極圏の一部、モンゴル地方、アフリカとアメリカ州の先住民、ポリネシアの複数の共同体で、伝統的な制度として現在でも存続している。実態は一妻多夫というよりは多夫多妻、いわゆる集団婚と言ったほうが正確な地域もある。

    天孫族のほうが新しい制度をもたらしたと考えたほうがいいのかもしれませんね。

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    1. スンダランドというか東シナ海近辺ですね。
      さて、ここから紀元前数世紀ごろまで持って行きたいのですが
      そこらは力技になりそうなんで、そこまでの体力があるかどうか(笑)
      でも、ちょっと面白くなりますよ。
      (期待はしないでね)

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  2. 期待しています!

    縄文~弥生~古墳 と、さらりと言って終わる文明の流れ。
    邪馬台国の実態。
    そんな、避けて通れない問題をほどく糸口でしょうから。

    ミトコンドリアやY遺伝子のDNA鑑定で日本人のルーツが
    生物学的には明らかになりつつあるといいます。
    文明としての説明も、あと一歩ですね。

    天つ罪は棚田(南アジア)の民族のものと、もしかすると北方
    騎馬民族(北アジア?)の戒律のブレンド。
    国つ罪は肌にこだわっていることから、入墨文化のあった民族
    のもの。
    これら異民族の融合の証拠という仮説も成り立ちますか。

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    1. その
      >異民族の融合
      をどこまで解けるかという事ですね(笑)
      個人的に想定している民族は4、5ありますが、なかなか文字にできる所まで行きません。
      でも、その一つが(以下略)
      (笑)

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  3. その融合の結果~証拠が我々自身なのに、ルーツが解らないというのは、考えようによってはずいぶん苦しい事態ではないでしょうか。
    出生の秘密に気づいた主人公が、僕のお父さんとお母さんは誰?といって旅立つドラマのような。

    のらねこ先輩のように「顔を見ればわかる」という方法はどうでしょう…。
    顔が似ているからといって「僕はあの人の子?」なんて考え出すと神経症になるかな。

    ただ、複数の民族の融合(による優勢遺伝)が日本人を優秀な民族にしたのだという仮定が、この頃は確信になりつつあります。
    だから、どんどん書いてください (^'^)

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    1. ルーツが分らないと言うか、確たるルーツは無いと思うんですよ。

      http://goutara.blogspot.jp/2011/04/blog-post.html

      この後半に書いたように、複数民族が瓶の中で純粋培養されたんでしょう。
      そして、その結果は他からの引用ですが



      日本文化は身内受けの凝り性文化

      外国文化に負けまいとしているのではなく、
      世に意図的にインパクトを与えようとしているのでもなく、
      今ここにいる同じ価値観を共有する仲間からの喝采を浴びたいと考える。
      その結果、同じものを志す者同士の「これすごいだろ、おもしろいだろ」合戦が始まり、
      そこで生み出される物が自然と研ぎ澄まされていく。
      でもその競争は、敵対的なものではなく、お互いを尊敬しあいながら、静かに深く進行していく。

      そしてある日、偶然目撃した異文化出身の人間(外国人)から、
      それがすごいものであることを知らされる。
      ほとんどの日本人はその日が来るまで、自分たちが作り上げた物がすごいものとは知らない。
      もろもろの伝統文化、芸能、電化製品、アニメ、他、みんな同じパターンで世界に広まっていった。
      だから、日本がここまで発展してきたのも必然的なものだし、
      この精神が衰えない限り、これからも日本は誰に頼まれることもなく、
      知らないうちに勝手に世界にインパクトを与え続けていくだろうと。


      と言う事ですね。
      さて続きを頑張りますか(笑)

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  4. おもしろいですね。
    ほんと、そういう感じで職人技が磨かれていった感じですね。
    もちろん静かな競争があったにしても、負けたら根絶やしにされるような“外国”を意識しなくてもよかった島国の特徴、でしょうか。

    その調子で古代阿波王朝説を内輪で磨いていきましょう。

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  5. 鳴門の土人2013年7月3日 12:01

    スンダランドから日本列島に向かった沖縄の港川人はトカラ海峡を渡れなかったらしいです。海面が上昇して交流が途絶えると1万年前くらいには遺跡が見つからない時代になるそうです。
    氷河期の対馬海峡・朝鮮海峡はかなり狭くなっていたか陸続きになっていたかもしれないそうです。
    宗谷海峡は陸続きになっていてマンモスや大型の哺乳類を狩猟していた人たちが移動してきたそうです。
    この人々を基礎にして交流のあった人たちが混血して縄文人を形成していったのでしょうね。
    弥生時代は長江下流域から水稲栽培が伝わったことから始まります。
    揚子江中下流域の稲作栽培漁労民族が黄河流域の畑作栽培狩猟民族によって滅ぼされたことにより大量発生した難民の一部が西日本や朝鮮半島の南部にやってきて土着の民族と混血して弥生人や伽耶人を形成していったようです。
    朝鮮半島では稲作栽培漁労民族が作った国が北方の騎馬民族によって滅ぼされたことによって発生した難民が渡来人として日本列島にやってきたようです。
    このように多くの難民を受け入れることによって日本人が形成される過程をぐーたらさんやのらねこさんがわかりやすく解説してくださるのを楽しみに待っています。

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    1. そうですね、スンダランドからの流入は考えにくいように思います。
      東シナ海の大陸棚に生活していた古越族の移住は、まだ書いてませんが間違いないかなと思ってます。
      その他、いくつかの民族の移入は想定しておりますので、おいおい書こうかなと思ってます。

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