最近、美馬近辺の説明をする機会があったんですが。
場所柄もあってそれはもう、しどろもどろ(笑)。
多分10%も説明できなかったかな・・・と反省して当記事を認めてみました。
これでもわかんないっっって言われそうですけど(泣)。
で「阿波三国説」なんですが、もしかしたらコレ言っちゃ行けない説かもしれないというところで、静かに潜航して参ります。
「阿波三国説」とは簡単に言えば上古阿波国は「粟」「長」国に別れていたのが「阿波」となったんですが、その二国以外に「もう一つの」国があったのではないかと言う説です。
その本拠地が「麻植」もしくは「美馬」と言うわけです。
それを古墳の分布等から見れば
忌部部族と古墳
美馬郡を中心とする阿波郡、麻植郡にかけて約20キロの吉野川沿岸に見られる、一つの型式を持つ石室の構造、それは天井石を前後に持ち送ったドーム式の天井であり、側壁を左右に持ち送った胴張りの平面であり、それらの天井、平面の横穴式石室古墳の築造方法が存在している。
この型の古墳を築造した古代氏族の族名については諸説まちまちである。昭和57年1月12日に徳島県文化財研修会(徳島県教育研究センター)に於て秋山泰氏は、美馬郡美馬町の段の塚穴及び野村八幡古墳の築造部族は佐伯直(さへきのあたい)であろうと発表された。
また故笠井新也氏は粟国造(くにのみやつこ)家の物としては、やや西偏しすぎるので、阿波国は那賀川流域と海岸地方を合わせた長の国と、吉野川流域の粟の国の他に、美馬郡、三好郡を一国として、そこを支配した豪族が存在したと説き、阿波三国説を提唱された。
しかし、その部族の名は挙げていない。
阿波学会研究紀要
徳島県博物館紀要
これもちょっと見にくいのですが「段の塚穴型石室」と「忌部山方石室」の分布が美馬と麻植とではっきりと分かれていることがわかります。
あ、こっちがいいかな。
なお、若干の説明を付け加えれば
美馬町周辺には,段ノ塚穴と同じ方式で築造された古墳が数多く分布している。これを段ノ塚穴型石室と呼ぶ(天羽1973)。つまり,太鼓張りまたは末広がりの平面プランに天井石を斜めに持ち送り,いわゆる穹窿式の天井を構成するという特徴を持つ。
これは,より高く,より広い空間を得るためにとられた構築技法である。この段ノ塚穴型石室は,徳島県内はもちろん他に例をみない。類例としては,結晶片岩という同じ石材を使う和歌山県紀ノ川流域の岩橋千塚(末永1967)や九州の肥後型石室(柳沢1980・古城2007)などにみられる。より高い空間を得ようという発想は同じだが,天井石を持ち送るという構築技法はどこにもみられない。
阿波学会紀要
和歌山県紀ノ川流域の岩橋千塚(末永1967)を類例としておりますが
和歌山県岩橋千塚との関連も注目されてきたが、決定的相違点もみられる。つまり、天井を前後から、側壁を左右から持ち送り、いわゆる弯薩式の天井を構築し、平面プランが胴張り又は末広がりを呈する横穴式石室である。
という話もあり、まあ「類例を見ない」としていいんじゃないでしょうか。
この辺りから「阿波三国説」が出てきたわけなんですが、段の塚穴古墳群の最終未と考えている江ノ脇古墳は、7世紀前半にまで下るそうでして、これが「郡里廃寺」につながっていくのですね。
吉野川の北岸、扇状地上に営まれた白鳳時代創立の寺院跡である。早くから立光寺跡として知られていたものであり、調査の結果法起寺式伽藍配置をとるものであることが判明した。塔跡基壇は各辺12メートルをはかり、塔軸部初重の1辺は中の間が2.3メートル、両脇間はそれぞれ2.08メートルと復原することができる。塔心礎は旧地表下に据えたものであり、中央に径13センチ、深さ6.5センチの舎利孔が穿たれている。心礎上に据えた心柱は、南北径1.06メートル、東西径1.08メートルをはかる不整八角形を呈し、心柱四周を根巻板で囲むことが知られた。金堂跡は東西18メートル、南北15メートル前後と復原される。塔、金堂間の心を東西に47メートルへだてた位置に石敷列が走り、その下方に土塁を発見しており、また塔、金堂心より南北に60メートルをへだてた位置で同様な遺構を発見し、寺域をほぼ知ることができる。
現段階では徳島県下最古の寺院の一つとして、また、遺構をよくとどめている寺院跡として、きわめて重要な寺院といえるであろう。
文化遺産オンライン
あ、10月何日やらにいったときは公園としての整備工事中でしたので、案内看板等はありませんでした。
最近目が見えなくて、長い記事が書けなくなってきたんで一旦ここまでで続きます。
次が(中)か(下)かは未定(笑)。
そんなにお待たせはしないと・・お・・・も・・・・う(かな)。
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