忌部神社遷座考(1)
忌部神社遷座考(2)を、先に読んでくださいませ。
前回は寛政十三年(1801)郡奉行の稲田武七郎、手代の三木名七が惣代と面談
し、中川式部を神主と認めれば山崎村忌部神社を旧態造営し朝廷へも奏上する
旨の調停案を示しましたが惣代らは当然納得せず郡奉行は引き下がります。
その後、郡奉行より中川式部廃職の申し付けがあり、忌部公事は一応の解決を
見る。
見る。
まで書きました。
後日談として、竹次郎こと麻生織之進は決着の2年前、寛政十一年(1799)八月
身罷って(みまかって)おります。
ということは山崎へは帰らなかった(帰れなかった)という事でしょう。
また子息孝義(たかよし)は天保四年(1833)京都で身罷ったとの記録が
あるようなので、やはり山崎へは帰っておりません。
そして、孝義(たかよし)の養子となった正親は文政九年(1826)名を佐渡とします。
そうです、
「後、文政九年(1826)二宮佐渡が山崎村の神主として迎えられた」
と書いた「二宮佐渡」はこの正親です。
ようやくにして村雲勝太夫と竹次郎、山崎村民の願いは三代目という形で叶えられた訳ですが、
この二宮佐渡、翌年の文政十年(1827)二月に亡くなっています。三十九歳だったという事です。
この二宮佐渡、翌年の文政十年(1827)二月に亡くなっています。三十九歳だったという事です。
さらに正親の子秀俊は、幼名志津馬といい、父の死亡時十歳で神職は勤められなかったはずですが、
天保十年(1830)志摩と改名しているので、この時跡目を継いだのでしょう。
天保十年(1830)志摩と改名しているので、この時跡目を継いだのでしょう。
嘉永三年(1850)には従五位下河内守となっているそうです。
さて、ようやく話は明治に入ります。
1815年(明治4)、全国の神社を対象とした社格制度が発足し、神社改めが
行われました。
行われました。
徳島県では忌部神社が国幣中社として扱われる事となったのですが、前回まで
にも書いたように正式には所在が不明です。
にも書いたように正式には所在が不明です。
候補としては川田種穂神社・宮島村(川島町)八幡宮・西麻植村中内明神・上浦村斎明神・
牛島村大宮等が挙げられていましたが、阿波藩より国の官吏となっていた
小杉榲邨(こすぎすぎむら)は明治七年二月二日、建言書において山崎忌部
神社が妥当であるとしました。
牛島村大宮等が挙げられていましたが、阿波藩より国の官吏となっていた
小杉榲邨(こすぎすぎむら)は明治七年二月二日、建言書において山崎忌部
神社が妥当であるとしました。
当ブログを読んでいただいている方はご存知でしょうが、
明治二年(1869)阿波藩は新政府の「修史の詔」による正史編纂事業の開始を声明を受け
明治天皇の勅命として正史編纂プロジェクトを発足させました。
明治天皇の勅命として正史編纂プロジェクトを発足させました。
これが、「阿波国風土記編輯御用掛」で、その中心となっていたのが小杉榲邨です。
(やっと宣伝できたよ〜。ずっと更新できてないんでアクセス減ってます。ちなみに追加する
ネタはちょっとだけあるんですけどね。後藤家文書とか....)
ネタはちょっとだけあるんですけどね。後藤家文書とか....)
建言書の画像です。
要旨としては
1.山崎村忌部絵神社は、今、王子神社と呼んでいるが、本殿は二社で王子神社と
天日鷲命(あまのひわしのみこと)社と並んでいる。
2.此の日鷲神社は忌部山の頂上にあったが応永の頃(1394~1428)地震のため
土砂崩れで現在の地に移設したと言い伝えられる。
御供田、其址古器もあるがそれは信じがたいが、旧地がある。
3.四至立石(しいしたていし)当地では四方詰の石といっている。屋敷や所領
の境界を定める石でこれがある。
4.木屋平村三ツ木三木貞太郎所有の古文書。正慶元年(1332)十一月氏人
十三名の契約書がある。
5.木屋平村三木家は忌部氏人の子孫で、天皇即位の時行われる大嘗祭には
御衣御殿人(みそみあらかんど)として麁服(あらたえ)を織進した家柄で
あり、忌部神社と深い因縁がある。
6.山崎村に忌部市といって、古来より毎年二月九日、九月二十三日市が立つ
時、三木家は五里余の道を遠しとせず忌部社に参詣している。
これ御衣御殿人(みそみあらかんど)十三人の契約に基づくものであろう。
などです。
ちょっと先走りますが、この後、貞光村との正蹟争いに発展した時の山崎側の
基本的な考え方が上の通りです。
基本的な考え方が上の通りです。
ここで一つだけ出しておきたい資料がこれです。
小杉榲邨の師である池辺真榛が著した「古語拾遺新註」です。
忌部神社の正蹟についてはこう書かれています。
阿波國忌部祖也、神名帳に阿波ノ國麻殖郡忌部ノ神社(名神大月新嘗、或ハ號ス麻殖神、
或ハ天ノ日鷲神社)と見え、和名抄に麻殖郡の郷名に忌部(伊無倍(イムベ))と見ゆ
此レこの神を祭れる社、また其氏人の住し郷名なるを、中古の亂世に二ノながらあらけ
失て、何地(いずこ)をはかとも定めがたくぞなりにける。
(今ノ世は麻殖ノ郡川田村棚穂ノ社に合せ祭り奉れる故、世ノ人多くは棚穂ノ社即チ忌部
ノ神社なりとおもへれど、彼ノ社は正殿伊弉諾伊弉冉二神を祭れる由なれば、もとより
別社なり。
簡潔にして種穂忌部神社を否定しています。
そして、面白いのが「四至立石(しいしたていし)」につき発見の模様が書かれています。
発見したのが、かの「野口年長」!
「阿波国風土記編輯御用掛」主要メンバーの一人です。
この「野口年長」が嘉永三年(1850)山崎村を調査した時に発見しています。
どうゆう経緯で調査したかは書かれていませんが、徳島藩校であった長久館よりの出仕
かな?と思ったり。(ここらは自信ありません)
で、その部分を転記します。
かくて、年長彼ノ村に往し時、彼ノ黒岩と云ふなる舊社地を巡り察けるに甚不審く
(いといぶかしく)巨大なる建石を見出せり、其ノ數四本にして四方にあり。
(其ノ中に辰巳隅に建てるは、殊に大にして、一丈餘もあり、又戊亥隅なるも大かた
おなじ、是は畠中に建チてたれもよく見知りたり)孰レも巨石にして、更に人造のもの
とは見えざる如くなれば、此は必ず方域の境界をしめす榜示ならむと思はれける故、
村長に就て、何の料に設し石なるやと問れしを、村長もいかなる事とも知らす。
年長云、若シくは此ノ石、類聚神祇本源に載たる寳龜二年太政官符に見えたる大社四方の
榜示ならむも計りがたし。
(類聚神祇本源の引用部分は略す)
量りたらむには知らるべしとて、後チに其ノ社の神主麻生氏をたのみて量らしたるに、
東西十一町、南北ニ七町許(ばかり)ありとて、繪圖(えず)に記しておこせたるを
見れば、案(おも)ひしがごと、大凡(およそ)大社の例、四至九町の制に合(かな)
へり。
これは、凄いですねぇ。村長も知らなかったのを「類聚神祇本源」の記載を基にして
測ってみるとぴったりという、シュリーマンもびっくりでしょう。
さて、脇道にそれてしまいましたが、全てパズルの一コマです。
ちょっと長くなりすぎたのと、続きがまた錯綜、そして二転三転の議論で
こんがらがってますので、整理して出直します。
では次回で。
(なんか、フォントが変なのがなおらないよぉ)
いゃ~目が覚めました(●^o^●)♪
返信削除朝から活力が湧いてきました(*^^)v
山崎村の忌部市、かつて木屋平の三木家へは山崎(山川町山瀬)から美郷を経由するのが正規ルートでした♪
昔は尾根を通った山越えルートが最短・最速だったようです。
昔の人は健脚ですよネェ・・・。
この前、高越山に登って「天狗」のような方を見かけました!
今日は「高越登山マップ」の作成作業です♪
(*^。^*)♪
to すえドン さん
返信削除>昔の人は健脚ですよネェ・・・。
ほんとにそうですね。現在の基準で行動範囲を考えるととんでもない事になると思います。今で数日の行程が、当時は半日とか一日だったかもしれませんね。
これは水行でも同じでしょうね。
私には難しい内容ですが、何回も読み直して頭に入れました(笑)ワクワクしてきます♪♪
返信削除本当に皆さんのブログを拝見すると、行きたいところが
いっぱいになってきて、1回の人生では周りきれません!
次回も楽しみにしてます。
to 電話番のフー さん
返信削除今回は説明部分が少なくてすいません。
どうも、先を急いでしまってます。
ぜひぜひ最後までお付き合いください。
だって....
ふっふっふっ(キモッ)