仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(1)
仮説「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の帰還」(2)
を読んでからの方がいいような気もしますが、気が向いたらでも結構です(笑)。
さて、今回も脈絡なく「魏志倭人伝」の引用から始めます。
言わずと知れた「卑弥呼」大夫難升米等を遣わし、朝献させた部分です。
景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。 その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。汝がある所遥かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮綬せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。
汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。今、絳地交竜錦五匹・絳地スウ粟ケイ十張・セン絳五十匹・紺青五十匹を以て汝が献ずる所の貢直に答う。また、特に汝に紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張・白絹五十匹.金八両・五尺刀二口・銅鏡百牧・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。
正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詣を齎し、金帛・錦ケイ・刀・鏡・サイ物を賜う。倭王、使に因って上表し、詣恩を答謝す。
その四年、倭王、また使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青ケン・緜衣・帛布・丹・木? ・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壱拝す。その6年、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、 郡に付して仮授せしむ。
その8年、太守王キ官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。
卑弥呼以て死す。大いにチョウを作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。
更更相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。政等、檄を以て壱与を告喩す。
壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。
この部分で始めて「卑弥呼」の名前が中国の国史に出てくるのですが、これが景初二年六月ということで西暦ならば238年のこと。
この「卑弥呼」の正体(笑)についてはご存知の通りいくつもの説があり、いくつかを列挙すれば
1. 天照大御神説
2. 神功皇后説
3. 倭迹迹日百襲姫命説
4. 倭姫説
5. 甕依姫説
6. 卑弥呼機関説
7. 九州の巫女王説
8. 出雲族説
9. 外国人説
「ここまでわかった! 卑弥呼の正体」(新人物文庫)より。
などがあるようです。
詳しい説明を書く余裕もありませんが「神功皇后説」などは年代の操作がない限り時代が合いません。
そこで、朝鮮半島の歴史を記した酷暑である「三国史記」の「新羅本記」を参照すれば、この景初二年六月(西暦239年)に遡ること65年「卑弥呼」の記載が現れているのです。
阿達羅尼師今二十年(173年)五月
「二十年五月倭女王卑弥呼遣使来聘」
これはどういうことなのでしょうか?
卑弥呼が65歳以上80歳とか90歳とかの高齢を保って、倭国王の地位を守っていたのでしょうか?
誰でもそうじゃないと思いますよね、真っ当に考えれば「卑弥呼」というのは一人の人間のことではなく倭国女王の地位であるとか、階位、あるいは尊称であった可能性が高いのではないでしょうか。
もう一点「魏志倭人伝」に下記の記載があります。
その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。
「名付けて卑弥呼という」、解説するまでもなく「卑弥呼」と「名付けられた」のです。
つまり卑弥呼は一人ではなく世襲によって受け継がれてきた地位であることが言いたいのです。
そして
卑弥呼以て死す。大いにチョウを作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。
更更相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。政等、檄を以て壱与を告喩す。
とありますように、男王をはさんでおりますが、先代卑弥呼と次代卑弥呼(壱与:実は「トヨ」が正式なんですが一般的に書かれているケースが多い「壱与」をここでは使います)との間で王位の継承があった、少なくとも次代が女性であったとの記録が欲しいと思います。
その点で言えば「倭迹迹日百襲姫命」「倭姫」などはちょっと疑問に思えてくるのです。
「天照大御神説」について言えば、「天照大御神」というのが尊称であるという前提に立てば「あり」ではないでしょうか。王位の継承は誰にされたのかと問われれば
「宮中八神殿」で書かせてもらいました「大宮売神(おおみやのめのかみ)」と答えさせていただきましょう。
ただ「大宮売神」というだけでは全く具体性に欠けますので、もう少し具体的な名を出してみれば、例によって(何がwww)勘注系図(海部氏系図)を出してみたいと思います。
海部氏勘注系図は上図(一部)のように系図が縦長に延々と続いており、原本も一部しか公開されておりませんが、手書きの系図を見ること、甚だしく困難なので、翻刻図(神道体系より)を使用させていただきます。
が、前提としてもう一点(いや二点)を挙げておきますので、ここは注意しておいてください(テストには出ませんけどwww)
636年に成立した『梁書(りょうしょ)』は
『復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王、並受中國爵命』
とする。
臺與が王位に立てられた後、男王が立ち、中国王朝の爵位を受けたという記述です。
また801年成立の『通典(つうてん)』でも
『立其宗女臺輿爲王。其後復立男王、並受中國爵命。晉武帝太始初、遣使重譯入貢』
として同様な記述を残しております。
「晉武帝太始初」頃のことであるから泰始元年から二年(西暦265年から266年)頃に、男王が臺與と一緒に西晋の爵位を受けたと見えます。
ちょっと長くなりすぎたので、続く....
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