2024年8月17日土曜日

おいのこさん考

なんの脈絡もなくとーとつに記事の投稿などしてみますね(笑)。
 
いわゆる「おいのこさん」と呼ばれる行事がありますです。

毎年十月最初の亥の日に行われ、阿波においては里芋の茎(ずき)を藁束で包み、細い縄で巻いた藁ぼてを子供たちが搗いてまわります。昭和十年ごろまでは行われておりましたが、それ以降は廃れておりますです。

「わらぼて」

亥の子(いのこ)は、旧暦10月(亥の月)の上の(上旬の、すなわち、最初の)亥の日のこと、あるいは、その日に行われる年中行事である。玄猪、亥の子の祝い、亥の子祭りとも。

主に西日本で見られる。行事の内容としては、亥の子餅を作って食べ万病除去・子孫繁栄を祈る、子供たちが地区の家の前で地面を搗(つ)いて回る、などがある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 徳島県内では2016年、貞光町で行われたYouTUBE動画が残っています。


上の動画は「わらぼて」で搗くのではなく「石づき」でおこなっています。美馬町脇町、古作の記録ではこれを「亥の子石」と呼び、祠の御神体として祀っていたそうです。

で、このときに歌われる「おいのこの歌」なんですが、全国ベースでいくつか紹介いたしますと。

【岡山県津山市西吉田地区】

亥の子 亥の子 亥の子の夜さ 
祝(いお)うた人は 四方の角(すみ)に 
蔵建て並べて 
福の神 どし込め どし込め 
上山様祝うぞ わい 

 上記は、家人が出てきて祝った場合の歌で、
 下記は、家人が不在等で祝わなかった場合の歌。

亥の子 亥の子 亥の子の夜さ 
祝わん者は 鬼生め蛇生め 
角が生えた子生め 
じじいとばばあ どし込め どし込め

【広島県福山市・新市町金名地区】

亥の子の宵(えー)に祝わんものは 鬼産め 蛇産め 角のはえた子産め (せんせんせんよ)
一つ 鵯は 栴檀の実を 祝え (せんせんせんよ)
二つ 鮒子は 水の底 祝え (せんせんせんよ)
三つ 蚯蚓は 土の底 祝え (せんせんせんよ)
四つ 嫁御は 姑の髪 祝え (せんせんせんよ)
五つ 医者殿は 薬箱 祝え (せんせんせんよ)
六つ 娘は 化粧箱 祝え (せんせんせんよ)
七つ 泣き子は 親の乳 祝え (せんせんせんよ)
八つ 山伏は 法螺の貝 祝え (せんせんせんよ)
九つ 紺屋は 藍瓶(やがめ) 祝え (せんせんせんよ)
十で 豆腐屋は 豆腐籠 祝え (せんせんせんよ)
亥の子の宵(えー)に祝うた者は 四方へ蔵建て 繁盛せ 繁盛せ


では、阿波国内ではいかがでしょうか。

【阿波町】

お亥の子はんの夜さ、餅くれん家は、味噌も醤油もみな腐れ

  女の子はこれに続いて

お亥の子はんにい祝うてつかはれ

  と言ってまわった。

【川島町】

お亥の子はんの晩に、餅くれん家は、箸で家建てて、牛ぐそで壁塗って、馬ぐそで屋根葺いて、風が吹いたらすぐこけた

また

 一に俵ふんまえて
 二はにっこり笑わせて
 三に酒を造って
 四つ世の中ええよう
   五ついつものごとくして
   六つ無病息災に
 七つ何事ないように
 八つ屋敷を買いひろめ
 九つ小倉を立てならべ
 十でとっくり納まった、納まった

 ヘイトーヘイ ヘイトーヘイ


また、この行事については宮中においても、玄猪(げんちょ)という呼び方で行われていたことが知られております。

『国史大辞典 1』(国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館 1979)

「亥子(いのこ)」 異称を列挙する中に「玄猪」という名前もある。「旧暦十月、上の亥日に餅を食べると万病をのぞくという。古代中国の俗信によるもので、平安時代(寛平以前)から行われた。朝廷では内蔵寮が猪の子型に作った餅を進める儀があり、一般にも行われた」とあり。


『古事類苑 1 天部 歳時部』(吉川弘文館 1969)

玄猪ハ、ヰノコト云フ、十月中ノ亥日ニ行フ、後世幕府ニテハ、上ノ亥日ヲ以テセリ、此日貴賤共ニ餅ヲ製シ、亥子餅ト稱シテ以テ之ヲ祝セリ、朝廷ニテハ始メ内藏寮ヨリ獻ゼシガ、後ニハ丹波國野瀬里ヨリ獻ズル事トナレリ


『旧儀式図画帖』より

「天皇がツクツクの作法をする準備が行われる」との説明です。
「御ツクツク議 云々」とあります。

非常に簡単に言えば、亥子(いのこ)餅を搗き、天皇自らが餅を配るという次第です。
(簡単すぎるかwww)

詳しい次第はこんな感じです(一部)。

おいのこさんの特徴をとしては
一 十月第一の亥の日を祝う
二 この日に炬燵を空ける
三 柚子と二股大根は必ず供える
四 亥の子の夜は畑もの、なり木物を盗んでも構わない

などが挙げられます。

さて、
ここで出せない(出してはいけない)資料をこっそり出してみますと

はい、失礼いたしました。
掲載の許可もなーんにも取ってませんので、ギリこんな形です。
これが何かといいますと「お亥の子神」なのです。
阿波の某家に伝わる掛け軸です。
分からないように加工させていただいておりますが、右手に剣を構え「イノシシ」に跨がった神像です。前には二股大根が供えられております。

ワタクシは想像もしてませんでしたたが、「おいのこさん」は人の形を持つ神様であったのです。他の地域(県外含む)でこのようなものが残っているのかは存じ上げません。
ただ、ワタクシはみたことがありませんでした。

もし人の姿を持つイノシシの神様だったとしたら、ふつーは
こーゆー姿を想像するじゃないですか(あ、しない?)。

で、人の姿をしている事も含め気になるところとして、この神様は「タタリ神」ではないかということです。
前述の「おいのこさんの歌」を見直してください。

【阿波町】
  お亥の子はんの夜さ、餅くれん家は、味噌も醤油もみな腐れ

見ての通り餅をくれない家に対して祟ると脅している歌ですね。

また、これも前述の広島県福山市・新市町金名地区においては

亥の子の宵(えー)に祝わんものは 鬼産め 蛇産め 角のはえた子産め (せんせんせんよ)

と凄まじいばかりの呪詛を歌っております。
「玄猪」の行事において天皇が手づから亥の子餅を配るのは、あるいは配らなくては祟られるからではないかとも考えられるのではないでしょうか。
天皇自らが呪詛封じを行うほどの神様とは。

いやいや、人型をしてイノシシにまたがっている神様なのですが。

さて、ここからはワタクシの妄想レベル爆上がりといたしますが。
この「おいのこさん」は大黒天と同一とも言われており。

大黒さんという人は 一で俵を踏んばって 二でにっこり笑うて 三で盃差しおうて 四つで世の中良いように 五つで泉の湧くように 六つで無病であるように 七つで何事ないように 八(やあ)つで屋敷を廻り打ち 九つ米蔵おん建てて 十でめでたく祝(いお)うた(大分)

♪大黒さんと言う人は 一に俵ふんまえて 二ににっこり笑って 三に酒を造って 四つ世の中よいように 五ついつでもニコニコ 六つ無病息災に 七つ何事無いように 八つ屋敷を広めて 九つ紺屋をおっ建てて 十でとうとう福の神(静岡・手まり歌)

これらは「大黒舞」の歌ですが
川島町の
 一に俵ふんまえて
 二はにっこり笑わせて
 三に酒を造って
 四つ世の中ええよう
   五ついつものごとくして
   六つ無病息災に
 七つ何事ないように
 八つ屋敷を買いひろめ
 九つ小倉を立てならべ
 十でとっくり納まった、納まった
 ヘイトーヘイ ヘイトーヘイ

の歌と出自が同じであることが見られるのではないかと。
大黒天となれば
大黒天(だいこくてん、梵: Mahākāla、[マハーカーラ]、音写:摩訶迦羅など)とは、ヒンドゥー教のシヴァ神の異名であり、これが仏教に取り入れられたもの。七福神の一柱。

さらには神仏習合により「大国主命(おおくにぬしのみこと)」を大黒天と呼ぶ場合もありますです。

日本においては、大黒の「だいこく」が大国に通じるため、古くから神道の神である大国主と混同され、習合して、当初は破壊と豊穣の神として信仰される。後に豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として知られる食物・財福を司る神となった。室町時代以降は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の民族的信仰と習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代になると米俵に乗るといった現在よく知られる像容となった。現在においては一般には米俵に乗り福袋と打出の小槌を持った微笑の長者形で表される。 
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

で、オオクニヌシとイノシシ絡みの神話で思い出すのが。

大穴牟遅神(オオナムヂ、後の大国主)の兄神たちである八十神(ヤソガミ)は因幡国の八上比売(ヤガミヒメ)に求婚するが、ヤガミヒメはオオナムヂと結婚するといったため、八十神はオオナムヂを恨み、殺すことにした。オオナムヂを伯岐国の手前の山麓につれて来て、「赤い猪がこの山にいる。我々が一斉に追い下ろすから、お前は待ち受けてそれを捕えよ」と命令した。オオナムヂが待ち構えていると、八十神は猪に似た大石を火で焼いて転がし落とし、それを捕えようとしたオオナムヂは石の火に焼かれて死んでしまった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


という段ですね。
この逸話より大国主の祟りを収めるため毎年、十月第一の亥の日に亥の子餅を搗き配るという行事が行われるようになった…
という妄想です(笑)

ただ、書けないんですがこの神像が出てきた場所を考えると、あながち…
と言うのは、ワタクシの関係者なら分かっていただけるのではないかと独りごちております。

日本歳時記を繙けば
按ずるに、月令廣義に、五行書を引ていはく、十月亥日餅をくらへば、人をして病なからしむ、又錦繍萬花谷にもかくしるせり、されども其故をしらずいぶかし、右にいへるごとく、豕の多く子をうむによりて、かれをうらやみ、婦人女子のたはふれになし來りし事なるべし、猶ことはりしれらん人に問べし

などとあり、中国の五行から来たように思うけど誰も謂れを知らないよ。誰かよく知ってる人に聞いてね。
なんてことを言ってるほど謂れがわからない行事なのです。
ちなみに阿波國で大国主命(別名含む)を祭神とする神社は八鉾神社をはじめとして山のようにありますので略させていただきます。
ただ、神像の掛け軸が出てきたことで考察の余地が出てきたので、ちょっと書いてみました。
終わり


さらには今までワタクシの調べてきたことの内、どえらい一致があるのですが、書けば間違いなくあちこちで即時パクられるのが見えてますので、プライベート講座の時だけ限定で話そうかなと思ってます。

3 件のコメント:

  1. 影浦堂匡(かげうら たかまさ)2024年8月19日 15:27

    はじめまして、ぐーたら様

    最近になって阿波国の古代史に取り憑かれた他県からの転入者です。ぐーたら様の記事も強い関心を持って読ませていただいています。

    先日「ウ」と「ヲ」の音の関係について調べていたところ、「粟の落穂 一巻」の「乎加神」の章に、亥子神の像について書かれているところに行き着きました。この像は某家に伝わる掛け軸の絵とは異なっているようです。また、蛭子様や大黒様とも一緒に祀られていることにも触れています。なので、乎加神=亥子神=大黒様...? となってしまいました。
    一方で、乎加神は古事記の須佐之男命の御子宇迦之御魂神と同神であろうとも書いています。ウとヲの音が通じているからと言うのも捨てがたいところです。
    乎加神が左手にてんこ盛りご飯、右手にしゃもじをお持ちになっていることなので、大黒様とともに宇迦之御魂神も思わせるに十分ですね。

    ポイントがずれてしまっていたら、申し訳ありません。

    引き続き更新を楽しみにしています。ありがとうございます。

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    1. これは面白いですね。
      確かに「粟の落穂」見直してみますと亥子神の像について書かれております。
      ただ、 表現の違いかもしれませんが、「蛭子大黒、乎加神を合わせ祭る社があるから同一神じゃないの(大意)」となっておりましたので野口年長が考える「乎加神=亥子神=大黒様」はちょっと違うような気もします。
      ただ、これはすばらしい発見だと思います。
      当方もさらに精進いたします(笑)
      ありがとうございました。

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  2. ぐーたら様、私の拙いコメントに返信をいただきまして光栄です。

    「乎加神」の章を私は、野口氏は「乎加神=亥子神」と農家の人に教えてもらったが、元々は「乎加神=宇加神」ではないだろうかと説いていると読みました。
    一方で、この記事でぐーたら様が「亥子神=大黒様」説を引き合いに出されていたので、両者合わせると「乎加神=亥子神=大黒様」になることもあるんだと思い、じゃあ、なんで亥子神として重複する神様が一緒に祭られているのかな?むしろ、どちらかのイコールが怪しいんじゃないのかな?と感じただけです。私の説明が舌足らずで、申し訳ありません。

    結果的に何かしらぐーたら様のお役に立てたとすれば、大変嬉しく思います。

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