麻植の系譜:願勝寺編(2)
となるような気がする今日この頃です。
続いております「願勝寺歴代系譜」。
分かりにくいところと、一般に興味がなさそな部分もあるかと思いますので(いいのか?)三、四、五代と続けて書いていきます。
三代大福上人
是亦忌部大祭主玉淵宿禰第三の庶子なり
此上人本名は智教なれ其生涯国中を勧化し百三十余箇寺を建立し且つ義淵上人上足の内
行基を阿波に招待して諸寺の本地仏を彫刻なさしめ神亀元年秋当院を勅願所に定むるの朝命を蒙り其上父玉淵宿禰をす﹅めて忌部神社法楽として法福寺の大伽藍を創立す
後此寺を本福寺と改め又は忌部神宮寺と号し別に二寺を建て、弟子に附属す是所謂東寺西寺也
此亦後は改めて東福寺西福寺下云如此大功徳なすか故に国人の尊敬一方ならす仏菩薩の再来ならんと称せらる﹅の故に朝延より大福上人の美名を賜ひ果報目出度上人なり
四代実厳法師
外山忌部麻植正信の三男にして大福上人の嫡弟なり
聖武天皇の朝天平十三辛已年八月忌部大祭主阿刀弗宿禰大病によつて行真上人行基菩薩彫刻の薬師仏ら祈り其応忽に霊験現はれ病気平癒し其恩謝として麻植口に於て一宇を建立し平癒山薬師院福生寺と号す
此時阿刀弗の招によつて福生寺に転住し当福明寺院は弟子実念に譲る
五代実念法師
実念師は讃州綾の郡林田荘司景任の未子
先住実厳の嫡弟にして都に上り勤学累行の功を積み一時大徳の名を得て国に帰り忌部神社を下郡なる伊須の里に遷すの時三福寺福生寺其他寺院別れて彼地に移り共に忌部下宮を奉祠するの処神託によつて社地近傍の路辺に桜を植へて忌部山植桜の宮と称し追々繁栄するによつて実念植桜の神社の為伊須の里に七ヶ寺の大坊を建立し延暦二十二年八月四日行年五十一歳にて寂す
さらさらっと流そうとも思ったんですが、第三代大福上人の項で行基についての記載が出てきます。
一般的には行基とその三千人にも及んだと言われる支援団体が次々と寺院を建立していったと言われておりますが、系譜の『大福上人が建立し、「行基を阿波に招待して諸寺の本地仏を彫刻なさしめ」た』、の記載を見ればあながちそうでもなさそうに思えてきます。
ちなみに行基ゆかりの寺院を下に記載してみますが、資料はあるものの転記するのがめんどくさいんで今回は徳島県の分だけね。(ごめんね)
密巌寺
徳島市不動本町
薬王山 国分寺 金色院
行基の開創で本尊の薬師如来も行基作。明王堂には偸伽大権現、秋葉大権現、白山大権現、大聖歓喜天が祀られている。
井戸寺
聖徳太子作の本尊七仏薬師像の脇仏の日光・月光菩薩像は行基作とされている。
大栗山 大日寺
徳島市一宮町西丁263
八葉山 東林院
天平5年(733)行基菩薩を開基にして、高野山真言宗八葉山東林院と称した。
竺和山 霊山寺
天平年間(729~749)聖武天皇の勅願で行基が開創。(729~748)
極楽寺
行基の開創。
立江寺
聖武天皇の勅願で行基が開創。皇后の安産祈願として小さな金の地蔵菩薩(本尊)を安置。
恩山寺
聖武天皇の勅願で行基が開創。本尊の厄除けの薬師如来も行基作。
願成寺
阿波市(旧阿波郡)阿波町字山ノ神
真楽寺
美馬市(旧美馬郡)脇町
大瀧寺
神亀3年(726)行基菩薩が塩江より登山し、阿讃山脈秀峰に一寺を建立し、阿弥三尊を安置。
最明寺
美馬市(旧美馬郡)脇町猪尾字西上野
観音寺
美馬市(旧美馬郡)穴吹町三島字三谷
蓮華寺
三好市(旧三好郡)池田町ハヤシ 奈良時代に行基が開創したとされている。(708~749?)
長楽寺
三好市(旧三好郡)井川町辻中岡
多聞寺
阿南市福井町字宮北 毘沙門堂に行基作という毘沙門天像がある。
神宮寺
阿南市福井町字大宮 大宮八幡宮の元別当。もと小谷にあり、一の谷寺と称した。行基菩薩の開基で、弘法大師が再建したといわれる。長宗我部氏に焼かれ、正保年間(1644)に天神坊が移転再建した。御本尊は不動明王。
千福寺
見能方八幡社の別当寺。神亀元年(724)に行基が薬師如来を彫って創建したという。御本尊は薬師如来。
童学寺
行基の開山とされている。弘法大師が幼い頃、この地で書道や密教の学問を修得されたことから寺号を童学寺と称されている。弘仁6年(815)、再びこの地を訪れ堂宇を整え、薬師如来、阿弥陀如来、観音菩薩、持国天、毘沙門天、歓喜天を刻み安置。
薬王寺
聖武天皇の勅願で行基が開創。(726)
八坂山 鯖大師本坊 八坂寺
行基の開基。
金泉寺
聖武天皇の勅願で行基が開創。
にしても、なかなか出てこない寺院の由緒とか時代が垣間見られて、興味のある方には堪えられんのではないでしょうか。
ではでは、ここいらはさらっと流して次へ進みます。
今回は甘口で
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