2016年6月8日水曜日

まとめ:大宜都比売命の裔(7)

まとめ:大宜都比売命の裔(1)
まとめ:大宜都比売命の裔(2)
まとめ:大宜都比売命の裔(3)
まとめ:大宜都比売命の裔(4)
まとめ:大宜都比売命の裔(5)
まとめ:大宜都比売命の裔(6)

まとめ:大宜都比売命の裔(6)で、粟飯原家家系図を出し、「天津羽羽(あまつははの)命」も同じく「阿波咩命」「阿波波神」であり、八重事代主神の后神である、まで説明したので、あとは一気に「大宜都比売命」の末裔のお話までと思ったんですが、その前に「粟凡直(あわのおおしのあたい)」は書いとかなくちゃならないので、そっから再開します。


粟国造(阿波)
あわのくにのみやつこ【国造】

[粟国造(阿波)]
粟国造は粟(阿波)国(現・徳島県)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると応神天皇(10代)の時代、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の9世孫にあたる千波足尼(ちはのすくね)を国造に定めたことに始まるとされる。
国造氏族は粟凡直(あわのおおしのあたい)と言われ、新編姓氏家系辞書で粟国造・粟凡直は粟忌部の宗家と書かれている。また徳島県徳島市一宮町にある阿波一宮神社の大宮司家である一宮氏は名方別(後の名方宿祢姓)、粟国造(後の粟宿祢姓)の後裔とみられている。徳島県名西郡石井町にある中王子神社には粟国造墓碑が貴重な史料として伝わり、粟凡直一族が古くより統治していたことを証明している。
鳴門市にある萩原墳丘・墓宝幢寺古墳、天河別神社3・4号墳、板野町の愛宕山古墳などの被葬者は粟凡直一族であると考えられている。  「日本辞典」より

前回の記事をご覧になって「新編姓氏家系辞書で粟国造・粟凡直は粟忌部の宗家と書かれている。」というのは、何か違うんでないかな?、と思われた方もいらっしゃると思いますが、ここではペンディングにしておいてと。




阿波国造墓碑
阿波国造墓碑(あわのくにのみやつこぼひ/あわこくぞうぼひ)とは、徳島県名西郡石井町の中王子神社の神体とされてきた塼製の碑。徳島県指定有形文化財。
概要
明治期に近隣で出土して同神社に奉納されたと言われているが具体的経緯は不明である。全長28.8cmの直方体で、上下にほぞがあることから、製作時には台座と笠にあたる部分が付いていたとみられる。また、裏面には製作時の布目の痕が残されている。
正面と側面には文字が刻まれており、それぞれ「阿波国造 名方郡大領正○位下 粟凡直弟臣墓(○は闕字)」「養老七年歳次癸亥 年立」の文字がある、これによって、この碑が粟国造で名方郡の郡司(大領)であった粟凡弟臣(あわのおおしのおとおみ、直は姓)が養老7年(723年)またはその直前に没したために同年に造られた墓碑であることが判明した。ここで注目されるのは、律令制においては墓碑は三位以上の位階を持つ者に限定されている。
一方、闕字があるために不明であるものの粟凡弟臣は正七位下と推定されており、この要件には到底及ばない。このため、この時期にはなし崩し的に四位以下でも墓碑が作成されたとする見方や非公式な副葬品として作られたとする見方がある。wikipedia

また、延喜二年(902年)の「阿波国田上郷戸籍残簡」には粟凡直、姓が随所に見られます。
画像は、はみ出してます(笑)
下が翻刻版です。
右より「粟凡直」姓が並んでいるのが確認できます。

そして近世において
下の画像は神山町上分の「黒松神社」奉納の記録ですが

明治13年「粟凡直」の記載が見えます。
 記録によれば、黒松神社を参拝する修験者らは、こぞって「粟凡直」名のはいった記帳を欲しがったそうです。
さて、鳴門市瀬戸町堂浦の「阿波井神社」をご存知ですか?
この堂浦の「阿波井神社」、本社は対岸の島田島にあり祭神は
「天太玉命」と「大宣都比売命」となっております。
忌部氏の祖神である「天太玉命」と「大宣都比売命」が一緒に祀られているという、稀有な神社であります。
淡路にも南あわじ市(旧三原町)榎列上幡多に「阿波井神社」がありますが、これはここ阿波井神社の分社ということです。

この「天太玉命」と「大宣都比売命」は祀られているということはどういうことなのか。
 「阿波誌」を確認してみれば
 
阿波井祠
在堂浦天正中自古跡谷移舊作粟井或曰粟凡直之廟也....

云々とありますが、「粟凡直(あわのおおしのあたい)」を祀ったのではなく「粟凡直」が「天太玉命」と「大宣都比売命」を祀ったのだということは容易に推測できます。

「粟凡直」の祖神は「大宣都比売命」。
なぜ「粟凡直」が祖神ではない「天太玉命」を祀ったのか、また祀る場所も「粟凡直」の本拠地である神山近辺でもなく、忌部氏の本拠地である山川、木屋平近辺でもない場所であるのか。





この辺りからは想定の域に入ってしまうので、反論もあろうかと思いますが、あるいは「大宣都比売命」は海を渡ったのではないか、ここから。
渡す手引きをしたのは忌部氏、あるいは忌部氏の祖先。

なぜ、そう考えるのか?
それは、海を渡った先にある神社、泉大津市に鎮座する「大津神社」その現在の境内社である「粟神社」、ここの存在があるからです。
(ここらは『前置その5「大宜都比売命は海を渡ったか?」』のコピーなんで、楽なこと楽なことwwwww)


御祭神を公式ホームページより確認すると

御祭神
大津神社は、合祀以前の各社の御祭神、全十七柱をお祀りしています。
本社
  もと若宮八幡神社の御祭神
    息長帯姫命(神功皇后)
    品陀別命(応神天皇)
  もと宇多神社の御祭神
    素戔嗚尊(お天王)
  もと神明神社の御祭神
    天照大神
    船玉神
  もと菅原神社の御祭神
    菅原道真公


摂社
  粟神社(忌部氏の祖神)
    天太玉命
となっております。
この「粟神社」も由緒を確認いたします。

式内粟宮の由緒
『続日本紀巻三十四』に、
寶龜七年六月甲子。近衛大初位下粟人道足等十人賜姓粟直。
とあります。粟氏は忌部(斎部)氏の一族で、四国の「阿波」、千葉の「安房」など太平洋沿岸に勢力を誇っていました。この粟氏の一派、粟直の人々が、大津に来住して忌部(斎部)氏一統の祖神、天太玉命をまつったものが即ち、粟神社です。

天太玉命は、天照大神が天岩戸におこもりになったときに、岩戸の前で太占(ふとまに)と呼ばれる卜占をし、大きな勾玉を連ねた玉飾り、大きな鏡、楮(こうぞ)で織った白和幣(しらにぎて)と麻で織った青和幣(あおにぎて)を下げ垂らした真榊を捧げ持って大神の出現を願ったと伝わります。
爾来、占いの神、祭具の神として敬われてきました。

『延喜式巻第九』に、
和泉國六二座 和泉郡廿八座(並小) 粟神社
とあります。粟神社はその昔、地方一円の鎮守として栄え、また式内社として広く崇敬を集めていたといいます。しかし、明治の初め頃には境内地も縮小し て後にはわずかに一小祠があるだけとなり、明治新政府により明治41年4月に大津神社に合祀。社殿は境内の現地に移築されました。

「この粟氏の一派、粟直の人々が、大津に来住して忌部(斎部)氏一統の祖神、天太玉命をまつったものが即ち、粟神社です。」
との記載です。
途中に通過点があったのでしょうが、鳴門より泉大津まで渡っております。
が、この由緒は間違っております。
「粟直」の祖神は「大宣都比売命」なのです。
もし、ここに「粟直」の一族が来て「天太玉命」を祀ったのであるならば「阿波井神社」と同様に「大宣都比売命」も祀られていなくてはならないのです。
と、いうことは御祭神から「大宣都比売命」が抜けてしまった、あるいは「大宣都比売命」を「天照大神」として祀っているのかもしれません。
どちらにしても、個人的には「粟直」一族と「忌部」一族が「大宣都比売命」を連れて行った経由地だと考えられるのです。

どこに連れて行ったのかって?
最終目的地は、あそこなんですが、その前に、京都府城陽市市辺字粟谷にも式内社「粟神社」があり、「神社覈録(かくろく)」によれば祭神は「粟直祖神」なので、あるいはこの地を経由して行ったのかもしれません。

京都府城陽市市辺字粟谷 式内社「粟神社」

で、ワタクシが最終的に辿り着いたと「勝手に」考えておりますのが

どことは書きませんけど、「い」から始まる有名どころの神社です(笑)

その根拠の一つが
日本書紀 巻第二 神代下 第九段 一書 第二



高皇産靈尊因勅曰 吾則起樹天津神籬及天津磐境 當爲吾孫奉齋矣 汝天兒屋命 太玉命 宜持天津神籬 降於葦原中國 亦爲吾孫奉齋焉 乃使二神 陪從天忍穗耳尊以降之

高皇産靈尊(たかみむすひのみこと)、因りて勅(みことのり)して曰く、「吾、則ち天津神籬(あまつひもろき)及び天津磐境(あまついわさか)を起し樹(た)てて、當(まさ)に吾が孫の爲に齋(いわ)い奉らん。 汝(いまし)天兒屋命(あまつこやねのみこと)・太玉命(ふったまのみこと)は、宜(よろ)しく天津神籬(あまつひもろき)を持(たも)ちて、葦原中國(あしはらのなかつくに)に降りて、亦(また)吾が孫の爲に齋い奉れ」。 乃ち二神(ふたはしらのかみ)をして天忍穗耳尊(あまのおしほみみのみこと)に陪從(そ)えて降(あまくだ)らす。

要は高皇産靈尊(たかみむすひのみこと)は勅(みことのり)を発して天兒屋命と太玉命は、天津神籬(あまつひもろき)を持って、葦原中國(あしはらのなかつくに)に降りて、亦(また)吾が孫の爲に齋い奉れ」。
つまり宮の守護となれと仰られたわけなのです。

国学院大学日本文化研究所 「神家神道発生考」においても

すくなくとも天兒屋命と太玉命を両宮の相殿神と「伊勢神道」所では為していたことは確かである。

との考証が示されているように、太玉命は「伊勢神宮」外宮の守護神として祀られていたことは認めてもいいように思えます。
国学院大学日本文化研究所 「神家神道発生考」部分

そして、これも何度か書かせていただいたように

少なくとも伊勢神宮の「調御倉(つきのみくら)」には宇賀能美多麻(うがのみたま)神が、亦の名を大宜都比売神(こちらがホントの神名かな)として祀られているのです。

う〜、一桁回数で収まるかなと思ってたんですが、7回目でまだこんなトコ(涙)
次回はフェイントはやめて先に進みます(かな)。
続く




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