2014年2月2日日曜日

(仮説)七十五膳神事とは(下)

前回「(仮説)七十五膳神事とは(上)」からの続きとなります。

なぜ七十五という数字にこだわるのかという疑問まで書きました。
麻植郡美郷村の平八幡神社の七十五膳神事では七十五プラス五膳。

そして、最近知った事ですが、石井町諏訪の多祁御奈刀弥神社 (たけみなとみじんじゃ)でも近年まで七十五膳神事が行なわれていたと言う事です。
本殿内

七十五膳神事が行なわれていた膳を供える台

木製の由緒書

また山口県の複数の「人丸社」では柿の葉75枚に盛った赤飯を供えるなどの「柿の葉膳」神事が残っており、七十五は、熊神、広くは山神の聖数だという説もある。
熊神は、熊野の原始的信仰で古代葬制に係わるものであった。熊野の大峰山には75の行場があり、それぞれが神仏の住まう聖地であるともいう。
『鉄山必用記事』に載る「金屋子神祭文」には、75童神が登場し、その補注に「小乗倶舎宗の所説では、一切万有を5類75法に分類し、それぞれの法相を立てているが、これに神を配当して75童神とし、多数の神を意味させた」
とある。
このように、神供75膳は倶舎宗の所説にもとづく「多数の神に対する供物」とされたという説もある。
だが「小乗倶舎宗」の説であるならば、仏教伝来以降、始まった神事なのだろうか。
何かすっきりしない説明とは別に七十五の数字を持つもう一つの「もの」を思い浮かべてもらいたい。
熊野牛王符(くまのごおうふ)
「熊野牛王神符」、「牛王宝印(牛玉宝印)」、「烏牛王」、「おからすさん」などと呼ばれる。一般的な神札と違って一枚ものの和紙の上に墨と木版で手刷りされ、朱印を押したもので、デザインには多くの烏が用いられる(烏文字)。また熊野三山の各大社ごとにデザインは異なる。烏文字は烏の配列で文字を表すもので、本宮と新宮では「熊野山宝印」、那智では「那智瀧宝印」と記されるが極めて読みにくい。
起源は明確でなく、素戔嗚尊と天照大神の誓約に起源を持つとか、神武東征の際、熊野烏の助けを受けたなどの故事に由来するとなどと言われている。
また、牛王を「ごおう」と読むのは、漢方薬の牛黄(ごおう)を朱印の材料に使ったという説がある。
熊野本宮大社の牛王神符については天武天皇の白鳳11年の記録が残っている。
Wikipediaより

これの何が七十五なのか。
そう、カラスの数が七十五なのです。
ここからは熊野権現の説明や本地垂迹説等々を書くべきなのでしょうが、時間と手間が追いつかず稿を改めさせていただききますが、熊野本宮の儀式がアイヌ(蝦夷)シャーマンやギリヤークシャーマンの儀式と酷似している事、
これに関して「国史異論奇説新学説考」などの藤井尚治氏はこう解きます。

まず、夏から殷、殷から周にいたり、その霊王の時代までの「王の代数」がこの七十五だという。つまり七十五羽の烏は七十五代の王に因んだものとする。だが、なぜ東周十一代の霊王で区切ったのか?
中略
ただ十二代景王の最後の年は、内紛で、晋によって敬王が擁立されるということがあり、周王朝の権威はここに極まったといえる。

三皇五帝については下図に示すようにいくつか異論がありますが
これ以降は下に示す通り霊王で七十五代目となります。


夏后氏 帝禹 姒禹(紀元前2070年 - 紀元前2061年)
1  帝啓
2  帝太康
3  帝中康
4  帝相
5  帝少康
6  帝予
7  帝槐
8  帝芒
9  帝泄
10 帝不降
11 帝扃
12 帝廑
13 帝孔甲
14 帝皐
15 帝発
16 帝桀


1  天乙(成湯)
2  外丙
3  仲壬
4  太宗太甲
5  沃丁
6  太庚
7  小甲
8  雍己
9  中宗太戊
10 中丁(仲丁)
11 外壬
12 河亶甲
13 祖乙
14 祖辛
15 沃甲
16 祖丁
17 南庚
18 陽甲
19 盤庚
20 小辛
21 小乙
22 高宗武丁
23 祖庚
24 祖甲
25 廩辛
26 庚丁
27 武乙(在位紀元前1148年? - 紀元前1113年?)
28 太丁(在位紀元前1113年? - 紀元前1102年?)
29 帝乙(在位紀元前1102年? - 紀元前1076年?)
30 帝辛(受、紂、在位紀元前1076年 - 紀元前1046年?)


姫昌は殷の「西伯」だった。
姫昌は、武王に「文王」と追号された。
1  武王(姫発、在位紀元前1046年? - 紀元前1043年?)
2  成王(姫誦、在位紀元前1043年? - 紀元前1021年?)
3  康王(姫釗、在位紀元前1021年? - 紀元前996年?)
4  昭王(姫瑕、在位紀元前996年? - 紀元前977年?)
5  穆王(姫満、在位紀元前977年? - 紀元前922年?)
6  共王(姫繄扈、在位紀元前922年? - 紀元前900年?)
7  懿王(姫囏、在位紀元前900年? - 紀元前892年?)
8  孝王(姫辟方、在位紀元前892年? - 紀元前886年?)
9  夷王(姫燮、在位紀元前886年? - 紀元前878年?)
10 厲王(姫胡、在位紀元前878年? - 紀元前842年)
   共和(紀元前841年 - 紀元前828年)
11 宣王(姫静、在位紀元前828年 - 紀元前782年)
12 幽王(姫宮涅、在位紀元前782年 - 紀元前771年)
13 平王(姫宣臼、在位紀元前771年 - 紀元前720年)
   携王(姫余、在位紀元前772年 - 紀元前759年)
14 桓王(姫林、在位紀元前720年 - 紀元前697年)
15 荘王(姫佗、在位紀元前697年 - 紀元前682年)
16 釐王(姫胡斉、在位紀元前682年 - 紀元前677年)
17 恵王(姫閬、在位紀元前677年 - 紀元前652年)
   姫叔頽 (在位紀元前675年 - 紀元前673年)
18 襄王(姫鄭、在位紀元前652年 - 紀元前619年)
   姫叔帯 (在位紀元前636年 - 紀元前635年) 
19 頃王(姫壬臣、在位紀元前619年 - 紀元前613年)
20 匡王(姫班、在位紀元前613年 - 紀元前607年)
21 定王(姫瑜、在位紀元前607年 - 紀元前586年)
22 簡王(姫夷、在位紀元前586年 - 紀元前572年)
23 霊王(姫泄心、在位紀元前572年 - 紀元前545年)
24 景王(姫貴、在位紀元前545年 - 紀元前520年)
25 悼王(姫猛、在位紀元前520年)
26 敬王(姫匄、在位紀元前520年 - 紀元前476年)
27 元王(姫仁、在位紀元前476年 - 紀元前469年)
28 貞定王(姫介、在位紀元前469年 - 紀元前441年)
29 哀王(姫去疾、在位紀元前441年 - 紀元前440年)
30 思王(姫叔、在位紀元前440年)
31 考王(姫嵬、在位紀元前440年 - 紀元前426年)
32 威烈王(姫午、在位紀元前426年 - 紀元前402年)
33 安王(姫驕、在位紀元前401年 - 紀元前376年)
34 烈王(姫喜、在位紀元前376年 - 紀元前369年)
35 顕王(姫扁、在位紀元前369年 - 紀元前321年)
36 慎靚王(姫定、在位紀元前321年 - 紀元前315年)
37 赧王(姫延、在位紀元前315年 - 紀元前256年)
38 昭文君 (姫傑、在位紀元前256年 - 紀元前249年)

つまり周王朝、霊王の時代に何らかの形でこの儀礼が入ってきた可能性があると言うのです。その当時の先代王を祀ったのがこの儀礼ではないかと言う説です。

確かに中国では烏は太陽もしくは王を示すシンボルであり、特に三本足の烏は、三足烏(さんそくう)と呼ばれ、中国神話では太陽に住むとされ、太陽を象徴する。日烏(にちう)や火烏ともいう。また、金色という説もあり、金烏(きんう、拼音: jīnwū ジンウー)とも呼ばれる。
八咫烏(やたがらす、やたのからす)は、日本神話において、神武東征の際に、高皇産霊尊によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされるカラス(烏)である。一般的に3本足のカラスとして知られている。
という奇妙な一致を見ます。
もう一つ追記しておくべきは「呉王遺民熊野亡命説」です。
周王朝滅亡時に呉の遺民たちのなかで熊野に亡命した集団がいたというものです。
その証拠の一つとして熊野神社を別名「ゴオウ」と呼ぶ、と言うものがあります。
また熊野牛王と書いて「クマノゴオウ」とも読むことも挙げられます。

と、こうして訳の分らない事をあげつらってきましたが、要は「七十五膳神事」は紀元前570年前後に周、あるいは呉から渡って来た儀礼ではないかと言う「説」を紹介させていた訳です。
書くべき事を相当「はしょって」おりますので、分りにくく、あるいはトンデモ説に見えるかもしれませんが、実際はそうです(笑)
ただ、七十五という不明な数字に意味付けをしたかっただけでこの一稿を書いてみましたので、鼻で笑って後ろ指を指していただければ幸い(いや、腹立つだろな(笑))でございます。

最後に「やっぱ、ぐたぐたじゃねーか」と仰られる向きには
「期待するのが悪い(笑)」
の一言を差し上げて終わりとさせていただきます(ふう〜)。

7 件のコメント:

  1. 75…そうか、あの熊野の護符のカラスね…。75羽もいるんですか…。

    ちょっと気になって75代目の天皇を検索したら…崇徳天皇がヒットしてびっくり!!
    いや、時代が下るから、もちろん偶然なんでしょうが……天皇家に呪いをかけた天皇が75代目というのは、皮肉というか…さもありなんというか…。

    カラスで思い出しましたが、北欧神話の最高神・オーディンが、二羽のカラスを連れておりますね。
    フギンは「思考」を、ムニンは「記憶」を意味する…そうです。夜明けに起きて巣を出て、世界のあらゆる情報を収集し、夜に帰ってきてオーディンに報告するんだそうです。


    「神話の森」というサイト(http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/3163/sinwatop.html#top)に、オーディン神のことやカラスのこと、朝鮮半島の伝説や、ちょこっと熊野の護符のことにも触れられていて、面白かったです。

    返信削除
    返信
    1. コメありがとうございます。
      結構気合い入れて書いたのに、反応無かったらどうしよう....
      なんて考えてました(笑)
      そういえばオーディンはカラスを連れてましたね。
      小さい頃北欧神話読んで「スレイプニールかっけー(笑)」って思ってました。
      ホントは(言い訳)もっと熊野の事を書きたかったんですが、最近キーボードの前で目を開けたまま眠ってたりするんで(キモっ!)体力の衰えが顕著です、厳しいです。
      けど、今回のはけっこういいトコ衝いてると思うんですが。

      削除
  2. 膨大な資料の転載、お疲れさまでした。
    霊王で七十五代。
    語呂合わせではなく、説得力のある解説だと思います。

    かずくんのオーディーン神話のカラスも興味深いですね。
    阿波古代史、いったいどこまで展開してゆくやら、底知れません。

    返信削除
  3. 岡山ではこんな風に由来がわからなくなりつつある今、ぐーたら先輩のご研究が道を照らします:

    「吉備津神社で七十五膳据神事 海や山の幸奉納、五穀豊穣願う (2013/5/12)

    吉備津神社(岡山市北区吉備津)で12日、作物の恵みに感謝する伝統行事「七十五膳据(ぜんすえ)神事」があり、氏子らが海や山の幸を神前に供え、五穀豊穣を祈願した。
    午前11時すぎ、神社の台所に当たる御供殿(ごくうでん)から、白米やタイ、タケノコなどを載せた膳を手に、白装束の氏子ら約170人が行進。約300メートルの回廊の先にある本殿に膳を奉納し、祈りをささげた。

    神事は旧備中国にあった75の村が地域の産物を一膳ずつ献上したことに由来。江戸時代には始まっていたとされ、春と秋の年2回行われている。」
     → 山陽新聞さん http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2013051211131677/

    返信削除
    返信
    1. そうなんです、5×5とかの語呂合わせは絶対違うだろうなってトコから書いてみました。
      以前にFBで「長刀歌」の事をちょっと書きましたが、紀元前にも、あちらこちらの民族が足跡を残しているように思えます。
      無論、日本は「他民族国家」でありますので、なんら不思議な事はないんですが、それが特定の人種や民族の名を挙げると途端に「トンデモ説」だと言われる不思議があります。
      例えば、ボクは秦氏(第2陣)が日本に渡って来たとき、先導をしたのが◯◯◯だと思ってますが、そんな事書くと、またバカにされるので、もうしばらく抱いてようと思ってるくらいですので。(どんな位だよって)

      削除
  4. エリア882014年2月9日 13:00

    ぐーたら師匠、こんにちは。昨日、土佐の横倉山(安徳天皇稜候補地)の近くの白山神社では750個の餅を用意しなければならないと伝えられています。土佐の伝説22、で発見しました。シンクロしてます。笑

    返信削除
    返信
    1. こちらにもコメントいただけましたか。
      確かにシンクロしてますね。
      代数も合ってるようですし.....
      あながち間違いでなかったような気がします。

      削除