STUDIO M.O.GのHPより転載します。
<本文プロローグより抜粋>
この作品は、名草地方
(現在の和歌山市と海南市)で
語り継がれてきた古代の女王
名草戸畔(なぐさとべ)の伝承を
もとに構成したものだ。
名草戸畔(なぐさとべ)とは、
紀国(現在の和歌山県)に
およそ二千年前に実在したと思われる
女性首長のことだ。
『日本書紀』に、ひと言だけ、
神武に殺されたと記されている。
土地には、
ナグサトベの遺体を、
頭、胴体、足の三つに分断し、
三つの神社に埋めたという伝説もある。
多くの人は、名草戸畔(なぐさとべ)は
神武あるいは神武軍によって、
遺体を切断されたという。
ところが、わたしが調べていくうちに、
一般的に語られていることとは違う伝承を
郷土史家・小薮繁喜氏と
海南市の「宇賀部神社(おこべじんじゃ)」
宮司家出身・小野田寛郎氏から採集した。
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凄いですねぇ。この伝承。そして、なかひら氏が調査を進めるうちに更に凄い伝承が
明らかになっていきます。
内容を書いてもいいのかな?
でも、スタジオ・エム・オー・ジーのサイトからフリーダウンロードで読めてしまい
ますので、気になる方は上のリンクからどうぞ。(宣伝みたいになってるなぁ)
まあ、太っ腹な事。でもリアル書籍も買う人は買いますよ。
叱られるのを承知でちょっとだけ書いてみますと。
紀元前4000年(!)南九州に住んでいた名草の祖たちが人口増加のため、宮崎・大分
付近から和歌山へ移住。
紀元174〜200年、神武東征時にナグサトベを葬る(?)
しかし、ナグサトベは死なず、逆に神武軍を撤退させた(?)
といいつつ、まだ一読した段階です。感想と言える程の物もまだありません。
三度、四度、もっと繰り返して読みましょう。
4年間の地道な調査の跡は、行間に嫌という程滲んでいます。
こんなブログをやってる者として、これだけの調査にどれだけ苦労したかは、想像に難く
ありません。ましてや一からの調査でしょう。
また、わたくしめは紀州の古代史、伝承に全く疎く、地元の人や実際に現地で調査した人
ならば体感できる空気みたいなものが感じにくいのも事実です。
だから名草の人々が和歌山でどのようにイメージされているかも分りにくいのです。
と、いう点を差し置いても、伝承、口伝をここまで詳らかに白日の下に引っ張りだした
仕事に大拍手を送りたいと思います。
で、あとは完全に「無いものねだり」(笑)もしくは妄言(笑)ひとりごとってこと。
名草の民が宮崎近辺出身ならば、天孫降臨九州説は怪しくなってきますよね。
地元同士での争いになりますから。
次に、神武東征ルートに異論あり。特に紀の川上陸まで。
また、このブログで書きますが、神武天皇は阿波におられました。少なくとも阿波を
経由して紀州に向かったのです。
それと名草の民が九州から和歌山に移住してきた理由が分からない。
なぜ、和歌山なのか。なぜ中国、四国、近畿ではないのか。そして移住ルートは?
南九州から海路ならば太平洋側を通って(四国南岸沿いに移動して)いくはず。
四国の宇和島や高知、徳島の海部辺りで止まらない理由は?
陸路ならば瀬戸内沿岸を通るはずが、どこにも安住の地を見つけられなかった訳は?
目的地が決まっていたとしか思えない移住の仕方ですね。
その辺りも知りたいなぁ。(書いてあったらごめんなさい)
おまけの絵はがきは素敵です。
なかひらさん、ナグサトベに取り憑かれたのはよく分りましたので(笑)
神様の話は、よく書かされてるって思うときありますよ。
これだけで終わらせないでね。絶対書ききれなかった事があるでしょ。
名草戸畔の伝承は、違う事を調べていたら、
返信削除出会った姫です。
この本も拝読いたしました。
とても気になるお話です。
私の、気になってしょうがない方達の近隣に
空海様が必ずといって良い程、いらっしゃいます。
空海様が何かを必死になってらっしゃいます。
刹那、にも、似て。
あぁ、また、大きな壁が・・・。
いつになったら、ほんの少しでもお察し出来ること
やら・・・。
to babymamaさん
返信削除すいません、コメ遅くなりました。
名草戸畔の伝承はいろんな意味できになります。
それにしても確かに弘法大師空海、行基菩薩はキーマンですね。
四国の各所に足跡があり伝承があります。
特に、あそこらネ(笑)