御用納めも終わったようで、通勤時の道路はガラすきです。
いいよなあ、こちとらまだ仕事なんだぜ、などとつぶやいております。
まだまだ仕事しますぜ。
ところで植村 花菜ちゃん紅白出場ですね。
徳島へも以前やってきて藍場浜公演で公開ライブをやってました。
嫁さんが見に行って感激しておりました。
で、「トイレの神様」動画を張ってみたりします。
うわあ、普通のブログみたい。
で、この「トイレの神様」いったいどなたなんでしょうか?
トイレにはそれはそ〜れは奇麗な女神様がいるんやで
お寺になら「東司守護 烏瑟沙摩大明王」が祀られておりますが、神様となると
埴安彦神、埴山姫神、罔象女神、和久産巣日神などがトイレの神様とされている
ようです。
でも、女神様はこのうち埴山姫神と罔象女神ですが、非常に失礼ながら、「奇麗な」
神様であるかどうかは分りませんよね。
そしてトイレ専属の神様ではないですよね。
そこで確実に「奇麗な」神様であるのが分っているのが沖縄の「フールヤヌカン」と
いう女神様だそうです。
「フールヤ」が琉球の言葉でトイレのことだそうです。
引用ですが
フールヤヌカン
沖縄に伝わる便所神を勤める美しい女神で
かつて神々が家の各所の守り神を決める時に
殆どの神が便所を嫌がったのを見かねて自らが便所の守り神になると言った。
神聖性が非常に強く、他の神に願ってもかなわない願いでさえも
彼女に祈ればかなう事があると言われ、魂を落として元気の出ない時にも
(沖縄ではひどく驚いた時や落ち込んだ時には魂が欠けるとされていた)
彼女に話せば魂を探してきてくれると信じられている。
と、いうことだそうです。
沖縄ではよく「魂(まぶい)」を落としてしまうそうです。
そんな時は「ユタ(霊媒士)」に頼んで探してもらうのですが、ユタはそのとき
「フールヤヌカン」の力を借りるそうです。(ホントかどうか知らないよ)
女神様で「美しく」、「元気をだしてくれる」まさしく「トイレの神様」にぴったり
じゃないでしょうか。
さ〜て、紅白で植村 花菜ちゃんは何番目かな。
で、年内もう一回書けるかな。
あれを出しといて年を越したいなぁ
徳島県内で見つけた面白い物なんかを紹介できればと立ち上げてみました。 それこそみんなが知らない(知っていても役に立たない)重箱の隅をつついてみようというブログです。 根がグータラなものですので更新はほどほどです。
2010年12月27日月曜日
誰か教えて
ちょっと情けないんですが、誰か教えてください。
宇遅能和紀郎子(うじのわきいらつこ)をお祀りした神社ってあちこちにあるんですか?
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ、生年不詳 - 壬申年(312年))は、記紀に伝えられる
古墳時代の皇族(王族)。菟道稚郎子皇子(『日本書紀』)・宇遅能和紀郎子(『古事
記』)・宇治若郎子(『山城国風土記』逸文)・宇治天皇(『播磨国風土記』)とも。
応神天皇の皇子で、母は和珥臣祖の日触使主(ひふれのおみ、比布礼能意富美)の女
宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河枝比売)である(ただし『先代旧事本紀』には
物部多遅麻連の女・山無媛とする)。同母妹に八田皇女・雌鳥皇女。父天皇の寵愛を
受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、後の
仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られる。
百済から来朝した阿直岐・王仁を師に典籍を学んで通達し、父の天皇から寵愛された。
応神天皇40年(309年)1月に皇太子となる。
翌年に天皇が崩じたが、太子は即位せず、大鷦鷯尊と互いに皇位を譲り合った。
そのような中、異母兄の大山守皇子は自らが太子に立てなかったことを恨み、太子を
殺そうと挙兵する。大鷦鷯尊はこれをいち早く察知し、大山守皇子はかえって太子の
謀略に遭って殺された。この後、太子は菟道宮(京都府宇治市の宇治上神社が伝承地。
『山城国風土記』逸文に桐原日桁宮)に住まい[1]、大鷦鷯尊と皇位を譲り合うこと3年。
永らくの空位が天下の煩いになると思い悩んだ太子は互譲に決着を期すべく、自ら果てた。尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に招魂の術を施したところ、太子は
蘇生し、妹の八田皇女を献ずる旨の遺言をして、再び薨じたという。
伝承では菟道山上(『延喜式』諸陵寮に宇治墓)に葬られたという。同墓は現在、宇治市
莵道丸山の丸山古墳(前方後円墳・全長約80m)に比定され、宮内庁の管理下にある。
この地は宇治川東岸にあり、明治以前は「浮舟の杜」と呼ばれる円丘であったが、
明治22年(1889年)、当時の宮内省により、伝承とは異なるこの地が宇治墓と治定され
前方後円墳状に成形されて現在に至っている。 Wikipediaより
宇遅能和紀郎子(うじのわきいらつこ)をお祀りした神社ってあちこちにあるんですか?
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ、生年不詳 - 壬申年(312年))は、記紀に伝えられる
古墳時代の皇族(王族)。菟道稚郎子皇子(『日本書紀』)・宇遅能和紀郎子(『古事
記』)・宇治若郎子(『山城国風土記』逸文)・宇治天皇(『播磨国風土記』)とも。
応神天皇の皇子で、母は和珥臣祖の日触使主(ひふれのおみ、比布礼能意富美)の女
宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河枝比売)である(ただし『先代旧事本紀』には
物部多遅麻連の女・山無媛とする)。同母妹に八田皇女・雌鳥皇女。父天皇の寵愛を
受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、後の
仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られる。
百済から来朝した阿直岐・王仁を師に典籍を学んで通達し、父の天皇から寵愛された。
応神天皇40年(309年)1月に皇太子となる。
翌年に天皇が崩じたが、太子は即位せず、大鷦鷯尊と互いに皇位を譲り合った。
そのような中、異母兄の大山守皇子は自らが太子に立てなかったことを恨み、太子を
殺そうと挙兵する。大鷦鷯尊はこれをいち早く察知し、大山守皇子はかえって太子の
謀略に遭って殺された。この後、太子は菟道宮(京都府宇治市の宇治上神社が伝承地。
『山城国風土記』逸文に桐原日桁宮)に住まい[1]、大鷦鷯尊と皇位を譲り合うこと3年。
永らくの空位が天下の煩いになると思い悩んだ太子は互譲に決着を期すべく、自ら果てた。尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に招魂の術を施したところ、太子は
蘇生し、妹の八田皇女を献ずる旨の遺言をして、再び薨じたという。
伝承では菟道山上(『延喜式』諸陵寮に宇治墓)に葬られたという。同墓は現在、宇治市
莵道丸山の丸山古墳(前方後円墳・全長約80m)に比定され、宮内庁の管理下にある。
この地は宇治川東岸にあり、明治以前は「浮舟の杜」と呼ばれる円丘であったが、
明治22年(1889年)、当時の宮内省により、伝承とは異なるこの地が宇治墓と治定され
前方後円墳状に成形されて現在に至っている。 Wikipediaより
三好市(当時三好町)近藤宮司家に伝わる神社の資料集を再編したものなんですが。
なんで、こんなところに(といっては失礼ですが)お祀りされてるの?
明治初年の調査なのでこの皇子神社もどうなってるかは分りません
(ごめんなさい、まだ調べてません)
多分、どっかの神社に合祀されたと思いますが。
すいません、この宇遅能和紀郎子(うじのわきいらつこ)について、どんな神社に
お祀りされてるか、ご存知の方教えてください。
ごめんなさい、今日はこれだけ。
年内にもう一回くらい、ちょっと頑張って書きます。
それにしても、この資料凄いわ、「なんでこんな祭神が!」って神社がぞろぞろ。
2010年12月23日木曜日
名草戸畔(なぐさとべ)
今日の昼前に届きました。なかひら まい著「名草戸畔(なぐさとべ)」です。
STUDIO M.O.GのHPより転載します。
<本文プロローグより抜粋>
この作品は、名草地方
(現在の和歌山市と海南市)で
語り継がれてきた古代の女王
名草戸畔(なぐさとべ)の伝承を
もとに構成したものだ。
名草戸畔(なぐさとべ)とは、
紀国(現在の和歌山県)に
およそ二千年前に実在したと思われる
女性首長のことだ。
『日本書紀』に、ひと言だけ、
神武に殺されたと記されている。
土地には、
ナグサトベの遺体を、
頭、胴体、足の三つに分断し、
三つの神社に埋めたという伝説もある。
多くの人は、名草戸畔(なぐさとべ)は
神武あるいは神武軍によって、
遺体を切断されたという。
ところが、わたしが調べていくうちに、
一般的に語られていることとは違う伝承を
郷土史家・小薮繁喜氏と
海南市の「宇賀部神社(おこべじんじゃ)」
宮司家出身・小野田寛郎氏から採集した。
・
・
・
これ以上内容は書きません。ダウンロードして読めばいいんですから。
といいつつ、まだ一読した段階です。感想と言える程の物もまだありません。
三度、四度、もっと繰り返して読みましょう。
4年間の地道な調査の跡は、行間に嫌という程滲んでいます。
こんなブログをやってる者として、これだけの調査にどれだけ苦労したかは、想像に難く
ありません。ましてや一からの調査でしょう。
また、わたくしめは紀州の古代史、伝承に全く疎く、地元の人や実際に現地で調査した人
ならば体感できる空気みたいなものが感じにくいのも事実です。
だから名草の人々が和歌山でどのようにイメージされているかも分りにくいのです。
と、いう点を差し置いても、伝承、口伝をここまで詳らかに白日の下に引っ張りだした
仕事に大拍手を送りたいと思います。
で、あとは完全に「無いものねだり」(笑)もしくは妄言(笑)ひとりごとってこと。
名草の民が宮崎近辺出身ならば、天孫降臨九州説は怪しくなってきますよね。
地元同士での争いになりますから。
次に、神武東征ルートに異論あり。特に紀の川上陸まで。
また、このブログで書きますが、神武天皇は阿波におられました。少なくとも阿波を
経由して紀州に向かったのです。
それと名草の民が九州から和歌山に移住してきた理由が分からない。
なぜ、和歌山なのか。なぜ中国、四国、近畿ではないのか。そして移住ルートは?
南九州から海路ならば太平洋側を通って(四国南岸沿いに移動して)いくはず。
四国の宇和島や高知、徳島の海部辺りで止まらない理由は?
陸路ならば瀬戸内沿岸を通るはずが、どこにも安住の地を見つけられなかった訳は?
目的地が決まっていたとしか思えない移住の仕方ですね。
その辺りも知りたいなぁ。(書いてあったらごめんなさい)
おまけの絵はがきは素敵です。
STUDIO M.O.GのHPより転載します。
<本文プロローグより抜粋>
この作品は、名草地方
(現在の和歌山市と海南市)で
語り継がれてきた古代の女王
名草戸畔(なぐさとべ)の伝承を
もとに構成したものだ。
名草戸畔(なぐさとべ)とは、
紀国(現在の和歌山県)に
およそ二千年前に実在したと思われる
女性首長のことだ。
『日本書紀』に、ひと言だけ、
神武に殺されたと記されている。
土地には、
ナグサトベの遺体を、
頭、胴体、足の三つに分断し、
三つの神社に埋めたという伝説もある。
多くの人は、名草戸畔(なぐさとべ)は
神武あるいは神武軍によって、
遺体を切断されたという。
ところが、わたしが調べていくうちに、
一般的に語られていることとは違う伝承を
郷土史家・小薮繁喜氏と
海南市の「宇賀部神社(おこべじんじゃ)」
宮司家出身・小野田寛郎氏から採集した。
・
・
・
凄いですねぇ。この伝承。そして、なかひら氏が調査を進めるうちに更に凄い伝承が
明らかになっていきます。
内容を書いてもいいのかな?
でも、スタジオ・エム・オー・ジーのサイトからフリーダウンロードで読めてしまい
ますので、気になる方は上のリンクからどうぞ。(宣伝みたいになってるなぁ)
まあ、太っ腹な事。でもリアル書籍も買う人は買いますよ。
叱られるのを承知でちょっとだけ書いてみますと。
紀元前4000年(!)南九州に住んでいた名草の祖たちが人口増加のため、宮崎・大分
付近から和歌山へ移住。
紀元174〜200年、神武東征時にナグサトベを葬る(?)
しかし、ナグサトベは死なず、逆に神武軍を撤退させた(?)
といいつつ、まだ一読した段階です。感想と言える程の物もまだありません。
三度、四度、もっと繰り返して読みましょう。
4年間の地道な調査の跡は、行間に嫌という程滲んでいます。
こんなブログをやってる者として、これだけの調査にどれだけ苦労したかは、想像に難く
ありません。ましてや一からの調査でしょう。
また、わたくしめは紀州の古代史、伝承に全く疎く、地元の人や実際に現地で調査した人
ならば体感できる空気みたいなものが感じにくいのも事実です。
だから名草の人々が和歌山でどのようにイメージされているかも分りにくいのです。
と、いう点を差し置いても、伝承、口伝をここまで詳らかに白日の下に引っ張りだした
仕事に大拍手を送りたいと思います。
で、あとは完全に「無いものねだり」(笑)もしくは妄言(笑)ひとりごとってこと。
名草の民が宮崎近辺出身ならば、天孫降臨九州説は怪しくなってきますよね。
地元同士での争いになりますから。
次に、神武東征ルートに異論あり。特に紀の川上陸まで。
また、このブログで書きますが、神武天皇は阿波におられました。少なくとも阿波を
経由して紀州に向かったのです。
それと名草の民が九州から和歌山に移住してきた理由が分からない。
なぜ、和歌山なのか。なぜ中国、四国、近畿ではないのか。そして移住ルートは?
南九州から海路ならば太平洋側を通って(四国南岸沿いに移動して)いくはず。
四国の宇和島や高知、徳島の海部辺りで止まらない理由は?
陸路ならば瀬戸内沿岸を通るはずが、どこにも安住の地を見つけられなかった訳は?
目的地が決まっていたとしか思えない移住の仕方ですね。
その辺りも知りたいなぁ。(書いてあったらごめんなさい)
おまけの絵はがきは素敵です。
なかひらさん、ナグサトベに取り憑かれたのはよく分りましたので(笑)
神様の話は、よく書かされてるって思うときありますよ。
これだけで終わらせないでね。絶対書ききれなかった事があるでしょ。
2010年12月12日日曜日
「息長田別王」はどこに
あんまりよく知らないんですが、「倭建命(やまとたけるのみこと)」って昔に
より大きな地図で 尼寺塚穴 を表示
いらっしゃったんですかね?
なにか偉い方だったそうで、ちょっと調べてみましたら、一般的には四世紀頃の方と見られ
第十二代景行天皇を父とし稲日大郎姫を母とするそうです。
で、その「倭建命」の子供のうちのお一人が「息長田別王(おきながたわけのみこ)」
なんですが、この方どうも阿波にいらっしゃったようで、これも一般には「古事記」にしか
お名前が出てきてません。
「倭建命」と一妻(あるみめ)の間に産まれたという事で母親が分っておりませんが
「息長」の系譜である事から「仲哀天皇」自身と見る説もあるようです。
「息長氏」の事を詳しく書くと3回ぐらいかかりそうなので、今回はこの辺にしといて......
話を戻しまして、この「息長田別王」について「先代旧事本記(せんだいくじほんぎ)」
には、阿波を治めていたとありました。
この「先代旧事本記」偽書説もあるようですが、聖徳太子の編纂とかいう事で疑われて
いるだけで、内容については疑うべき箇所は少ないように思います。
この「先代旧事本記」偽書説もあるようですが、聖徳太子の編纂とかいう事で疑われて
いるだけで、内容については疑うべき箇所は少ないように思います。
引用しますと
日本武尊娶兩道入姬皇女為妃,生三男一女.
兒,稻依別王.犬上君‧武部君等祖.
次,足仲彥尊.
次,布忍入姬命.
次,稚武王.近江建部君祖‧宮道君等祖.
妃,吉備武彥女-吉備穴戶武姬,生二男.
兒,武卵王.讚岐陵君等祖.
次,十城別王.伊豫別君等祖.
妃,穗積氏祖-忍山宿禰女-橘媛,生九男.
兒,稚武彥王命.尾津君‧揮田君‧武部君等祖.
次,稻入別命.
次,武養蠶命.波多臣等祖.
次,葦娶虌見別命.竈口君等祖.
次,息長田別命.阿波君等祖.
次,五十目彥王命.讚岐君等祖.
次,伊賀彥王.
次,五田王.尾張國丹羽建部君等祖.
次,佐伯命.參川御史連等祖.然,按姓氏錄參河國御史連,景行皇子氣入彥命之後也,與此紀異.
とあります。景行天皇の頃から始まった「別君(わけのきみ)」の制度ですね。
直接皇族を地方に派遣して中央政府との関係を緊密にするための制度です。
では、この「息長田別王」阿波のどこにいらっしゃったんでしょうか?
見にくくてすいません。画像は「国府町資料」なんですが、原典は「小杉榲邨」の
「阿波徴古雑抄」からです。
一番左の行、二行に
海部城(あまぎ) 年歴不詳
主将長田別王子より世々國司の城也、今尼木と云
とあります。阿波の名東郡にあった城の記載です。
「阿波古城記」にも「尼木城」の名は出てきますが、由緒は不明と書かれてました。
では更にこの「海部城」どこにあったか?
徳島市国府町との境目あたり「名西郡石井町尼寺(にじ)」です。
どうして?と言われても、この辺りは「尼木」と言われてたんだからしょうがない。
さらに、ここらは「尼寺古墳群」で有名な場所です。
GoogleMapを載せておきます。
近くに「白鳥神社」が見えますね。無論「倭建命」をお祀りしてありますし、「倭建命陵」
であるとの説もあり、わたくしめもその説を支持する立場の物であります。
で、Mapにマークがついてますね。なんでしょうか?(そりゃ知らんわな)
この「尼寺古墳群」、山自体が古墳群でありますが、一号墳、二号墳と呼ばれる二箇所
しか調査が行われておりません。
で、こんな所から上がっていって、うろうろしてるうちに
こんな塚穴に出会ってしまうんです。それがMapのマークしてある場所です。
無論、発掘調査はされていません。
「石井町史」をはじめ、「総合学術調査報告」等の資料を軒並み繰ってみても、見当たり
ませんでした。
地元の人がお祀りしているだけみたいです。
ここが「海部城跡」の一部だった事は確信しています(誰も言わないけどね)
さて、ここはどなたの陵(みささぎ)だったのでしょうか・・・
「息長田別王」の陵とは言いませんが、この辺りにいらっしゃった事は間違いなさそうです。
2010年12月9日木曜日
京都市 伏見区 金札宮
寒くなってまいりました。皆様方には風邪などお召しになっておられませんでしょうか。
風邪には市販のショウガ湯にさらに摺りおろしたショウガをたっぷり加えて飲む
「激・生姜湯」が効きますよ。
さて、阿波から勧請された神社についていくらか書いてきましたが、キリがないので
ここらで一旦終わります。
無論、何か分れば都度都度書いていきますが、それだけで記事にしていくのは
ここいらにしときますって事です。
で、京都市伏見区鷹匠町の「金札宮」です。
伏見における最も古い神社の一つであるそうです。
場所はここ。
より大きな地図で 金札宮 を表示
御祭神は
天太玉命(あめのふとたまのみこと)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
こんなブログを見てくれてる人には
「もうこれ以上書かなくてもいいっしょ」と言いたくなります。
「金札宮」HPにある縁起・由緒を見ると
天平勝宝二年(750年)長さ二丈におよぶ流れ星が降るという異変があり、孝謙天皇が深く
憂慮されていた時、伏見久米の里に翁が居て、白菊を植えて楽しんでいる所業が、いかにも
奇妙なので、里人が翁に名前を問うたところ、「吾は、太玉命で天下の豊秋を喜び、年久し
く秋ごとに白菊を賞でて来たり、もし干天で、稲が枯れる時には白菊の露を潅がむ。」と、
手に持った白菊を打ち振るうと、たちまちにして、清水が湧き出てきて尽きる事がありませ
ん。
そして言われるには、「人々一度この白菊に霑えば、たちどころに福運が着て、家運は長く
隆盛し、子孫繁栄し、火災の禍から除かれるであろう。」
里人はこの奇端に驚き天皇に奏上したところ天皇は事のほか喜ばれ「金札白菊大明神」の
宸翰を里人に与えられたので、里人は力を合わせて社殿を造営したと記録されています。
伏見(高天原より臥して見たる日本の事)に宮居建設中、突然金の札が降り、札には、永く
伏見に住んで国土を守らん、という誓が書いてありました。
何事かと人々が集まって来るうちに、虚空から声がして、「我こそは天照大神より遣わされ
た天太玉命なり、我を拝まんとすれば、なお瑞垣を作るべし」と、聞こえたという話になっ
ております。
またあるいは、清和天皇の御代、貞観年間(859~876年)橘良基が阿波国より天太玉命を勧
請したものとも伝えられています。
一応、簡単に解説しておくと
フトダマは、日本神話に登場する神。『古事記』では布刀玉命、『日本書紀』では太玉命、『古語拾遺』では天太玉命(あめのふとだまのみこと)と表記する。忌部氏(後に斎部氏)の祖の一柱とされる。 wikipediaより
阿波忌部氏の系図によると、太玉命の義理の兄弟が阿波忌部の祖である「天日鷲命」です。
「古語拾遺」によると、天日鷲は太玉命に従う四柱の神のうちの1柱である。
太玉命の孫天富命が、天日鷲の孫(阿波忌部氏系図では由布津主命)を率いて、阿波の国(徳島県)、更に総の国(千葉県)を開拓したとあります。
回りくどい書き方ですが、「天太玉命」が阿波忌部の祖神と深い関わりがある、もっと
言えば(県外の人向けに言えば)阿波の神だってことです。
とまあ、またしても神社の紹介だけになってしまいました。
これじゃあ、つまんないので以後は単独で阿波から勧請された神社の紹介は
やめとこうかなって思ったのです。
でも、何かと絡めて.... なんて考えてると一生書けなくなってしまいますので
また「あっ」と驚くような記事になれば紹介していってしまっててれてれして
しなくても、してもいいかな(なんじゃこりゃ)と考える師走のこの頃です。
(素直に終われない因果なおじさんです)
風邪には市販のショウガ湯にさらに摺りおろしたショウガをたっぷり加えて飲む
「激・生姜湯」が効きますよ。
さて、阿波から勧請された神社についていくらか書いてきましたが、キリがないので
ここらで一旦終わります。
無論、何か分れば都度都度書いていきますが、それだけで記事にしていくのは
ここいらにしときますって事です。
で、京都市伏見区鷹匠町の「金札宮」です。
伏見における最も古い神社の一つであるそうです。
場所はここ。
より大きな地図で 金札宮 を表示
御祭神は
天太玉命(あめのふとたまのみこと)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
こんなブログを見てくれてる人には
「もうこれ以上書かなくてもいいっしょ」と言いたくなります。
天平勝宝二年(750年)長さ二丈におよぶ流れ星が降るという異変があり、孝謙天皇が深く
憂慮されていた時、伏見久米の里に翁が居て、白菊を植えて楽しんでいる所業が、いかにも
奇妙なので、里人が翁に名前を問うたところ、「吾は、太玉命で天下の豊秋を喜び、年久し
く秋ごとに白菊を賞でて来たり、もし干天で、稲が枯れる時には白菊の露を潅がむ。」と、
手に持った白菊を打ち振るうと、たちまちにして、清水が湧き出てきて尽きる事がありませ
ん。
そして言われるには、「人々一度この白菊に霑えば、たちどころに福運が着て、家運は長く
隆盛し、子孫繁栄し、火災の禍から除かれるであろう。」
里人はこの奇端に驚き天皇に奏上したところ天皇は事のほか喜ばれ「金札白菊大明神」の
宸翰を里人に与えられたので、里人は力を合わせて社殿を造営したと記録されています。
伏見(高天原より臥して見たる日本の事)に宮居建設中、突然金の札が降り、札には、永く
伏見に住んで国土を守らん、という誓が書いてありました。
何事かと人々が集まって来るうちに、虚空から声がして、「我こそは天照大神より遣わされ
た天太玉命なり、我を拝まんとすれば、なお瑞垣を作るべし」と、聞こえたという話になっ
ております。
またあるいは、清和天皇の御代、貞観年間(859~876年)橘良基が阿波国より天太玉命を勧
請したものとも伝えられています。
一応、簡単に解説しておくと
フトダマは、日本神話に登場する神。『古事記』では布刀玉命、『日本書紀』では太玉命、『古語拾遺』では天太玉命(あめのふとだまのみこと)と表記する。忌部氏(後に斎部氏)の祖の一柱とされる。 wikipediaより
阿波忌部氏の系図によると、太玉命の義理の兄弟が阿波忌部の祖である「天日鷲命」です。
「古語拾遺」によると、天日鷲は太玉命に従う四柱の神のうちの1柱である。
太玉命の孫天富命が、天日鷲の孫(阿波忌部氏系図では由布津主命)を率いて、阿波の国(徳島県)、更に総の国(千葉県)を開拓したとあります。
回りくどい書き方ですが、「天太玉命」が阿波忌部の祖神と深い関わりがある、もっと
言えば(県外の人向けに言えば)阿波の神だってことです。
またあるいは、清和天皇の御代、貞観年間(859~876年)橘良基が阿波国より天太玉命を勧
請したものとも伝えられています。
との縁起の一説を見るまでもなく、素直に見れば阿波より勧請された事に間違いないで
しょう。勧請されたのが天平勝宝二年(750年)なのか貞観年間(859~876年)なのか
の違いだけですね。
上の画像のように謡曲にもなっているそうです。
小松島市 建島女祖命神社から波爾山比賣命が滋賀県高島市の波爾布神社に勧請
されたのが天平十三年(741年)、「天平の頃って何があったんだ?」って
思わず叫びそうになっちゃいます。
これじゃあ、つまんないので以後は単独で阿波から勧請された神社の紹介は
やめとこうかなって思ったのです。
でも、何かと絡めて.... なんて考えてると一生書けなくなってしまいますので
また「あっ」と驚くような記事になれば紹介していってしまっててれてれして
しなくても、してもいいかな(なんじゃこりゃ)と考える師走のこの頃です。
(素直に終われない因果なおじさんです)
2010年12月5日日曜日
京都市 半木神社
えーと、まだほとんど調べられてないんですが、書け書けとおっしゃる方が
今日いらっしゃいましたので、分ってる事だけ書いておきます。
京都市の下鴨植物園の中に「なからぎの森」というのがございまして、そこに
半木(なからぎ)神社がございます。
一応、上賀茂神社の境外末社ということであります。
場所はここ
大きな地図で見る
だけど境外末社って言ったって1km近く離れてるぞ。ほんとかよぉ。
もうこれでいい?
あ、だめ?
はいはい。
かつては、「流木(ながれき)神社」ともいわれた。
「半木(なからぎ、ながらぎ)」は、「なから木」「なかれ木」「流木」などとも呼ばれた。
この地より鴨川の上流になる西賀茂に、かつて「浮田(うきた)の森」というのが
あった。
鴨川の氾濫により、三座の一つがこの地まで流され、このことから「流木」と呼ばれた
ともいう。
それで、現在地が、上社(上賀茂神社)と下社(下鴨神社)の間にあることから、半木と
呼ばるようになったともいう。
かつては「中賀茂」とも呼ばれた。ただ、この「中賀茂」は、下鴨神社を意味するという
見方もある。
平安時代、「中賀茂」、「中の御社」は下鴨神社を指し、さらに南に位置する河合神社が
「下の御社」とされたともいう。
別に、半木神社の解説があるサイトを見ると
半木(なからぎ)神社はかつては流れ木神社とも言い、京都に平安京が出来る前からある
古式ゆかしい神社です。
半木神社がある地方は、錦部の里と称されていましたが、これはこの地を開墾した賀茂族
が養蚕をして絹織物を生産していたためでした。
その後平安時代になって、後一条天皇の時代になり、1018年(寛仁2年)朝廷から正式に
賀茂別雷神社(上賀茂神社)の社領地として、錦部郷の名称を賜り、寄進されました。
養蚕業に携わっていた賀茂族と秦族との人々が、その職業の守護神として四国の阿波から
天太玉命(あまふとたまのみこと)を勧請鎮祭しました。
こうみると勧請されたのは1018年(寛仁2年)のように見えますが、上賀茂神社の境外末社
と言われている事、「平安京が出来る前からある」こと、「またかつては「中賀茂」とも
呼ばれ、下鴨神社を意味するという見方もある」という記述を考えると安易にこの年代を
信用できませんよね。
要はさらに遡るのではないかということです。
今日いらっしゃいましたので、分ってる事だけ書いておきます。
京都市の下鴨植物園の中に「なからぎの森」というのがございまして、そこに
半木(なからぎ)神社がございます。
一応、上賀茂神社の境外末社ということであります。
場所はここ
大きな地図で見る
だけど境外末社って言ったって1km近く離れてるぞ。ほんとかよぉ。
一応京都は上賀茂に4年間いたんで土地勘はありますし、植物園にも行きました
のですが、ここは憶えがないなあ。
祭神は、天太玉命(あめのふとだまのみこと)もうこれでいい?
あ、だめ?
はいはい。
かつては、「流木(ながれき)神社」ともいわれた。
「半木(なからぎ、ながらぎ)」は、「なから木」「なかれ木」「流木」などとも呼ばれた。
この地より鴨川の上流になる西賀茂に、かつて「浮田(うきた)の森」というのが
あった。
鴨川の氾濫により、三座の一つがこの地まで流され、このことから「流木」と呼ばれた
ともいう。
それで、現在地が、上社(上賀茂神社)と下社(下鴨神社)の間にあることから、半木と
呼ばるようになったともいう。
かつては「中賀茂」とも呼ばれた。ただ、この「中賀茂」は、下鴨神社を意味するという
見方もある。
平安時代、「中賀茂」、「中の御社」は下鴨神社を指し、さらに南に位置する河合神社が
「下の御社」とされたともいう。
別に、半木神社の解説があるサイトを見ると
半木(なからぎ)神社はかつては流れ木神社とも言い、京都に平安京が出来る前からある
古式ゆかしい神社です。
半木神社がある地方は、錦部の里と称されていましたが、これはこの地を開墾した賀茂族
が養蚕をして絹織物を生産していたためでした。
その後平安時代になって、後一条天皇の時代になり、1018年(寛仁2年)朝廷から正式に
賀茂別雷神社(上賀茂神社)の社領地として、錦部郷の名称を賜り、寄進されました。
養蚕業に携わっていた賀茂族と秦族との人々が、その職業の守護神として四国の阿波から
天太玉命(あまふとたまのみこと)を勧請鎮祭しました。
こうみると勧請されたのは1018年(寛仁2年)のように見えますが、上賀茂神社の境外末社
と言われている事、「平安京が出来る前からある」こと、「またかつては「中賀茂」とも
呼ばれ、下鴨神社を意味するという見方もある」という記述を考えると安易にこの年代を
信用できませんよね。
要はさらに遡るのではないかということです。
ちょっと小さいですけど由緒です。
御祭神の辺りなら読めるでしょ。
天太玉命(あめのふとだまのみこと)と表記されている事から忌部の系統として
勧請された事が分ります。
だ〜か〜ら、ここら辺までしか分ってない訳ですよ。
書く事書いたから、あんまりいじめないでね。
2010年12月1日水曜日
すいませんでした(おまけつき)
安比古さん、すいませんでした。
2回目のコメントも反映されてませんでした。
結果的にはスパムフィルタだったのでした。
(Googleのフィルタ設定もちょっと変なのですが......)
いい機会なので、コメント記入の手順を書いておきます。
2回目のコメントも反映されてませんでした。
結果的にはスパムフィルタだったのでした。
(Googleのフィルタ設定もちょっと変なのですが......)
いい機会なので、コメント記入の手順を書いておきます。
まあ、こうゆう記事があったとします。
で、最後のところの
「コメント」のところをクリックしますと一番下に
「コメントを投稿」が表示されます。
そこにコメントを入力して
「プロフィールを選択」のドロップダウンから「名前/URL」を選びます。
すると下の画面が表示されるので
名前を入力してください。
で、「次へ」をクリック。
コメントの記入者に名前が表示されます。
で「コメントを投稿」ボタンをクリック
こんな感じで、コメントの投稿が終了するはずです。
この手順で間違いないはずなので、「おかしいな?」と思った時は
すいませんが、ご確認ください。
(うわぁ、家で仕事してる気分)
で、これだけで終わるのは申し訳ないので、お詫びにおまけを。
東京都の神津島に「阿波命神社」という神社があります。
場所はここ
こうやって東京から180Km南にある神津島にある神社なんですが
御祭神は「阿波咩命」
由緒として
阿波咩命は三島大社の本后にして神異を顕し、島を造りて其の造れる島に鎮座し
給う事は續日本後紀に承和七年九月乙末伊豆國言ス賀茂ノ郡有造作島本名上津島。
此島に坐ス阿波神ハ是三島大社本后也。又坐ス物忌奈ノ命ハ即前社ノ御子神也。
とみえ三宅記に神津島に置給う后をば長濱の御前とぞ申しけるとあり。
古き上梁文に長濱大明神輿奉申御神者當鎮守神集島定大明神御母神也とあるにて
明かなるべし。
とあります。が、「阿波咩命」については「三島大神(事代主命)の本后」と
あるだけで、なにがなんやらという感じでした。
気にはなっていたので調べてましたら「土佐國土佐郡 朝倉神社」について
土佐之国史料類纂である「皆山集」に
「天御梶日女神(味鋤高彦根命の后神であり、天津羽々神と同一)
(亦名 阿波咩命、阿波々神、阿波神)」
とあるそうです。
原本は確認できてませんので、断言はできませんが。
そうであるならば
「阿波咩命」は「天津羽々神」
「天津羽々神」は「別名 天石帆別神 天石門別神の子」なので
櫛石窓神(くしいわまどのかみ)、豊石窓神(とよいわまどのかみ)
あるいは「天太玉命(あめのふとだまのみこと)」
の子であります。
おおお、安房に進出した忌部の系統であることが明らかですね。
以上おまけでした。
これについての追求は別にしますので。
コメントが反映できてなくすいませんでした、とのお詫びに代えさせていただきます。
安比古さ〜ん、またコメント書いてみてくださいね。