2023年7月21日金曜日

備忘録:率川阿波神社

 お見限りでございます。
ながらく書いておりませんでしたのでリハビリ代わりにびぼーろくなど。

率川神社(いさがわじんじゃ)は、奈良県奈良市本子守町にある神社。大神神社の境外摂社で、正式名称を率川坐大神御子神社といい、また子守明神とも呼ばれる。『延喜式神名帳』に「率川坐大神神御子神社 三座」と記載される式内小社。

推古天皇元年(593年)2月3日、大三輪君白堤が勅命により神武天皇の皇后である媛蹈韛五十鈴姫命を祭神として奉斎したとされ、奈良市最古の神社という。後に元正天皇によって本殿の右側には媛蹈韛五十鈴姫命の父神である狭井大神を、左側には母神である玉櫛姫命が祀られるようになった。



率川阿波神社

率川神社末社の住吉社と春日社の合間に鎮座する。

率川神社の境内に鎮座する末社で、式内社。

宝亀2年(771年)、大納言是公による建立と伝わり、仁寿2年(852年)、従五位下を授けられている。『延喜式神名帳』に「率川阿波神社」と記載される式内小社。祭神は事代主命で、一般に恵比須神と言われ、6月17日の例祭とは別に1月5日に初戎が行われる。


率川神社境内にあり、その本殿瑞垣外東に鎮座の小祠を式内の当社に比定されている。淳保二十年(1735)無名園古道翁の書である『奈良坊目拙解』に「率川阿波神社旧跡は南側東方より第二軒目の人家裏をいい、当時松樹一株存し神木たり。甚だ廃亡、嘆くべし悲しむべし」とある。祭神は事代主命で、子守明神の若宮である。宝亀二年(771)大納言是公の創祀と伝えられ(「奈良坊目拙解」)、「文徳実録」には、仁寿二年(852)十一月辛丑、従五位下の神位を授けられたと出ている。天文元年(1532)の一揆や度々の火難に廃絶、大正九年現位置に社殿を再建された。
-奈良県史(神社)より-

画像は「奈良坊目拙解」五巻より。
ちなみに

奈良坊目拙解」
無名園古道(村井勝九郎)著で成立は享保二十年(1735年)
南都七郷にはじまる各町の町名由来、寺社堂塔の由緒・古伝・現況など約二百種の古典書目から引用傍証、現地の古老の説を採訪した漢文体の地誌。博覧・詳細な記述で奈良市内坊目に関する書物では内容豊富。

というものです。



まあ、ざっくり言えば上の立て札にあります様に

摂社 率川阿波神社(いさがわあわじんじゃ)
御祭神 事代主神(ことしろぬしのかみ)
御例祭 6月17日
初戎祭 1月5日

御由緒
この御社は、平安時代の「延喜式」にも記され、御祭神・事代主神は本社の大物主大神の御子神で、俗に恵比須様と申し上げます。
社伝によると宝亀二年(771)藤原是公が 夢のお告げにより 阿波国より勧請したと伝えられています。
1月5日の初戎祭は奈良で一番古い福徳成就の祭で 商売繁盛をはじめ生活守護の神様として多くの参拝者で賑わいます。



また、率川神社の由緒書に「奈良市最古のえびすさん」と記される。

さて、ここで
ちょっと読みにくそうなので翻刻版を


三輪叢書より率川若宮阿波神社(率川阿波神社)の項を引用すれば。

率川若宮阿波神社一座 舊跡今在於西 城戸坊南側、
當初祭神事代主命也 

古事記 曰大國主神娶神尾楯比賣命生子事代主神、云云、延喜式神名帳上曰大和國
添上郡率川阿波神社 一座小、 
同下卷曰阿波國阿波郡建布都神社一座、事代主神社一座小、 
社傳曰寶龜二年冬比大納言藤原是公夢云吾狹井御子神也、汝氏神建布都神 社考劔之神 ○霊魂也 共住阿波國互有相親而令皇孫命依召集項 吾與建布都神共來臨于帝都歟 、建布都神欲留三笠山,於是吾等思居住率川邊宜敬祭之是公依夢告造神殿、自阿波 勸請之仍云阿波神也 

とありますので阿波郡建布都神社と事代主神社より勧請されたことが伺えます。

建布都神については、藤原是公の夢に「我は狭井御子神である。お前の氏神の神建布都神と共に阿波国に住んでいるが、今皇孫命の招集により神建布都神と共に都にいる。建布都神は御笠山に、我は率川の辺に住みたいと思うので祀れ」と告げられたので、社殿を建て、阿波国から勧請して祀った

※三輪叢書 出版者. 大神神社社務所 三輪神道 奈良県三輪山麓(さんろく)の大神(おおみわ)神社の縁起(えんぎ)を基として形成された神道の資料。『三輪大明神縁起』(『続群書類従神祇(じんぎ)部』所収)がもっとも端的、ほかに『三輪叢書(そうしょ)』(五巻)、『大神神社史料』(10巻)がもっとも新しく詳細である。

この辺りは先に出した「奈良坊目拙解」にも

「社傳曰・・・」として記載されております。

つまり「率川阿波神社」については阿波國阿波郡「事代主神社」より勧請されたと。
阿波市市場町伊月字宮ノ本 事代主神社

旧跡地については「三輪叢書」に
地図の左下に「若宮阿波社跡」とありますです。

さらに徳島県神社誌「事代主神社」を見れば。


「伊月城附記して曰く、当国の元祖人皇三代安寧天皇の御宇出雲刻事代主命当国に移り給ふとき五十鈴依媛命斎御座す。」云々とあり、率川神社の御祭神が神武天皇の皇后である媛蹈韛五十鈴姫命であり、五十鈴依媛命はその妹であることを鑑みると、結構納得できるのもがある様に思えませんか。


さてもう一点。
建布都神といえば建御雷神(たけみかづち)のこと、つまり。

『古事記』では建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)、建御雷神(たけみかづちのかみ)、別名に建布都神(たけふつのかみ)、豊布都神(とよふつのかみ)と記され、『日本書紀』では武甕槌や武甕雷男神などと表記される。単に「建雷命」と書かれることもある。
また、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の主神として祀られていることから鹿島神(かしまのかみ)とも呼ばれる。
wikipedia

この神が「阿波國阿波郡建布都神社」よりやってきました。



どこに?

我は狭井御子神である。お前の氏神の神建布都神と共に阿波国に住んでいるが、今皇孫命の招集により神建布都神と共に都にいる。建布都神は御笠山に、我は率川の辺に住みたいと思うので祀れ」

ふ〜ん、奈良の御笠山(御蓋山)の建布都神(武甕槌命)を祀る神社って、どこ?
まさかこんなトコじゃないっすよね。
○日○社

鹿島の建布都神については何度も何度も書いてきましたので、ここでは書きませんが、上の写真の神社はその由緒に鹿島から勧請したとあります。
それが奈良時代の神護景雲2年(768)。

あとは言わずもがなというところでしょう。
口幅ったいですけどこの場合の勧請っていうのは何も無い所に御祭神をお呼びするのじゃなくて、いわゆる古跡にお墨付きを与える、もしくは古跡の正当性を立証するような意味があると思うんですよね。
率川阿波神社の場合は、事代主がいた阿波からやってきた場所が忘れ去られてるのできちんとお祀りしましょうねって意味か、その頃に何か不吉なことなどがあって「これは○○神をきちんとお祀りしてないからじゃ」って畏れ奉った場合などがあるんじゃないかな。

などと思いつつ、びぼーろくとさせていただきます。

これ、ぜったいどっかで使われそうだな〜。

10 件のコメント:

  1. 師匠!休み過ぎです(笑)

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  2. 急かしちゃったみたいですみません😅
    しかしこれだけの内容がすっと出てくるんですから先生の引き出しの広さに驚きます!

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    1. おほめいただき、きょうしゅくです。

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  3. 祝再開。地名の伊月(いつき)はこの伊都伎島(いつき)とはたまたま音近いってだけでなんの関わりも無いのでしょうね。こじつけまでした。

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    1. 伊都伎島神社とは御祭神が違いますしね。

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  4. 久しぶりの再開、大変うれしく思います。ご健康を案じておりましたよ。故郷を離れて50年以上になりますが未だに徳島の事、気になります。現役時代会社の仲間たちからよく質問を受けました。「祖谷」の地名が読めない、地名の由来は?。古代中国の倭字の発音、古事記の伊予の二名島から連想される国名(地域名?)「イ」が徳島に該当すると認識しておりましたが納得ある説明はできませんでした。最近ふと気づきました。「祖」の字、家系を開いた人、それを受継いだ人々の意味のほかに「始め」、「大本を受継ぐ」などの意味もあるそうですね。やっと納得ができました。我が国の始まりの地を示すために「祖」の字をあて、さらに旧名「イ」を残すため本来無き読み方「イ」を残したのではないかと。すなわち我国発祥の地にある谷、祖谷である。いつ頃から祖谷の地名が使われだしたのか知識がありませんが先人の知恵に敬服しております。(無理筋かも知れません)

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    1. 「祖谷」 と言われる前はどうも「弥山」と呼ばれていた形跡があります。いわゆる「須弥山(しゆみせん)」の略称です。
      そのあたりがヒントになりそうなのですが、とにかくあの近辺史料が無さすぎて困ってます。

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  5. 江戸時代に発禁になった先代旧事本紀大成経という本があります。
    この元ネタの情報源が、「平岡宮」と「泡輪宮」に秘蔵されている土簡という設定になっていて、「平岡宮」の場所は枚岡とすぐわかるのですが、「泡輪宮」は全くの謎です。
    千葉の安房神社だという人が多いですが、私は奈良の率川と思っていました。
    大成経の作者、長野采女のお膝元の群馬県に「泡輪神社」が存在するからです。

    群馬縣「管下」上野國緑埜郡中邨字宮前  村社 泡輪神社
    一 祭取神 大物主命 天富命
    一 由緒 大和国添上郡率川二座大神ノ御子率川阿波ノ御神ナリ、右大臣是公建立、就中本村へ御遷シ年限不詳候へ共宝永五子年再興卜同年縁記二有之候
    (『緑埜郡神社明細帳原簿』明19)

    そうは思っても、実際に率川に行ってみると、旧跡も違うしやはり残念な感じでした。
    そこで醒めてしまっていたのですが、その率川阿波にさらに元社があったとは。
    そして二の鳥居があった粟島村とは!
    ダイナマイトまで出してくるような禁断の地なんて「泡輪宮」としか思えません。
    久しぶりに興奮しました。
    すばらしい情報、ありがとうございます。

    あと余談ですが、
    下総の粟飯原の妙見は、元々は群馬県高崎市の「花園妙見寺」のものです。
    その花園妙見寺も大阪の河内由来です。
    『続日本紀』光仁天皇の宝亀八年(七七七)八月十五日の条の
    「上野国ノ羣馬ノ郡戸五十烟。美作ノ国勝田郡五十烟ヲ拾ス二妙見寺ニ一」
    河内郡天白山から勧請したのではないかと言われています。
    平将門が上野国司から印鑰を奪ったのも花園妙見寺の近くです。
    粟飯原文次郎は妙見像の奪取のために3年くらいこの寺にいましたので、
    大粟の情報もそこから→長野氏→大成経とか、
    そういう流れはありそうです。

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    1. コメントありがとうございます。
      面白そうですので、先代旧事本紀大成経も見てみますね。

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