今調べてる、石井町の◯◯神社はもう一箇所ぜひ行っとかないと書けないので
ちょっと後回し。
ネットだけで調べた、お手軽記事で申し訳ないですが。
で、また前にのらねこ師匠も書いてると言うところなんで肩身を狭くして書いてきます。
泉大津市に鎮座する「大津神社」大阪府泉大津市若宮町
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由緒
大津神社鎮座の起源は「小津の泊まり」に祀られた小祠であったといわれます。その後鎌倉時代に八幡大神を勧請し、以来「若宮八幡宮」と称していましたが、明治四十一年に、宇多神社、神明神社、菅原神社の三社を合祀し、事代主神社を境内社として合併し、式内粟神社を境内に移転した際に、「大津」の総鎮守として、「大津神社」と改称されました。
大津神社ホームページより
で、書きたいのは「式内粟神社」ですね。
『延喜式巻第九』に、和泉國六二座 和泉郡廿八座(並小) 粟神社
とあります。
御祭神 天太玉命
由緒としては
『続日本紀巻三十四』に、寶龜七年六月甲子。近衛大初位下粟人道足等十人賜姓粟直。
とあります。粟氏は忌部(斎部)氏の一族で、四国の「阿波」、千葉の「安房」など太平洋沿岸に勢力を誇っていました。この粟氏の一派、粟直の人々が、大津に来住して忌部(斎部)氏一統の祖神、天太玉命をまつったものが即ち、粟神社です。
大津神社ホームページより
また
摂社粟神社はもと宇多大津粟戸にあった式内社で、明治新政府の合祀令により明治41年4月に大津神社境内の現地に移転した。現在覆屋内に納められている。泉大津市有形文化財。
ともありました。
(画像はまたしてもGoogle画像検索よりからなので問題があればすぐ消します)
現在言うところの大津神社より圧倒的に古い創建です。
そして、ここを祀ったのが「粟氏の一派、粟直の人々」とあります。
粟直は多分「粟凡直(あわのおおしのあたい)」の一族のことで
「粟国造(あわのくにのみやつこ)」、国造氏族です。
新編姓氏家系辞書で粟国造・粟凡直は粟忌部の宗家と書かれているそうです。
ちなみに石井町の中王子神社には「粟凡直弟臣之墓」があります。
小松島市 建島女祖命神社から波爾山比賣命が滋賀県高島市の波爾布神社に勧請
されたのが天平十三年(741年)
京都市 伏見区 金札宮が勧請されたのが天平勝宝二年(750年)
石井町の多祁御奈刀弥神社から「信濃諏訪郡南方刀美神社」に分祀されたのが宝亀10年(779年)
この粟神社が祀られたのが宝亀七年(777年)。
それも粟直、いわば県知事クラス一派として姓を賜った一族の移住ですね。
この時期にこれだけ遷座が行なわれているのは、どうみても何かの意図を感じられませんか。(ボクだけかな(笑))
ついでに(何が)天平寳字七年(763年)粟国国司として聖武天皇の弟である菅生王が入国しております。
どーだ、怪しいでしょう(笑)
8世紀に正史が歪んだのは間違いないですね。
返信削除なぜ、ここまでする必要があったのでしょう。
私はアークとかではないと思いますけど、余程の理由があります。
to のらねこさん
返信削除やだやだやだ〜、アークがなくちゃ面白くないじゃないっすか(笑)
空海とアークを狙う唐の縹氏の暗躍がなくちゃ(笑)
はさておき、国策として阿波からの遷座を行なってるような感じです。
阿波隠しと繋がるんでしょうか。
県外の「あわ」神社や、「あわ」の地名をたどるのは楽しいですネ♪
返信削除行きたい場所だらけですが・・・仕事関係のイベントにも顔を出さないといけないし・・・。
資料を揃えていただき(笑)、とっても役立っております(●^o^●)♪
to すえドンさん
返信削除毎度ご利用ありがとうございます(笑)
なんて、すえドンさんのブログの方がよっぽど役に立ちますヽ(*^^*)ノ。
それにしても、ホントに行きたいとこばっかりですね。
ところで、うちの嫁の伯父さんと話してたら、どうも川田八幡の氏子の方
らしくて、まだ行ったこと無いと言うと、叱られてしまいました(笑)
ぐーたらさん、おはようございます。
返信削除昨日、徳島古事記研究会に参加しておりました。
ぐーたらさんに教えていただいた長国の建島さんから近江のはにふ神社へに勧請ですが、
5月27日に建島さんで勧請祭を行うことが決まりました。
まだ、日取りだけで何も決まってないようですが、
もし、お時間の都合がつけば、発見者のぐーたらさんにご参加していただければといいな~と。
勧請祭といっても、肝心の宮司さんに参加していただけないので、
参拝だけするような形になるかもしれません。
また、詳しいことがわかったらご連絡させていただきます。
取り急ぎご連絡とお願いでした。
to サクラサク4869さん
返信削除ご招待ありがとうございます。
参加させていただきたいと思いますので、極力、予定を空けときます。
(いつも空いてるだろって?そうでもないんです(笑))
はじめまして、阿波の古代に興味をもってまだ間が無いのですが、暇に任せてうろついています。
返信削除よろしくお願いします。きっかけは複数あるのですが、一つは三村さんが同じ町内で事業をしていたことがあります。
阿波からの遷座の話では、諏訪大社で大きな衝撃を受けました。
倭の時代から日本へ変遷する中で、はくすきえの敗戦は大きな意味があったと考えております。丁度明治維新や昭和20年代に似ていたと思います、激変、動乱の時期を経て法治国家として中央集権が確固たるものになり、正史をちょっと都合の良いものに書き換え始めたのが日本書紀あたりでは無いでしょうか?そこからはもう、どこかの半島国家のように、隠蔽、創作の山を築くことになったと推測されます。したがって8世紀は捏造の世紀となったのでしょう。その中で徳島の歴史は埋没していったのだと思います。
今年は寒いですね、早く春が来ないかと・・・たたなずく青垣を見に四国山系へ入って行きたい今日この頃です。
to rakujinさん
返信削除はじめまして、コメント遅くなりました。
また寒くなりましたね。
でも神社巡りにはいいかもしれませんね、夏は虫が多いし山が多いので
きついですよね。
諏訪大社への遷座もそうですが、ひとつ大きなことに気が付くと、後は
もう止まりません(笑)行き着くとこまで行って下さい。
お手伝いします(笑)
白村江の戦いも大きな転換点でありましたし、その後の壬申の乱でとどめを
刺したのでしょう。
ただ、各神社の遷座を見ると、単に史書の捏造だけではない様に思います。
先ほどの諏訪神社ですが、石井から「なぜ諏訪か?」との説明ができない
からです。他の地ではなぜいけなかったのでしょうか?
なぜ小松島から滋賀なのか?
疑問は深まるばかりです。
また、一緒に考えていただければ幸いです。
アホなブログですので、どうにでも突っ込んで下さい(笑)