tag:blogger.com,1999:blog-718874097527579234.post3918378743371232322..comments2024-02-27T03:02:49.317+09:00Comments on ぐーたら気延日記(重箱の隅): 阿波國続(後)風土記について(7)土御門天皇御舊跡考證(里浦の部)ぐーたらhttp://www.blogger.com/profile/17983995401005232758noreply@blogger.comBlogger9125tag:blogger.com,1999:blog-718874097527579234.post-12407811347663706612013-05-27T22:16:31.357+09:002013-05-27T22:16:31.357+09:00次の記事
http://goutara.blogspot.jp/2013/05/blog-post_...次の記事<br />http://goutara.blogspot.jp/2013/05/blog-post_27.html<br />にちょっとだけ書いてみました。<br />御覧下さい。ぐーたらhttps://www.blogger.com/profile/17983995401005232758noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-718874097527579234.post-61424324241849695772013-05-27T22:14:12.662+09:002013-05-27T22:14:12.662+09:00清少納言の出てくる文献は、結構あるので、そこらを出して行くのは時間的にもキツいものがあります。
とは...清少納言の出てくる文献は、結構あるので、そこらを出して行くのは時間的にもキツいものがあります。<br />とはいうものの、それでは納得できない部分もあると思いますので、ちょっとだけ出してみますね。ぐーたらhttps://www.blogger.com/profile/17983995401005232758noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-718874097527579234.post-39636232555363039552013-05-27T14:26:31.363+09:002013-05-27T14:26:31.363+09:00鳴門の土人です。
ぐーたらさんにお願いがあります。
” 他の文献に晩年の様子が出ているものもあり(『...鳴門の土人です。<br />ぐーたらさんにお願いがあります。<br />” 他の文献に晩年の様子が出ているものもあり(『古事談』とか、『古今著聞集』とかね)そこいらは、調べてみるべきでしょう”<br /> と言われたのですが、私は素人で文献を読むのはちょっと無理です。<br />関連する記事を読んでいて気になる記事を見つけたのですがブログは<br />” しばらくお休みさせていただきます。”<br />となっていて問い合わせすることもできません。<br />” 枕草子談義 (その6の②)”<br />の記事に<br />” 余談であるが、清少納言の最後は、一説によると、土佐から京への帰り道、徳島の鳴門、岡崎海岸で乗っていた船が襲われて、殺されたといわれる。 享年60余歳か。 その墓が今も鳴戸市里浦町にあり、ある住宅地図にも 「清少納言の墓」と記されているらしい。 その墓のすぐそばにある家は 元 清少納言の家来で、 今も代々墓守をしているという。 機会があれば、ぜひ私もお参りして、線香をたむけてみたい。”<br />とありました。<br />文献を考証していただけないでしょうか。<br />Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-718874097527579234.post-57948494924983896632013-05-24T23:17:25.234+09:002013-05-24T23:17:25.234+09:00お返事遅くなりました。
詳しい調査ありがとうございます。
凄いですね、状況証拠が揃ってきましたね。相...お返事遅くなりました。<br />詳しい調査ありがとうございます。<br />凄いですね、状況証拠が揃ってきましたね。相当信憑性が出てきたと思います。<br />他にも里浦、清少納言説を推す人も多くいるようで、かなり「来てる」と思います。<br />確かに「土御門上皇の天塚」ではないでしょうし、藤棚と案内看板がお堂と関係ないのも分ります(笑)<br />ただ、他の文献に晩年の様子が出ているものもあり(『古事談』とか、『古今著聞集』とかね)そこいらは、調べてみるべきでしょう。また、香川県琴平金刀比羅神社大門 にも清塚があり(ここは「清少納言夢告げの碑」だから無視してもいいような気が)ますし。<br />それにしても、ここが清少納言の墓だったとしても、ちょっと淋しすぎる話ですね(余談でした)。<br />ぐーたらhttps://www.blogger.com/profile/17983995401005232758noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-718874097527579234.post-24074879673171056022013-05-23T15:45:53.515+09:002013-05-23T15:45:53.515+09:00鳴門の土人です。
ぐーたらさんの清少納言の墓の記事も読みました。このお堂の詳しい情報を入れます。
記...鳴門の土人です。<br />ぐーたらさんの清少納言の墓の記事も読みました。このお堂の詳しい情報を入れます。<br />記事には大塚堂となっていましたが天塚堂というそうです。Googleの地図のせいで間違えたのではないでしょうか。<br />このお堂は昔、隣に尼さんが居て(清少庵)管理をしていたのが戦後の法改正で観音寺の管理になったそうで清少庵は建て替えの工事をしています。<br />お堂の内部の写真は上村恵三朗さんの”清少納言は鳴門で・・”に載っています。<br />このお堂について尋ねたところ江戸時代の資料も残っているので清少納言の墓でほぼ間違いないそうです。<br /><br />” こんなお墓もありました。”と載せてあったお墓の写真はお堂を管理していた尼さんのお墓のようですね。<br />お堂の前の藤棚と案内看板は鳴門市の所有でお堂とは直接の関係はないそうです。<br />この案内看板は40年くらい前から同じものがあったと思いますが鳴門市が観光用に作ったものでしょうか。<br />ぐーたらさんが引用している阿波の民話にも清原元輔の領地のことは出ていますし、赤目の話で符合する人丸神社はお堂から300mほどですから江戸時代から残っているという資料を裏付けるものでしょう。<br />案内看板にある蜑塚説は十二神社の蜑の井や蜑屋敷,男狭磯の墓から100mほどなので同じものの可能性がある。また、内部の墓が都落ちした宮女の墓にしては立派すぎるので土御門上皇の天塚説もあるが天塚にしては貧弱すぎるといったところでしょうか。<br /><br />子供のころは胡散臭い話だと思っていたものがいろいろ調べてみたら本当の話だと思えてきました。<br />Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-718874097527579234.post-63605148728736562292013-05-15T22:22:39.884+09:002013-05-15T22:22:39.884+09:00はじめまして、よろしくお願いします。
>清少納言の父の所領であったそうですから尼塚説を否定するのには...はじめまして、よろしくお願いします。<br />>清少納言の父の所領であったそうですから尼塚説を否定するのには賛成できません。<br />どんどん否定して下さい。<br />書きっぱなしでは、淋しいですので(笑)<br />皆様の意見が聞きたいのです。そうでなくては、見えるものも見えてきません。<br />特に、この稿は「考證」を紹介させてもらってます。<br />次は「池ノ谷」の部を紹介させてもらいます。<br />またご意見お聞かせください。<br />あ、できればハンドルネームなど使っていただければ、ありがたいんですが。<br />名前の入力が無いと、全部「匿名」になってしまって、誰がどのコメントやら分らなくなってしまいますので。ぐーたらhttps://www.blogger.com/profile/17983995401005232758noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-718874097527579234.post-48175369430494158272013-05-15T22:17:55.264+09:002013-05-15T22:17:55.264+09:00おおっと、需要がありましたか(笑)
ALI 爺さん、調べまくってますでしょうに(笑)
で、阿波の村々...おおっと、需要がありましたか(笑)<br />ALI 爺さん、調べまくってますでしょうに(笑)<br />で、阿波の村々すべてですと?!!<br />そりゃ、死んじゃいますよ(笑)<br />キレイなお嬢さんにムラムラするなら元気になるんでしょうけど(あ、お下品ね)<br />では次は「池ノ谷」行きま〜す。ぐーたらhttps://www.blogger.com/profile/17983995401005232758noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-718874097527579234.post-49175459738385962392013-05-15T19:52:34.964+09:002013-05-15T19:52:34.964+09:00初めまして。私は阿波鳴門の土人です。
散歩の途中で写真のあま塚から徒歩数分のところにある十二神社の境...初めまして。私は阿波鳴門の土人です。<br />散歩の途中で写真のあま塚から徒歩数分のところにある十二神社の境内で蜑のおさしの井戸を見つけてそこにある石碑の解説でその付近が蜑屋敷跡でおさしの墓があったので古事記に興味を持っていろいろ読んでいるうちにここにたどり着きました。<br />写真のあま塚は近くの観音寺の管理で清少納言の墓として管理されているそうです。あま塚がある里浦に清少納言の父の所領であったそうですから尼塚説を否定するのには賛成できません。<br />土御門上皇の火葬塚は池ノ谷の阿波神社にもあるそうです。<br /><br />まだ古典を読み始めたばかりの初心者の私は地元のことに少し興味を持っています。<br />Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-718874097527579234.post-80981524510118530082013-05-14T10:39:15.954+09:002013-05-14T10:39:15.954+09:00ぐーたら先輩、「需要あり」に一票です!
古代史の旅って、自分のご先祖サマの由来につながらないと意味な...ぐーたら先輩、「需要あり」に一票です!<br />古代史の旅って、自分のご先祖サマの由来につながらないと意味ないと思うんです。この調子で阿波の村々すべてを(過労死されない範囲で)ぜひ!<br />特に池ノ谷には天皇山なんていうのがあったようなので期待しています。<br /><br />あま塚、知りませんでした。<br />Wikipediaにも清少納言の墓所候補の一つとして載せられていますね:「徳島県鳴門市里浦町里浦坂田 - 比丘尼の姿で阿波里浦に漂着し、その後辱めを受けんとし自らの陰部をえぐり投げつけ姿を消し、尼塚という供養塔を建てたという。」<br />壮絶…、でもちょっとありえない話。ぜひ決着をつけてくださいませ。ALI 爺noreply@blogger.com