2013年5月12日日曜日

阿波國続(後)風土記について(7)土御門天皇御舊跡考證(里浦の部)

タイトルがいよいよ、なんだか分らなくなってきました(笑)
前の記事も、もう忘れられてるでしょうしね(笑)

3月9日(土)阿波古事記研究会より、その7、なんですけど、今回からは純然たるおまけです。需要があるのかどうか不明なので、「土御門天皇御舊跡考證」シリーズ、アクセスが少なければ、止めときます(笑)


前回までは
阿波國続(後)風土記について(1)
阿波國続(後)風土記について(2)
阿波國続(後)風土記について(3)
阿波國続(後)風土記について(4)
阿波國続(後)風土記について(5)
阿波國続(後)風土記について(6)
読んでない方は見てから戻ってきてね。

今度のは「阿波國続(後)風土記雑纂」に収録されていたのではなく、別途残っていた資料からです。

「阿波國後風土記舊跡之部 土御門天皇御舊跡考證 草稿」

松浦長年の手によるものです。
土御門天皇についてwikipediaなどを見てみますと

土御門天皇(つちみかどてんのう、建久6年12月2日(1196年12月23日) - 寛喜3年10月11日(1231年11月6日))は鎌倉時代の第83代天皇(在位:建久9年1月11日 (1198年2月18日) - 承元4年11月25日(1210年12月12日))。諱は為仁(ためひと)。

略歴 
建久9年1月11日(1198年2月18日)、父・後鳥羽天皇の譲位により3歳で践祚。立太子はしていなかった。同年3月3日(4月10日)、即位。事実上後鳥羽上皇による院政がしかれていた。しかし、穏和な性格が幕府との関係上心許ないと見た後鳥羽上皇は、退位を迫り、承元4年11月25日(1210年12月12日)、異母弟の順徳天皇に譲位し、同年12月5日(12月22日)、上皇。
京都では、外祖父である源通親が別当として権力を掌握し、鎌倉では正治元年1月13日(1199年2月9日)に源頼朝が亡くなり、事実上北条時政による御家人政治が行われていた。
承久3年(1221年)の承久の乱のおりには、土御門上皇は何も関与していなかったので処罰の対象にはならなかったが、父である後鳥羽院が遠流であるのに、自分が京にいるのは忍びないと、自ら申し出て土佐国に流された。後に、より都に近い阿波国に移された。鎌倉幕府も後鳥羽・順徳両上皇とは違って、守護に対して阿波の宮殿を造営させるなどの厚遇振りを見せている。
寛喜3年(1231年)10月に出家し、同月崩御。

と、紋切り型の説明しか載っておりませんが、要はこの土御門天皇が土成において最期を迎えられ、その伝承が阿波国に数多く残っていると云うものです。
ボクも前にちょろっとだけ
で、つまみ食いみたいに書きましたが、こんなのより
「どなり古事記研究会」様の「民話に残る帝のご最期」などを見ていただいた方が、よっぽど分りやすいと思います。
さて、それでもって予備知識を入れていただいてからはじめます。
まずは鳴門市の里浦に「あま塚」というのがございまして、これが清少納言の墓であるとか、、この土御門天皇の墓であるとかという伝承が入り乱れておりまして
これも、以前に「清少納言の墓」でかいておりますし、「蜑(あま)の男狭磯(おさし)(上)」で、明治43年頃「田山花袋」の書いた「新撰名勝地誌」の「清少納言墓」の項目を引き合いに出しております。
いかん、いかん、前置きばっかで一向に始まらんではないですか。
憶えておいて欲しいのが
里浦に「あま塚」というものがあって


「清少納言」の墓か、「土御門天皇」の墓であるか、あるいは陰陽師「安倍晴明」の墓であるかという複数説があるので、そこを考証します、と言う一文なのです。
ひじょーに読みにくい文で、ワタクシ、勝手に区切りや改行を入れてます。
で、途中にワタクシの意訳(そんないいモノじゃないです)を色を変えて書いております、相当はしょってあるので、そこらはご賢察の程、疑わしきは本文をご参照くださいませ。(まあ、逃げですな)

土御門天皇御舊跡考證

里浦古跡
 撫養町里浦に今も現在せる所の古跡を土御門天皇乃廟陵の由申傅へます清少納言の塚とも申唱へ候さて松下西峯が前王廟陵記に里浦撫養村有土御門院陵平地積石と記し置申候
 又蒲生秀實か山陵志も此書に雷同し且は御祭日年毎の十月十一日なるを以て土御門院御忌日に當りきと傍證に出していよいよ此處を御陵の地に定め申候又細井知慎が諸陵周垣記にも里浦と記し申候

里浦にある土御門天皇乃廟陵を清少納言の塚と言ったりもするのですが、蒲生秀實の「山陵志」もそうだと書いてあり、祭日も土御門院御忌日と同じ十月十一日なんだよ。
ってことですね。

 又當國人先輩吉井氏も里浦とし赤堀永井の両氏は池ノ谷村歟と云ながら猶里浦をも捨兼候はよるべ定欠ぬ舟の心地に御座候
さはかり諸説どもの限りあきもあきも此里浦に大凡相決し申候へ共重し愚考仕候処惣帝陵は山陵と唱来り候如し多分は山岳により申候が古制にて御座候

吉井氏も里浦とし赤堀永井の両氏も里浦説が捨てきれない、とは言うモノの、大体、御陵っていうのは山に造るのがふつーじゃないっすか。

 尤も山城大和は海なき國にて激浪の憂いあらざるが故に山岳を放れたる平陵も多く相見へ候へ共海國は其例にては無御座候凡て山陵乃形象は丸山宮車の躰古法に假所嵯峨天皇薄葵の御遺詔ありて後にも又火化(大化?)など始り御陵の儀一定なく大に沿革仕り候へ共いつの御制度にも大川激流に近き地なとば甚く憚り除給ひて営み申候

大和(奈良)なんかは海が無いので、平地の例もあるようですがね。
でも大川激流に近いところは止めるでしょう。

 殊さら海國にての御處置はいよいよ山岳に寄候て相営み候事は既に隠岐國佐渡國などにて後鳥羽院は苅田山に順徳院は真野山に山陵の山陵たる古例に営み申たるにかねがね鎌倉に山なく思い奉る土御門院の御陵を(事?)も麁略になし奉り通例古實に違ひ山岳を隔てて里浦の如き海邊の平地ことさら本郡を難結し小島に至尊の御陵をいとなみ候儀は決して例なき御事に奉存候摠ての處置北條次第の時なれば彼の両帝の御陵に劣り給ふべくもあらば其は下文なる吉田村の條に相記置候如く厳重の御造営ありし意味にも矛盾仕候右等の時勢地理などを考合仕候へば返々も此浦は御陵地に無之御遊幸跡と相見え申候

隠岐國佐渡國など海に近いところはいよいよ山に(御陵を)つくってますよね、
後鳥羽院は苅田山に順徳院は真野山にってね。
それを考えたら、この(里浦の)地は御遊幸の跡じゃないっすか?

 右帝陵に限らず高貴な御墓地は専ら山地に(偏?)り営み候例にて海邊は激浪沈没の恐れ御座候故其筈の御事と存奉今以て里浦の地は本郡に續かざる離れし島にて往昔ハ木津浦まで波立ちり多(?)りて淡路の福良の驛より當國へ渡海致すには大谷村の石園と申処驛傅即ち船着にて候へば承久貞應の頃までも里浦近村は不残海中有之趣に相見え申候此事は當國古驛考と戸拙作に委しく記し可申儀に御座候

くりかえしますが、右帝陵に限らず高貴な御墓地は大体山地にあるし、海辺は水没するかもしれないんで、造らないと思います。
また淡路から阿波に渡る時は福良の驛から大谷の石園という驛に渡ったので、里浦には直接渡らないでしょう。ここらは「當國古驛考」と「戸拙作」に詳しく載ってます。

 また清少納言の事は里浦の申傅に六人の蜑(あま)ども打寄て殺害なし衣裳を剥取しとの儀に御座候
 此傅へは實に浮(る?)る説なるが上にさる情なき者共なれば清(女?)骸は其まま海中に投入申べきに今も其塚の邊を御墓と云い其地下に二間四方許の石面ありと申せばさばかり零落に及びし清女か墓てふは決して有ましき事に御座候

また清少納言の墓であると云う説は、もし、清少納言が六人の蜑(あま)に殺されたのならば、遺体は海中に棄てられ、墓なんて残る筈がないと思います。また、零落した清少納言の墓が地下に二間四方の石面がある(程の立派な)墓であるはずがないじゃありませんか。

 此は清明が墓と申志傅へし(は?)當國に阿部(原文まま)清明の縁なきにより玄旨法印百人一首抄に清少納言志の後には四國のほとりにおちぶれて有し由に傅ると云ふ附会し清明を清女と轉じ云へるにて好事の人の業と相見え申候

これが(安倍)晴明の墓であると云う伝承もあるようですが、当国には(安倍)晴明との縁も無く、清少納言の伝承を聞いた誰かが「清明」と「清女」を混同したんじゃないでしょうか。

 讃岐國に清女が墓あるよしものに見え候へ共夫も慥(たしか)ならぬ事に奉存候
 老後迠(まで)も父元輔が家の跡に往きし事は新古今集に明文御座候
 さて清明の由緒は土御門たる同称の混亂なる事吉田村古跡の條に記置候まず(?)里浦の文書に此浦に土御門院を奉蔡と申傅御陵の高さは一尺七八寸方八尺許の古墳と記し御座候よし是則廟陵記に所謂平地に石積とあるに同し趣にて石を積事高さ一尺七八寸方八尺許も相営み天皇の御衣尉などを石櫃に納め奉りて假宮の御跡を遺せし昔時質素の面影にて後人の業たる今の宝篋印塔(ほうきょういんとう)
(注)宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種である。五輪塔とともに、石造の遺品が多い。
に勝せ(?)る事遥かにて御座候

清少納言は老後までも父親の元輔の家で住んでいた事は新古今集にもあるので、間違いないですよ。(安倍)晴明の由緒は土御門家なので土御門院と混同してるんじゃないでしょうか。

 いづれ里浦の古跡は天皇海邊御遊覧の節此浦は殊更名高き名所なる故に深くも叡慮の留らせ給ひしより別ての御旧跡に相成候義と奉存候早雲氏も假宮の廃跡にて可有之哉とのみは(?)疑い置き多(た)る如くにて御座候

どっちにしても里浦の古跡は土御門天皇の御遊覧の趾だと思います。早雲氏も天皇の仮宮って言ってるので、他の事は疑わしい事が多いでしょう。

 さて古来より御墓と唱へ奉り或年毎の御祭日十月十一日なるも聖忌に符合し或は二間四方の石面の事の只ならぬ或は里俗土御門院御陵と申傅へ候事など何きも近来の義と相見え不申候既に先輩の諸説大半此地と定め申程の事にて一朝一夕の義にては無御座候

でも、昔から御墓と言い伝えて、御祭日も十月十一日で聖忌に符合してますし、地元の人や先輩方も言ってますね、最近云い始めたんじゃないようです。

 尤(もっとも)今に外廻拾間程の所耕作等も不仕荒地にいま(?)し置候事は元禄巳来の義と奉存候凡ての御模様一通ならず相見え候へ共上にも申す如く山陵にては決して無之御遊幸地の御舊跡なる事はさらに疑いなく奉存候猶下文に相記志(し)御座候
 大炊天皇(淳仁天皇(じゅんにんてんのう)?)崇徳天皇後鳥羽天皇順徳天皇など御例を御引合せ御覧被下度候古語に觸類得活法と申候はかゝる事にて御座候かと存奉候

でも、やっぱり山に造ってる訳じゃないし、御遊幸地の御舊跡だと言う事で、間違いないと思います。

以上 里浦古跡の部

すごい、はしょり具合だなんて言わないでね。見ての通り、文章が「くどい」(笑)。
人の事を言うなって、聞こえてきそうですけど(笑)
ですので、松浦長年の説は、土御門天皇御遊幸の地跡だという結論ですね。
上で出した「田山花袋」の「新撰名勝地誌」にも「里浦は即ちその行在にやと疑わるる説....」とあり(行在は行宮と同じ)、やっぱこの線なんでしょうかね。
安倍晴明の墓なんて説は、ボクは聞いた事がなく、松浦氏もあっさり却下してるようなんで、スルーしときます。
ま、安倍晴明の墓の可能性がちょっとでもあるようなら、最近の歴女にウケそうなんで、鳴門市観光課などが大々的に売り出せばいいんじゃないかと思ったりもしてたんですが(笑)そうもいかないようですね。

さて、まず里浦はこの線でカタが付きそうなんですが、この後「池ノ谷村古跡」「下ノ庄村古跡」「吉田村古跡」「柿原村古跡」と続きますが、需要はあるのか?
なければ、次の稿へ進むんですが。

いや、単に転載するのがチョーめんどくさいだけなんですけど。
(この一文入力するのに、すっごい時間かかるのよ)


9 件のコメント:

  1. ぐーたら先輩、「需要あり」に一票です!
    古代史の旅って、自分のご先祖サマの由来につながらないと意味ないと思うんです。この調子で阿波の村々すべてを(過労死されない範囲で)ぜひ!
    特に池ノ谷には天皇山なんていうのがあったようなので期待しています。

    あま塚、知りませんでした。
    Wikipediaにも清少納言の墓所候補の一つとして載せられていますね:「徳島県鳴門市里浦町里浦坂田 - 比丘尼の姿で阿波里浦に漂着し、その後辱めを受けんとし自らの陰部をえぐり投げつけ姿を消し、尼塚という供養塔を建てたという。」
    壮絶…、でもちょっとありえない話。ぜひ決着をつけてくださいませ。

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    1. おおっと、需要がありましたか(笑)
      ALI 爺さん、調べまくってますでしょうに(笑)
      で、阿波の村々すべてですと?!!
      そりゃ、死んじゃいますよ(笑)
      キレイなお嬢さんにムラムラするなら元気になるんでしょうけど(あ、お下品ね)
      では次は「池ノ谷」行きま〜す。

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  2. 初めまして。私は阿波鳴門の土人です。
    散歩の途中で写真のあま塚から徒歩数分のところにある十二神社の境内で蜑のおさしの井戸を見つけてそこにある石碑の解説でその付近が蜑屋敷跡でおさしの墓があったので古事記に興味を持っていろいろ読んでいるうちにここにたどり着きました。
    写真のあま塚は近くの観音寺の管理で清少納言の墓として管理されているそうです。あま塚がある里浦に清少納言の父の所領であったそうですから尼塚説を否定するのには賛成できません。
    土御門上皇の火葬塚は池ノ谷の阿波神社にもあるそうです。

    まだ古典を読み始めたばかりの初心者の私は地元のことに少し興味を持っています。

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    1. はじめまして、よろしくお願いします。
      >清少納言の父の所領であったそうですから尼塚説を否定するのには賛成できません。
      どんどん否定して下さい。
      書きっぱなしでは、淋しいですので(笑)
      皆様の意見が聞きたいのです。そうでなくては、見えるものも見えてきません。
      特に、この稿は「考證」を紹介させてもらってます。
      次は「池ノ谷」の部を紹介させてもらいます。
      またご意見お聞かせください。
      あ、できればハンドルネームなど使っていただければ、ありがたいんですが。
      名前の入力が無いと、全部「匿名」になってしまって、誰がどのコメントやら分らなくなってしまいますので。

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    2. 鳴門の土人です。
      ぐーたらさんの清少納言の墓の記事も読みました。このお堂の詳しい情報を入れます。
      記事には大塚堂となっていましたが天塚堂というそうです。Googleの地図のせいで間違えたのではないでしょうか。
      このお堂は昔、隣に尼さんが居て(清少庵)管理をしていたのが戦後の法改正で観音寺の管理になったそうで清少庵は建て替えの工事をしています。
      お堂の内部の写真は上村恵三朗さんの”清少納言は鳴門で・・”に載っています。
      このお堂について尋ねたところ江戸時代の資料も残っているので清少納言の墓でほぼ間違いないそうです。

      ” こんなお墓もありました。”と載せてあったお墓の写真はお堂を管理していた尼さんのお墓のようですね。
      お堂の前の藤棚と案内看板は鳴門市の所有でお堂とは直接の関係はないそうです。
      この案内看板は40年くらい前から同じものがあったと思いますが鳴門市が観光用に作ったものでしょうか。
      ぐーたらさんが引用している阿波の民話にも清原元輔の領地のことは出ていますし、赤目の話で符合する人丸神社はお堂から300mほどですから江戸時代から残っているという資料を裏付けるものでしょう。
      案内看板にある蜑塚説は十二神社の蜑の井や蜑屋敷,男狭磯の墓から100mほどなので同じものの可能性がある。また、内部の墓が都落ちした宮女の墓にしては立派すぎるので土御門上皇の天塚説もあるが天塚にしては貧弱すぎるといったところでしょうか。

      子供のころは胡散臭い話だと思っていたものがいろいろ調べてみたら本当の話だと思えてきました。

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    3. お返事遅くなりました。
      詳しい調査ありがとうございます。
      凄いですね、状況証拠が揃ってきましたね。相当信憑性が出てきたと思います。
      他にも里浦、清少納言説を推す人も多くいるようで、かなり「来てる」と思います。
      確かに「土御門上皇の天塚」ではないでしょうし、藤棚と案内看板がお堂と関係ないのも分ります(笑)
      ただ、他の文献に晩年の様子が出ているものもあり(『古事談』とか、『古今著聞集』とかね)そこいらは、調べてみるべきでしょう。また、香川県琴平金刀比羅神社大門 にも清塚があり(ここは「清少納言夢告げの碑」だから無視してもいいような気が)ますし。
      それにしても、ここが清少納言の墓だったとしても、ちょっと淋しすぎる話ですね(余談でした)。

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    4. 鳴門の土人です。
      ぐーたらさんにお願いがあります。
      ” 他の文献に晩年の様子が出ているものもあり(『古事談』とか、『古今著聞集』とかね)そこいらは、調べてみるべきでしょう”
       と言われたのですが、私は素人で文献を読むのはちょっと無理です。
      関連する記事を読んでいて気になる記事を見つけたのですがブログは
      ” しばらくお休みさせていただきます。”
      となっていて問い合わせすることもできません。
      ” 枕草子談義 (その6の②)”
      の記事に
      ” 余談であるが、清少納言の最後は、一説によると、土佐から京への帰り道、徳島の鳴門、岡崎海岸で乗っていた船が襲われて、殺されたといわれる。 享年60余歳か。 その墓が今も鳴戸市里浦町にあり、ある住宅地図にも 「清少納言の墓」と記されているらしい。 その墓のすぐそばにある家は 元 清少納言の家来で、 今も代々墓守をしているという。 機会があれば、ぜひ私もお参りして、線香をたむけてみたい。”
      とありました。
      文献を考証していただけないでしょうか。

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    5. 清少納言の出てくる文献は、結構あるので、そこらを出して行くのは時間的にもキツいものがあります。
      とはいうものの、それでは納得できない部分もあると思いますので、ちょっとだけ出してみますね。

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    6. 次の記事
      http://goutara.blogspot.jp/2013/05/blog-post_27.html
      にちょっとだけ書いてみました。
      御覧下さい。

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