でまあ、吉備津彦命の弟である稚武彦命(わかたけひこのみこと)が讃留霊王ではないか
などとほざいてみた訳なんですが(後悔!!!)。
そんなに大した考証をしてる訳じゃなく、まず一つ目の理由。
日本武尊(72年頃–113年頃)の皇子
稲依別王(いなよりわけのみこ) - 犬上君、建部君の祖。
足仲彦天皇(仲哀天皇)
稚武王(わかたけのみこ) - 近江建部君の祖、宮道君等の祖(『先代旧事本紀』)。
武卵王(たけかいこのみこ、武殻王・建貝児王) - 讃岐綾君・宮道君の祖。
十城別王(とおきわけのみこ) - 伊予別君の祖。
稚武彦王(わかたけひこのみこ)
足鏡別王 (あしかがみわけのみこ、蘆髪蒲見別王・葦噉竈見別王) - 鎌倉別の祖。
息長田別王(おきながたわけのみこ。『古事記』、『先代旧事本紀』) - 阿波君等の祖(『先代旧事本紀』)。
孝霊天皇(紀元前342年- 紀元前215年)の皇子
大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと、孝元天皇)
日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと。『古事記』のみ)
彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、吉備津彦命)
彦狭島命(ひこさしまのみこと、日子寤間命)
稚武彦命(わかたけひこのみこと) 吉備氏の祖。
ちょっと見にくいので皇女は除いてますが、他意はありません。
日本武尊と孝霊天皇どちらにも「稚武彦」がいらっしゃいます。
日本武尊は「常陸国風土記」では「倭武天皇」、『阿波国風土記』逸文では「倭健天皇」
と天皇であったと記されております。
そして、もう一つの理由。
吉備津神社の社伝
吉備津彦命は吉備の中山の麓に茅葺宮を造って住み、281歳で亡くなって中山の山頂(茶臼山)に葬られた。
さあ、計算しましょう。吉備津彦命がいつ生まれたか定かではありませんが日本武尊と
孝霊天皇の年代を考えると、これで妙に合ってきませんか。
これで考えられることは
1 日本武尊と孝霊天皇が同一人物だった
2 孝霊天皇皇子の稚武彦命と日本武尊皇子の稚武彦命を同一視している
3 やっぱ吉備津彦命の弟である稚武彦命は讃留霊王じゃなかった
わあ、一番ありそうな(2)が一番面白くないなぁ。
(3)は無視ね(笑)。
もちろん、日本武尊と孝霊天皇が同一人物だったとはいいません。
他の皇子、皇女の説明がつかないからです。
その後の天皇の記録の説明がつかないからです。
もちろん欠史八代(缺史八代)天皇の記録が全て正しいと言えるかは別ですよ。
意図的にではなくとも誤りがあるかもしれません。
あるいは、よく言われるように数人の天皇間で混同があるのかもしれません。
ちなみに、神山町◯◯の◯◯姓の一族は孝霊天皇の末裔であるとの伝承と家系図を
持っているそうです(差し障りがあるといけないので姓はナイショ)
見て下さい。両天皇(あえてこう書きますが)の皇子、皇女たち。
徳島市不動町の天佐自能和気神社には
日子刺肩別尊(孝霊天皇皇子)
意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命(孝霊天皇妃で倭国香媛(やまとのくにかひめ)のこと)
が祀られ(下の写真は天佐自能和気神社)
徳島市上八万町の宅宮神社には孝霊天皇皇子の「稚武彦命」が祀られております。
(下の写真は宅宮神社)
また、日本武尊の妃、弟橘媛(おとたちばなひめ)は讃岐の国、香川県善通寺市大麻町の
式内社「大麻(おおさ)神社」の神主、穂積氏忍山宿弥(ほづみのうじおしやまのすくね)
の娘として生まれました。(先代旧事本紀より)
丸亀京極家編纂の「西讃府誌」にも「相伝ふ弟橘姫(おとたちばなひめ)は讃岐人
穂積氏忍山宿弥(おしやますくね)の娘なり」という記述があるそうです。
その弟橘媛と日本武尊の間に生まれたのが「稚武彦命」なのです。
(下の写真は善通寺市「大麻(おおさ)神社」、写真は「すえドン」大先生よりお借り
いたしました、ありがとうございます。)
(すえドンのフォト日記「「大麻神社」・善通寺市♪」)
またまた、日本武尊の皇子、息長田別王(おきながたわけのみこ)は徳島県名西郡
石井町の尼木で阿波国を治めておりました。
ボクの記事で悪いですけど「息長田別王」はどこに」を見てね。
そして、今回詳しくは書かないけど、東かがわ市には日本武尊白鳥伝説の「白鳥神社」
阿波国、石井町には「白鳥宮」。
全てが阿波国から讃岐国で収まってしまうのです。
本題に戻り、考え直してみれば桃太郎伝説は、四国から吉備へ出兵した吉備津彦命
稚武彦命、と讃留霊王伝説がどこかで混同されて作られたのではないでしょうか。
でも、それは大和から発したものでないことは、お分かりですよね。
というわけで、決定的な結論は出てませんが(そんなもんが出たらワタクシ今頃こんな
ブログ書いてませんがな)おぼろげな形が見えてきませんか。
また追記があれば書かせていただきますが、今回はこの辺で。
おまけ
善通寺市「大麻(おおさ)神社(社伝)に、「神武天皇の時代、当国忌部氏、阿波忌部と
協力して讃岐を開拓し、此の地に麻を植え、殖産興業の途を開かれ、国利民福の基を進め
その祖神天太玉命を祀り、大麻天神と奉称し、村の名を大麻と云う。」とある。
(「大麻神社」・善通寺市♪より)
とあります讃岐忌部の祖神は手置帆負命(たおきほおひのみこと)でありますが、この
手置帆負命、阿波忌部の祖神「天富命」と共に千葉の南房総へ進出しております。
それが千葉県南房総市に鎮座する式内社「莫越山神社(なこしやまじんじゃ)」
千葉県南房総市宮下の莫越山神社と千葉県南房総市沓見の沓見莫越山神社がありますが
どちらも同様の由緒。
宮下の莫越山神社由緒では
当社は、天正天皇養老二年(七一八)、勅願所にかかり地を賜る。神武天皇辛酉元年
天富命は阿波の忌部を率いて、当国に下り給う。この時小民命、御道命の請により
その祖手置帆負命、彦狭知命を祭祀し、延喜式に載する安房六座中小四座の一なり。
古語拾遺に曰く天照大神、高皇産霊尊が天児屋根命、天太玉命に勅令して、番匠諸職の
神々を天降された時にこの手置帆負命、彦狭知命を棟梁の神とされもろもろの工匠を率い
て、日向国高千穂櫛触の峰に行宮を造り、天孫(迩迩芸命)の皇居を定めた。
以下略
となっております。
(写真はGoogle画像検索からのパクリ、何かあれば削除します)
神武天皇辛酉元年ですと!
ぐーたらさん、こんばんは。(^O^☆♪
返信削除まとまってないとか言いながら、ある程度まとまっているじゃないですか!(当人の満足度の問題かもしれませんが…。)
私もいろいろ調べたのですが讃岐の寺社仏閣も面白いですね。阿波国(倭国)の神社や祭神、忌部氏の知識をある程度持ちあわせていれば関連性があって入りやすいと思いました。
あ、それと前に教えて戴いたポイント(息長田別王の居城)にまだ行けてないので近いうちに行ってきます。
それではまた!(^O^)/
to きよっさん
返信削除そっかなぁ、ざーとらしいつぶやきってなんなんだろなぁ(笑笑笑)
讃岐の神社仏閣等はあまり行けてないんですが、地続き、道続きで関連があって
面白いと思います。
特に西讃の方は阿波忌部との関わりが深くて、その辺りを見るのもいいなって
ことですね。
あと、箸蔵と金比羅の関係とかね。
toぐーたら先生。
返信削除このパートは、皆勤賞をねらってがんばりました。
が、さっぱりついて行けず、、、。
ここに訪れる方は本当に深く理解されている方が多くお恥ずかしいことです。
でもですねぇ、吉備津彦命も尊敬している吉備真備さま故か、大変興味があったのです。
いつか、追記をよろしくおねがいします。
莫越山神社由緒をみて、あらためてビックリ!
ふーん、そーなんだぁー。
to babymamaさん
返信削除ごめんなさい。
すなおに謝ってしまいます。
結果的にちょっと道を外してしまいました。
おっしゃるように追記で頑張ってみます(いつのことやらって?)
でも、莫越山神社由緒は面白いでしょ。
関東の方は阿波忌部の独壇場です。
酉の市のこととか調べてみてね。
たとえば東京の鷲神社(おおとりじんじゃ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/鷲神社_(台東区)
よく分るから。
遅ればせながら一言を
返信削除阿波志板野郡の地図を眺めていて驚きました。私が以前から想定していた物語がここに再現できます。
吉野川は今と違って大うねり、川の間に多くの島あり。
そこに藤太夫塚があります。粟島、知恵島もあり。
藤太夫即ち、桃太郎です。塚なので岡になっていたと推測できます。
雉は鍵(川の流れを切り替える最上流側の水たまり。)猿は本流近くの讃留のざる池。
犬は孤立した普通の池。藤太夫塚の島には3種類の池が有った。
岡の土を持ってきてそれぞれの池を埋めて立派な水田に仕上げた。
吉備団子は団子三兄弟:属性は土の塊り。なお、百は川、ももは川と川
ももの間とは二つの川に挟まれた場所。太郎は島を意味しています。
因みに、桃太郎とは温羅(韓ttatteushanlou:とうたろう)
粟島、知恵島は共に砂洲島の様です。 これはもうそうかな
それより、淡海の話はどうなったんですか?
削除書き逃げですかね。
淡海は琵琶湖でないってことでいいんですか?
そうでないなら理由を示していただけませんか。
ボクはちゃんと返事してるつもりなんですが。
それと井戸寺が海の底じゃないって話。
あれも、お返事いただいてませんが。